風見鶏

2012.1.1〜2012.12.1

 電力会社への依存度を下げる生活(2012.9.1)

 9月1日から一般家庭の電気料金が8・46%値上がりする。拙宅の場合(50A・8月分で640kw 使用)値上げ分を計算してみると、1400円もの負担増になることが分かった。値上げは契約アンペアにかかわらず使用量に応じて増える▼厚木市は9月から全小中学校の電力を東京電力からPPS(特定規模電気事業者)に切り替える。電気料金は東電と比較して1年間で1千362万円の経費節減になるという。一般家庭ではPPSと契約ができないので、節電対策に力を入れるほかはない▼まずはLED電球への交換。エアコン使用の場合温度は28度、扇風機との併用がお勧めだ。断熱効果を高めるためブラインドはやめてカーテンにする。冷蔵庫の温度調節は弱にして頻繁に扉を開閉しない。収納量は冷蔵庫70%、冷凍庫100%▼シャワートイレもオール弱で蓋は必ず閉める。掃除機は2日に1回。お風呂のシャワーは節水型。炊飯器の保温はやめ冷蔵庫か冷凍庫で保存。パソコンは起動時に多くの電気を消費するので、使わないアプリケーションを削除して起動時間を短縮▼節約ばかりでなくエネルギーの創造にも取り組みたい。太陽光は金がかかるのでミニ太陽光発電システムを組み立て、1日当たり300Wの電気を生産する。相模原の藤野電気ではキット込みで4万2800円のワークショップを開いて作り方を指導している▼原発事故による値上げは何とも腹立たしいが、これからの日本は個人のレベルでも電気の消費を減らし、極端に電力会社に依存しない自立分散型の再生エネルギーを創出していかねばなるまい。

 騙される有権者(2012.8.1)

 情報化社会では、増え続ける大量の情報に追いつくため、情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねざるをえないところがある。その結果、政治や社会の重要な問題についても、誰もが同じような感想や意見しか持てなくなってしまった▼誰かの手とは最もらしいことを言う為政者、多数が主流派だと報道するマスコミ、耳障りのいいことばかり言う政治家、パフォーマンスの上手い人たちである。しかし、3・11以降、こうした社会心理が変化してきた▼劇場型や大衆迎合主義には騙されない。パフォーマンスにも踊らされない。形だけを見ていると本質を見誤ると人々が気づき始めたのである。脱原発やオスプレイ配備反対の抗議行動などは、まさに東電や政府の言うことは信用できないとする意思表示の表れだ▼このほど昨年の厚木市議選で当選した議員が低所得者用の市営住宅に1年間も入居していて問題になったが、これなども政党のパフォーマンスや資格審査なしの候補者擁立に有権者が騙された結果であろう。誰かの手にゆだねることは「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」というリスクを生む。特に議員の咆哮には注意が必要だ。

 消費増税(2012.7.1)

 消費増税法案が民自公の修正合意で衆院を通過した。この法案には国民の大多数が反対だった。国民は増税を嫌だと言っているのではない。社会保障が安心できるものになるなら、増税を受け入れようと思っているのに、年金や介護、医療などの具体的な展望が示されないまま棚上げになったからである▼もう一つは、「官僚主義の打破、消費税は値上げしない、増税の前に無駄遣いをやめる」という約束を反故にし、マニフェストにない増税をやることに対する反発である。国家公務員の削減は中途半端だし、国会議員の定数削減も法案すら出来ていない。増税を一番喜んだのは官僚だけだろう▼税金は、まず自分たちが使う分を先に取り、残りを国民の生活にまわすというのが、官僚や政治家の考え方である。「国民の生活が第一」なのではなく、「官僚と政治家の生活が第一」なのである。気がつくと「改革」とはもって非なる政権交代であったことが分かる▼増税によって社会保障がどう変わるのか、雇用不安や格差の是正、デフレ脱却は果たして進むのか、政府は何の道筋も示していない。迷走から逆走にカジを切った野田政権は早急に解散して国民の信を問うべきだろう。いま必要なのは、嘘をつかず国民との約束を実行する政治の実現だ。

 議会報告会(2012.6.1)

 厚木市議会の議会報告会が初めて開かれた。議員の報告はそれなりに良かったが、その後の意見交換では多くの人が発言する時間が極めて少なく、消化不良に終わった感じがする▼議会報告会は議会改革の一環として行われたようだが、悪く言えば行き当たりばったり、よく言えば歩きながら考えるというやり方のようで、今少し従前な準備や進行のルールを決めておいた方がよかったように思える▼議会報告会には大きくいって2つの意味がある。一つは個々の議員や会派が、議案や陳情・請願について、どういう審議を行い判断を下したのかという説明責任が聞けること▼もう1つは有権者と意見交換を行うことによって、民意を鏡のように議会に反映できる機会が持てるということである。ただ、発言や答弁のルールを決めておかないと、言いっ放しや一方通行で終わる危険性がある▼執行機関の一員ではない議員がどこまで答弁できるか、議会全体の意思や会派という制約もあろうが、大事なポイントは自治体が抱えている問題をどう解決すべきか、その争点を有権者に明らかにする「争点提起者の役割」に徹することであろう▼報告会は定例議会ごとに開かれるという。多くても年4回であるが、こういう機会は多ければ多いほどいい。普段は議員が手分けして公民館などに出向き、地域住民を対象に「議会出前講座」をやってみてはどうだろう。

 国(ふるさと)を守るということ(2012.5.1)

 石原知事が尖閣諸島を都が買収するとぶち上げ、物議を醸した。尖閣は歴史的に見ても間違いなく日本固有の領土である。誰もがそれを守るのは当然のことだと思っている。中国に対する非難も、日本の国土への不法侵入への警戒から来ている▼国土を守るということはどういうことであろうか。国民の生命と財産、そこに暮らす人々が構成する社会を守るということだ。換言すれば「ふるさと」を守るということである▼ところが戦後、日本人は地方の山や森、田畑、生活に不便な場所を放棄し、都会に出てくることが幸福だと見なして、ふるさとを崩壊させてしまった。その結果、地方と都市の格差が著しく増大したのである▼特に90年代の構造改革以降、日本は地方の耕作放棄地や荒れるままの林野を作りだし、資本と金融を大都市に集中させたため、地方からは住む人の影が消え、店が廃屋となり、共同体も崩壊してしまった。「ふるさと」の敗北、実行支配の放棄である▼いうまでもなく「ふるさと」の延長線上に「国土」がある。しかし自分の「ふるさと」を棄て、守る気のない者が「国土を守る」と言っても空々しく聞こえはしまいか▼尖閣諸島を守るということは、素朴に考えれば日本の「ふるさと」を守るということだろう。そこにつなげていかないと単なる防衛的なナショナリズムを煽るだけに終わってしまう。尖閣は地方分権による「ふるさと再生」を提起しているのである。

 元気館(2012.4.1)

 厚木パークビル(旧パルコビル)の取得については、2月定例議会でも多くの議員が質問に立った。まず指摘されたことは、購入動機がはじめに取得ありきではないかということ、議会に事前相談がなかったということで、特に事前相談がなかったことは議会人にとってかなりの不満だったようだ▼議論を通じて明らかