政務調査費(2006.12.15) 議員に支給される手当に政務調査費というのがある。この政務調査費を飲食費や自分の車の車検費用などに利用する不適切使用が目黒区や品川区で明るみに出て問題となった▼政務調査費とは、自治体が議会の会派や議員に「調査研究の必要経費」として交付するもので、自治法の改正で01年度から制度化された。県下でも県議会のほか26市町議会に支出されている。交付額や領収書の添付義務の有無は条例で定めることになっているが、県と横浜、川崎、横須賀、相模原、厚木、大和、城山の8議会は領収書の提出義務がない▼この政務調査費の使用目的は、研修費、調査旅費、資料購入費、人件費といったものに使われるが、領収書の添付義務がなければ、使用実態が不透明となり、「第2の議員報酬」と批判されるゆえんだ▼議員一人あたりの交付額が最も多いのが横浜市の55万円、次いで県53万円、川崎市45万円、横須賀市13万9千円の順で、 厚木市は6万円である。愛川町は06年4月から1万円を交付、清川村は交付していない。政務調査費が高額な議会ほど領収書の提出義務がないという▼使用目的を裏づける領収書を提出しないのでは、議員報酬とみられても仕方がないが、義務づけても誤魔化すのが出てくるだろうから、政務調査費は個人に交付するのではなく、議員が物品やサービスの提供を受ける業者、小売店、雇われ者に対して自治体から直接支払うシステムにしてはどうか。申請がない場合、交付されないのはもちろんである。 多選の是非(2006.12.01) 来年1月に行われる厚木市長選に出馬表明した小林常良県議は、長期政権は弊害が出るとして「多選の是非」を有権者に問いたいと述べた。小林県議は公約として「多選禁止条例」の制定を目指すとしているので、市長選の最大の争点になることは避けられない▼4選を目指して出馬表明をしている山口市長も、12年前の市長選出馬の記者会見で「4期目以上は多選とされるが、私もそう思う」(神奈川・読売新聞)と述べ、当時5選に意欲を示していた足立原市長を牽制、多選批判を展開した▼だが10月2日の出馬表明では「私の口から(3期までということ)は一度も言ったことはない」と述べ、11月21日の定例会見でも「多選は政治家の資質の問題。短くても駄目な首長はいっぱいいる。市民が判断すること」と当時の発言とはまったく異なった見解を述べているのである▼官製談合事件で福島や和歌山の両県知事が逮捕されるなど、首長の多選問題はこれまでになく世論の関心を集めている。政党でも民主・公明は多選禁止。自民党でさえ4選を目指す都道府県知事、政令市長を推薦しないことを決めている▼多選禁止が条例化されれば、首長は2期8年ないし3期12年で仕事をしなければならない。山口市長のように「12年で土台を作った。これから家を建てる」などとのんびりしたことは言っておれなくなるのである▼清川村の山口村長は2期目だが、先頃、今期限りで出馬しないことを表明した。多選の是非を有権者が判断する前に、自ら示した見識に敬意を表したい。 本物の死(2006.11.15) いじめで自殺する子どもたちが増えている。命の重さを知らない子どもたちに悪魔がささやき、人間の命を簡単に奪わせているようだ。ある学校で子どもたちに、「人が死んだら生き返ることができるか」と聞いたところ、「イエス」と答えたのが半数以上あったという。現代の子どもたちは、人間は一度死んでもリセットできると考えているのである▼ドイツの小学校では、人間は死ぬとどうなるか、どういうプロセスで腐敗し骨になっていくか。人間は誰でも突然死ぬ可能性がある。それはアニメなどで描かれるような美しいものではない。苦しみもなく天国へ行けるわけでもない。死は恐ろしく苦しく、醜いものである。死は家族や周囲の人間を悲しませるし、その悲しみを癒す意味もあって葬儀という儀式が生まれたということを子どもの時から教えている▼ところが日本では、死は残酷だから子どもたちに見せてはいけないものとされてきた。子どもたちが交通事故などで死に遭遇すると、大人たちは「みちゃ駄目!見ないで!すぐ家に入りなさい」と追い立ててしまうのである。動物の死骸でさえ子に見せることをしない親が多い。だから子どもたちは本物の死を知らないのである▼偽物の死があふれている時代、子どもたちから死を遠ざけるのをやめて、できるだけ、本物の死の怖さ、苦しさ、醜さ、悲しさをリアルに実感させる機会を増やしてやるべきだろう。どんなに苦しくても死だけは選ばない。死はとても恐い−本物の死は生を教えてくれるのである。 無党派層(2006.11.01) 固定した支持政党を持たず、気分や状況に応じて投票に行ったり行かなかったりする人たちを無党派層という。有権者の3割は無党派層といわれ、昨今は無党派層の投票行動が当落を大きく左右する▼この無党派層というのは政治の満足度もさることながら、情緒的でメディアに左右されやすく、演出の面白さなどで投票行動に出る人たちでもある。しかも何かのきっかけで「政治的無気力」から一気に「政治的観衆」へと姿を変える。彼らが動くとウェーブになるのである▼フランスの哲学者スティグレールは「(現代は)過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった」と説明、 こうした現象を「象徴的貧困」と指摘している。無党派層を含め、日本の国民の大多数がそうした傾向にあるのが、昨今の特徴だろう▼ところで優勝劣敗の社会では2割の原則が働くといわれている。2割が優秀で、6割がどっちつかず、残りの2割が困った存在になるというのである。これは経済の分野で強く出る現象だ。同一業種が一社または数社に淘汰されてしまうのである。そうした弱肉強食でグローバル化が進む社会では、2割以外は負け組になる▼政治の世界は弱肉強食ではないから有権者の象徴的貧困が進んでも、投票次第では負け組にはならない。しかし政治の世界では、勝ち馬に乗ったと思ったが、いつの間にか負け組になっていたという例もある。昨今は勝ち馬の嘘を見破れないのも無党派層だ。 土台づくり(2006.10.15) 厚木市の山口巌雄市長が来年1月に行われる市長選に、4選を目指して出馬すると表明した。記者会見では首長の多選問題が質問に出たが、今回の選挙は多選問題が争点になるのは避けられない▼多選による弊害は、首長は一人で絶大な権限(人事権・予算編成権・許認可権など)をもっているため、政権が長期にわたると独裁的になり、業者と癒着が起こるというものである。要するにに水がよどめばボウフラが湧くという考えだ▼福島県の談合問題や岐阜県の裏金問題などは知事の多選による弊害とも指摘されている。平成15年3月、東京杉並区の山田区長は、「区長は通算3期を超えて在任することのないよう努める」という区長の在任期間に関する条例案を提出、制定にこぎつけた。この問題については、憲法や法律上の制約もあるが、以後、いくつかの自治体で首長の多選禁止に関する条例が成立している▼山口市長は会見で「家を建てるならば土台まで出来上がった、今後は市民の求める家を立ち上げたい」と出馬の 抱負を述べたが、土台を作るのに12年もかかるのだろうか。もしそうだとするなら、上物にはあと何年かかるのだろう?▼1期目で土台作り、2期目で家を建て、3期目が仕上げというのが3期12年説の根拠だが、いくらなんでも土台に12年はかかりすぎである。首長の中には2期で土台と家づくりを立派に成し遂げた人もいる。要は本人の力量なのだが、「これから家を建てる」と聞くと、「えっ、冗談でしょう」と言いたくなる。 役所(人)が変わらない理由(2006.10.01) かつてお役所は食料費・出張費、交際費を湯水のように使っていた時代があった。国民の厳しい批判を浴びたため、今度は歳出を誤魔化して裏金を作るという行為に及んだのが岐阜県の裏金問題である▼管理に困った挙句、現金を焼却処分にしたというのだから、納税者の気持やお金の価値を一体どう考えているのか呆れて物が言えない。最近では大阪市役所のカラ残業や厚遇な福利厚生問題が批判の対象になった▲これまでお役所は国も地方も、数多くの不祥事を繰り返しては、反省を口にしてきたが、今やいくら改革を唱えても変わらないのは役所、信頼できないのは役人という言葉が代名詞になった感さえする▲役所が変わりようがないというのは2つの理由に基づいている。第1は役所が国や自治体に一つしかないため、競争原理が働かないこと。第2は役所は民間のように血のにじむような努力をしなくても「お金は天から降ってくるもの」という認識があるからだ▼競争がなくてお金は天から降ってくる、こんないい世界はない。そこに胡座をかくのが官僚である。つまり日本の役所は典型的な社会主義なのである。官僚が世の中を駄目にするということは社会主義が証明したはずなのに、国も地方も役所の構造改革は一向に進まない▼地位や身分を保護され、所得が保障された官僚には格差社会の負け組の気持などは分からないだろう。役人に身分保障があるとしたら、それは事務の執行において、いかなる政治的な影響も受けないという立場が守られるということのみにある。役人を減らして既得権を壊し、役所の構造改革を進めるリーダーが求められている。 言葉よりも実行(2006.09.15) モンゴルを馬で横断2千800キロの旅に2人の中学生とともに参加した高岡良助さんは、4月に現地調査をしたところ「なんてバカな日本人がいるのだろう」と一笑に付されたという▼20代に野宿とヒッチハイクで84カ国を訪問、ヒマラヤ、サハラも歩き、60歳でアメリカを自転車で横断した経験のある高岡さん。NPO法人「国際交流は子どもの時から・アジアの会」の代表として、この10年間はアジアを舞台に、ボランティア活動を行ってきた▼モンゴルの子どもたちには、絵本1万冊を送る運動や、毎年2千円を送金して母子家庭と極貧家庭の子どもたちが、安心して学校に行ける里親支援制度「スーホの白い馬」に取り組んでいる▼今回のプログラムは、不登校を経験した子どもたちが自然と共生し、強い体力と精神力を養い、生きる力を身につけるのが目的だった。「言葉や批評より実行することの方が大切」というのが高岡さんの持論で、「2人は生きていくための必要な全てを習得したと思う」と話している▼本人たちの「勇気と決断」はもちろん、自分の子をモンゴルの荒野に送り出す親の勇気と決断にも脱帽したという。スタート時は体調不良にも見舞われ、10キロも体重を落としてしまったという高岡さん。今回が一番きつかったと振り返る▼万年青年を自称する高岡さんは、来春はモンゴルへの移住を考えている。「バカにつける薬はない」と笑うが、「地球から落ちることはないだろう」というのが、高岡さんの答えだ。まさにチンギスハン以来の大冒険だった。 悪魔のささやき(2006.09.01) 精神科医で作家の加賀乙彦さんが、近著『悪魔のささやき』(集英社新書)で次のようなことを述べている。「人は意識と無意識の間の、ふわふわした心理状態にあるときに、犯罪を起こしたり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが「自分ではない者の意思」のような力、すなわち「悪魔のささやき」である▼犯罪者が「あのときは悪魔がささやいたのです」と告白するのをわれわれは幾たびも聞いたことがあるが、加賀さんはこのふわふわしてとりとめのない意識を「辺縁意識」だとして、中心もなく方向性もなく、緊張感もなく、平和で豊かな日常の中で、毎日ぼんやりと過ごしていると、何かちょっとしたこと(困ったことに遭遇したとか、強い刺激とか、誰かの声高な主張とか、時代の風潮とかを指す)がきっかけで、そうした意識に「悪魔のささやき」が働くと、ふらふらとそちらの方に動いていく、暴走していくと指摘している▼この「悪魔のささやき」というのはもちろん比喩であって、人間のふわふわした意識を動かすもの、人を奇妙な方向へと誘い出すものを指しているのだが、最近の日本人の行動を見ていると、それが集中して目立っているように思える▼加賀さんによると「日本人はもともと悪魔のささやきに弱い民族」である。それは「和を以て貴しとなす、忤(さから)うことなきを宗とす」(『十七条の憲法』)という日本人の行動意識にあるのだという。日本人はみんなで仲良くして、他人との関係を考えながら自分の進む方向を決めるという気質がある。よく言えば協調性はあるが、悪く言えば個がないということである。だから、誰かが大きな声でもってある方向への指示を出すと、その方向へ向かって次々と動いてしまうのである。もっと困るのは「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」(『後漢』のたとえ。一人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実として広めてしまう)に通ずることである▼いかにしてこの悪魔のささやきを避けることができるか。加賀さんは視界を360度に広げ、より遠くを見る癖をつける。宗教や目の前に現れた現象の本質を理解すること。死のむごさ、醜さと向き合い、「個」を育てることだとアドバイスしている▼確かに悪魔は人間の無知につけこんでくる。他人指向型の生活を変え、状況にのまれず、確固とした人生への態度を持つことが大切だ。 補選と厚木の地殻変動(2)(2006.08.01) 衆院神奈川16区補選は、亀井善之元農相の死去に伴う議席を選ぶだけでなく、小泉後の日本の政治、そして厚木という地方政治の行方を占う上でも大きな意味を持っている▼厚木というまちは伝統的に自己改革能力に乏しいところで、過去に政局が動いたのは、保守が分裂したときしかない。政権が3期も続くと閉塞的状況打開のために必ず保守陣営から対立候補が出てくるのだが、来年1月に市長選が行われるというのに、まだ手を挙げる人がいない▼そこで出てきたのが、衆院補選に乗じた厚木の改革である。つまり補選の結果次第で、その後に続く市長選に地殻変動を起こそうという考えだ。自民党が議席を確保すると変化は起きにくいが、民主党が議席を確保すると、ただちに市長選への仕掛けが始まるだろう。自民党支持者でさえそう思っているところに、厚木の深刻さがある▼厚木は伝統的に、保守が一本化すれば政局は動かないことになっている。だが、そうした図式がいつまで通用するだろうか。補選での自民対民主という対立の構図は、かつての保守・革新という図式とは全く異なる。それに政治の観衆と化した劇場型有権者意識も、そう単純ではないだろう▼要は厚木を変えたいという人たちの思いをどう集約化し、受け皿を用意できるかであろう。「すべては10月22日の16区補選から始まった」歴史がそう評価する日が来るのかも知れない。 不作為の罪(2006.07.15) 厚木テレコム社が破綻に追い込まれ、民事再生法の申請にいたったのは、バブル期の計画に大幅な狂いが生じたこと、特に初期において目的達成のための営業努力と決断力に乏しかったこと、第3セクター方式をとったため、経営責任が市にあるのかテレコム社にあるのか常に曖昧にされてきたことなどが原因で、これが負債を大きくふくらませ、再建計画が遅れることにつながった▼テレコム社自身の経営責任は当然だが、立ち上げから厚木市が筆頭株主として事業をリードしてきたこと、歴代社長に市役所OBを送り込んできたことなどを踏まえると、実質的な経営責任が市にあったことは明白で、金融機関は市が筆頭株主であることを理由に多額の融資を行ってきたのである▼山口市長にとっては前任者から負の遺産を引き継ぐという仕事ではあったにせよ、「株式会社であるから市の直接的な経営責任はない」などという議会答弁を繰り返し、11年間にわたって市が抜本的な対策を講じることをしなかったのは、まさに「不作為の罪」に等しい行為であったと言わざるをえない。延滞金免除という決断は、今後、延滞金未納企業への対応をどうするのかという新たな問題も生ずる▼完全民営化によって、情報通信基盤の整備という当初のコンセプトが消え去ることは避けられないが、市は所期の目的を達成できずに破綻を招いた政策責任と10億円近い損失金を出す結果になることを市民にどう説明し総括するのだろうか。市には一連の説明責任が問われている。 補選と厚木の地殻変動(2006.07.01) 衆院神奈川16区補選は、政権交代への道ばかりでなく、地元厚木の政治にも大きな地殻変動を起こす要因をはらんでいる。16区は大阪9区補選とともに、ポスト小泉における初の国政選挙となるため、新首相にとっては最初の大きな試練だ▼千葉補選の再現を狙う小沢民主党にとっても、補選の勝敗は来年の参院選挙へと続く政治決戦の行方を占う試金石。民主党は亀井善之氏の死去によって、固い保守地盤に守られ自民党の指定席ともいわれた16区で、議席を確保できる千載一遇のチャンスとみて、16区で勝てば政権交代は十分可能だと意気込んでいる▼自民党は亀井善太郎氏の「父の弔い合戦」が小選挙区でどこまで通用するか、世襲の是非と合わせて有権者に問われるであろうが、民主党にとっては前回衆院選でダブルスコアに近い自民党との票の開きを埋める作業は、並大抵ではない▼厚木は伝統的に自らの改革による政治の地核変動が起きにくいところだが、補選の結果が市長選、統一地方選に影響を及ぼすことは避けられない。一部には保守系が民主党を支援するという動きも見られ、その背景には市長選での政権交代を狙う思惑が見え隠れする▼構造改革後の政治が国民負担増に向かう中、自民党への逆風は避けられないが、政治の観衆と化した有権者が、どの候補のサポーターとなって選挙スタジアムに入るのか、厚木市民にとっては補選をバネに新しい改革の方向を見出すチャンスでもあろう。 棚沢への説明責任(2006.06.15) 厚木市のごみ中間処理施設建設候補地の選定問題で、棚沢地区住民が怒っているのは、候補地の選定について、一度も地元に説明や協議がなかったということである▼議会や公開質問状への市の答弁によると、地元自治会長に説明した後、臨時記者会見を行ったというが、自治会長へは報告しただけで、住民に十分検討する時間も与えず翌日新聞発表したのである▼市は地元の会合に出向いて説明する予定でいたというが、地元から「出席におよばない」と言われたので、協議を持たなかったと子どものいい訳のような説明をしているが、これでは施策推進上、最低限必要な説明責任を放棄したようなものではないか▼新聞報道以来、1年が経過するが、棚沢と市側は一度も話し合いが持たれず、議会の陳情も継続になっている。地元と市側の話し合いがないまま、議会が陳情を採決に持ち込むとしたなら、今度は議会が批判を受けるのは避けられない▼陳情は市長にも出ている。市側も議会審議の結果を待つというあなた任せの対応をとるのではなく、まず、地元へ出向き候補地選定の経過と理由を十分に説明することが必要だ。地元に何もしなかったという市の姿勢が問われているのである▼この場合、「説明したことが理解を得た」と勝手に思いこむのが行政側のやり方だが、そうした手法も改めなければならないのはいうまでもない。市民が主役とは、市民主導で積み上げた多様な意見をまとめ、施策に反映させることであるが、市のやり方はこれに逆行している。 百見は第六感にしかず(2006.06.01) 人間には視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五感がある。われわれは、この五感をフルに発揮して仕事をしたり、納得したり、疑問を持ったりして生きているのはいうまでもない▼五感のうちでもっとも偏重が広がっているのが視覚である。「百聞は一見にしかず」と言う諺があるが、われわれは視覚に頼った印象やイメージをことのほか重視するようになった。それに拍車をかけたのが視覚偏重主義に陥っているマスメディアだ。イラク戦争前にテレビが報道した大量破壊兵器の存在を印象づける報道はその典型である▼われわれはこの五感のほかに「第六感」というものがあることを知っている。『広辞苑』で引くと、第六感とは「五感のほかにあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき」とある▼政治学者の姜尚中さんは、差し迫った二者択一の問いに迷い、どう判断したらよいか分からぬ時には「第六感を磨け」「その時大事なことは、今という一点だけに凍結させて判断すると直感的な思いこみに過ぎなくなるが、歴史の時間の幅を広くして、過去との類比を行う思考実験を試みるといい」(『姜尚中の政治学入門』集英社新書)と述べている▼姜さんは、この思考実験を可能とするためには、「生物」情報の中でどれが危険でどれがそうでないのかを判断するための、学問とか歴史とかいわれる「干物」の知が必要だという。第六感を磨くためには、干物の味を何度も噛みしめておく必要があるのだ。されば「百見は第六感にしかず」である。 慈と悲・対治と同治(2006.05.15) 仏教に「慈悲」という言葉がある。簡単にいうならば「慈」は「がんばれ」という励ましの意で、「悲」とは文字通り「なぐさめ」だ▼悲しんでいる人に、「いつまでくよくよしているの。気を持ち直して頑張りなさい。さあ元気を出そう」というのが「慈」である。これに対して黙っていっしょに涙を流すことによって、その人の心の重荷を自分のほうに引き受けようとするのが「悲」であろう▼「がんばれ」という励ましは、右肩上がりで来た戦後日本の高度成長にふさわしい言葉であった。しかし、市場経済万能主義がはびこり、格差社会の進行で先行きの見通しが不安な社会になった今、心の病や末期ガンに冒されている人、今にも自殺するかも知れない人に、「がんばれ」という言葉が果たしてどれほどの効果を持つだろうか▼同じように仏教に「対治」と「同治」という言葉がある。例えば熱が出た時に氷で冷やしてあげるのが対治で、温かくして汗をかかせて熱を下げるやり方が同治である。「対治」はその状況を否定することから出発し、同治はその状況を受け入れるところから始まる▼西洋医学はまさに「対治」の思想である。これに対して東洋医学は「同治」の思想かも知れない。ガン細胞や病気、さまざまな人生の障害を「悪」と見なし、戦って勝つという姿勢で物事を解決しようというのには大きな無理があるように思う▼作家の五木寛之氏は「乾いた慈よりも湿った悲のほうが人々を不思議な安心感に誘ってくれる場合がある。いま日本が置かれている状況は新しい肯定の思想“悲”にあるのではないだろうか」と指摘している。 チーボの理論(2006.05.01) 厚木市の市民意識調査で市民の「住み続けたい」という定住意向が76・3%にも上ることが分かった。これとは逆に「転出したい」は9%である▼定住意向が高いのは、住民の間に家や土地があり、住み慣れた場所、生まれ育ったところという個別的事情があるからで、こうした人たちは住民サービスが低くてもすぐには移転したいという意識が働かない。つまり、定住意向が高いという意識は、他の自治体との比較や住民サービスの内容を考えた上での結果ではないのである▼アメリカのチャールズ・チーボという学者が、1954年に有名な「足による投票」という理論を唱えた。それは「個々の住民は自分にとってもっとも好ましい公共サービスを提供してくれる自治体を、自由に選択できる」という考えだ。住民は国家を自由に選ぶことは出来ないが、教育や医療、福祉の水準によって住む自治体を自由に選択できるというのである▼このチーボの理論にはサービスと負担という原則がつきまとう。たとえば便利で安心できる都市に住んでいる人と、そうでない都市に住んでいる人との間には自ずから負担に差が出るのである▼厚木市民がチーボの理論を行使したら、どんな結果が出るか興味深いが、住民の個別意識から出た高い調査結果を鵜呑みにしているだけでは、住民の満足したまちづくりは出来ない。市民意識調査に欠落しているのは他の同規模の自治体と比較してサービスがどうなのか、サービスにつきものの「負担」がどうなっているのかという「選択」の論理である。 憲法と国連憲章(2006.04.15) 「希求」とは「願い求める」という意味だ。4月9日に開かれた「あつぎ・九条の会」で発足記念講演に立った東大の小森陽一教授は、この「希求」という言葉が、憲法九条と教育基本法に書かれており、しかも両者はこの二文字で結ばれていると話していた▼憲法九条の第一項に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とある。教育基本法前文の一段目では「日本国憲法を確定し、その理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである」とうたい、二段目において「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」と述べている▼小森教授は、実はこの憲法と教育基本法が「希求」という言葉で結ばれていると言ったのは、作家の大江健三郎さんだと教えてくれた。筆者は憲法と教育基本法がこれほど豊かに結びついた例を知らない▼小森教授は九条第一項の「正義と秩序を基調とする国際平和」は、国連憲章第一条の「国連の目的」、「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という九条第一項後段の部分は、国連憲章第二条の「先制攻撃」を戒めた部分に相当するという▼しかし、国連憲章第51条は自衛権の名の下に戦争を認めている。だがこれに抗して日本国憲法が崇高なのは、「日本は国連加盟諸国以上に国連の目的を誠実に希求するので、国権の発動たる戦争も放棄しますよ」と宣言していることなのである。日本国憲法は国連憲章の理念より上にあるのである。 自治体トップ像(2006.04.01) 厚木市は4月1日付けで組織改正を伴う人事異動を発令した。理事、東京事務所長、副教育長、新生あつぎ改革担当部長など、新しく目を引くポストもあるが、疑問に思うのは、そうしたポストが市民ニーズに合致し、職務の向上につながるのかという点である▼ポストを増やして役職配分するという方法は、昔から行政の得意分野だが、成果主義や顧客主義を求めず、法令(条例)主義、慣例主義できた役人に、新しいポストを与えたからといって、そう簡単に職務能力が向上するとは思えない▼誰でも大過なく過ごせば、俸給だけは一人前にもらえるのが公務員だ。出世すればするほど保守的になり、非冒険的で非改革思考になるというのも役人の特徴だろう。これまでもそうだが、組織をいじったりポストを新設するだけではもう駄目なのである▼筆者は自治体のトップマネージメント(最高経営者層)に執行役員制の導入を提案したい。部長以上の主要役職を「権限と責任と任期」を一体化した執行役員にするのである。自治法を改正して助役と同じようにこれを特別職として扱い、市長の指揮下で要職を担う新たな執行役員である▼彼らの報酬は年俸制で2年契約にする。しかも業績主義を明確にし、業績次第で再任され、解任される仕組みにする。その人選は役人だけの登用ではなく、他の自治体や民間など外部にも求めるというやり方だ。これが地方分権に求められる自治体トップ像ではないだろうか。 象徴的貧困(2006.03.15) 「象徴的貧困」と呼ばれる言葉が注目されている。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態」をいう▼東京大学の石田英敬教授が「メディアがつくりだす気分に人々が動かされがちな日本の現実にこそふさわしい」と訳語を考えた(「思想の言葉で読む21世紀論」2006・2・14朝日新聞夕刊)。石田教授は「情報社会の中で、増え続ける大量の情報に追いつくためには、情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねざるをえなくなっている」「その結果、政治や社会などの重要な問題についても、誰もが同じような感想や意見しかもてなくなっている」と述べている▼その象徴的な例が、イラクで人質となった後に解放されたNGOボランティアやジャーナリストを、まるで罪人のごとく冷たく迎える日本国民の意識や「自己責任」を喧伝したメディアの姿であった。有権者がサポーター化した小泉劇場もしかりである。作家の辺見庸さんは小泉劇場を「多くの人々が政治的アパシー(無気力)から一気に政治的観衆へと化していった」(「漂流する風景の中で」2006・3・8朝日新聞)と指摘している▼情報があふれる現代社会の中で、人々の関心や話題が、ひとつの極に向かって進んでいく奇妙な現象だ。しかもどこのチャンネルも対象を数量化・画一化し、商業主義的な枠組みでしか情報を流さないマスメディアがこれに拍車をかけている。格差社会という経済的貧困が進む一方で、人々の意識も「象徴的貧困」に向かって進んでいる。 債権譲渡(2006.03.01) 民事再生法を手続き中の第三セクター厚木テレコムパークの最大の債権者である日本政策投資銀行が、約40億円にのぼる債権を米国の自動車メーカーGM関連の投資会社に譲渡した▼政投銀がどうしてこういう判断をしたのか、テレコム社も市も信頼を裏切られた思いだろうが、貸付金の回収が不可能となっている現在、債権会社として当然のことをしたまでの話である▼国策の一環とはいえ、巨額の資金を投入した同銀行は、再三にわたって株主や債権者とともに3セクの再建策を協議してきたが、筆頭株主である厚木市とは具体的な合意に至らず、三セク自体も有効な解決策を打ち出せずにきた▼テレコム社は第三セクター方式をとったため、当初から経営責任があいまいにされてきた。社長は市の天下りで雇われに過ぎず、三セク自体に自力再生の能力や資産があるわけではない。このため市に政策責任と経営責任があると見るのは世間の常識だが、市は株式会社を盾に責任を回避してきたのである▼今回の事態は厚木市にとって想定外というよりは、市に対して不信感をつのらせてきた政投銀がついに見切りをつけたと解釈すべきだろう。政投銀が手を引いたことで、テレコム社存続の大義名分は、完全に消滅してしまった▼投資会社にどういう思惑があるか分からぬが、テレコム社が経営陣の入れ替えを含めた再生計画をどう打ち出せるか、今後、市が直接的な協議の場に立たされることは避けられない。 武士道精神の復活(2006.02.15) 数学者の藤原正彦さんが「人間は論理や合理だけではやっていけない。論理の出発点を正しく選ぶためにも、日本人の持つ美しい情緒や形が必要で、論理や合理が剛とするなら、情緒や形は柔だ」(『国家の品格』新潮新書)と言っている▼論理というのは数学でいうと大きさと方向だけで決まるベクトルのようなものだから、座標軸がないとどこにいるのか分からなくなる。人間にとっての座標軸や行動・判断基準となる精神の形が道徳で、そうした情緒を育む精神が戦後失われてきた「武士道精神」であるという▼情緒や形というのは自然に対する感受性や美的感覚、無常観、もののあわれ、懐かしさである。武士道には慈愛、忍耐、正義、勇気、惻隠などがある。惻隠とは他人の不幸や弱者、敗者、虐げられた者を思いやる心である。武士道にはこのほかに名誉と恥の意識があった▼弱い者いじめや卑怯は、武士道精神の欠如の現れだ。正義やルールが軽んじられると、法律に禁止されていないことなら時間外取引でも何をやってもいいということになるし、恥や外聞を忘れると、耐震偽造や検査後の改造問題のように経済活動でペテンをやっても平気でいられる。戦後は、政官財どこを見ても、悪いことをしたら「腹を切る」という潔さがなくなった▼グローバル化や国際化、市場経済や競争社会を動かしているのは論理である。だが、現下の市場経済は「衣食足りて礼節を知らず」である。日本にはアダム・スミスのいう「神の見えざる手」などは存在しないこともわかってきた。藤原さんは武士道精神こそ「国家の品格」を取り戻す手段であると説いているが、果たしてどうだろうか。 住民自治が育つシステム(2006.02.01) 千葉県我孫子市では06年度から新規事業に対して市民からパブリックコメントを求める制度をスタートさせた。ホームページに新規事業の概要と目的、金額を載せ、各事業に対して市民から意見を求めるもので全国的にも珍しいという▼まず昨年12月16日に各課が要求した207の新事業と目的、予算を公表、優先度の高い順からA(実施する必要性が高いもの)B(事業の必要性はあるが、実施する必要性が低いもの)C(事業の必要性の低いもの)の評価とその理由をつけた。Aランクだけでも28億6千5百万円になる▼その後、第2回目を12月28日に公表、優先度をこれまでの3段階から4段階に変更、事務事業評価書も添付した。第3回目は1月18日に公表、引き続いて市民の意見を求めている。まだ意見は少ないが、意見はホームページ上に掲載、市の回答と考え方も掲載した。同市では計3回にわたって市民からパブリックコメントを求め、予算編成に反映させる考えだ▼厚木市も新年度から予算編成に、新たに「政策査定」を導入して、政策面から事業の価値や優先順位などを選択するやり方に取り組んでいるが、「役人が考えた事業や予算を役人が査定する」という意味ではこれまでとあまり変わらないだろう▼我孫子市のやり方は市民が税の使い方を自分で選択できるというシステムを、最初の入口として制度化したことにある。住民自治が育つシステムを考えるのも地方分権の大きな仕事なのである。 新成人とパラサイトシングル(2006.01.15) 今年の新成人は143万人で総人口の1.12%。10年後、この若者たちが結婚し、子どもを生み育てることに夢を持てる社会になっているだろうか▼バブル崩壊後の市場経済は、成果主義の導入で終身雇用が壊れ、大企業でも倒産やリストラの不安を抱える。頑張っても成功する人はごく僅かで、昇進の機会は少なく、給料も大きく上がるわけでもない。その結果、格差社会が進行し、落ちこぼれた若者はフリーターやニートに転落していく▼多くの若者が結婚や子育てと仕事の両立に、夢を持てない時代になってしまった。そうした若者のほとんどは学卒後も親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者「パラサイト・シングル」である▼彼らにとって仕事は小遣い稼ぎの手段にすぎない。人生の楽しみは消費や趣味、友人や恋人との人間関係である。特に若い女性の過半数は、無理してまで育児と仕事を両立したいなどとは思ってもいない。親に寄生することで、自分の賃金を1人で使うことのできる方がはるかにいいのだ▼東京学芸大学の山田昌弘教授は「パラサイト・シングルが増え続けている社会は、親の含み資産を食いつぶしている社会である」(『パラサイトシングルの時代』ちくま新書)と指摘する。親亡き後、彼らには孤独で寂しい老後が待っている▼彼らを放置しておくと未婚化、少子化、停滞化にますます拍車がかかるだろう。日本は早急に、若者を親から切り離し自立して生活させる「自立支援策」を講じなくてはなるまい。 財政も市民が主役(2006.01.01) 千葉県市川市で昨年4月、「納税者が選択する市民活動団体支援制度」がスタートした。個人市民税の納税者が、自ら支援したい市民活動団体を選ぶと、その納税額の1%相当分を市から補助金として支出する制度である▼市民活動の支援先を市民自らが選ぶという点、また納税者が税の使途指定を行うことで、直接民主制を実体験する恰好の機会となるという2つの点で多くの注目を集めた。だが、専業主婦など納税者でない人には団体を選ぶ権利がないため、1人1票の原則になっていない、不平等だと言う批判も出た▼そこで出てきたのが「寄付による投票条例」である。こちらは自治体が住民からの寄付により政策の財源を募る制度で、「寄付」という形で政策を選択できる。ふるさと創り、学校美術館、在宅福祉、自然エネルギーの活用など各地で寄付条例が具体化している。これだと寄付できるのは納税者に限定されないため不平等の問題は生じない▼地方自治体において、市民が税や寄付金の使い道を自分で選択出来るというシステムを制度化すれば、自治体の個性化につながるし、独自の豊かさを実感できるまちになるだろう▼これからの時代は「市民が主役」という言葉をただ看板のように掲げているだけでは駄目で、ますます中味が問われてくる。分権の時代は、市民が主役という手法を財政面にまで広げることを意味しているのである。 |
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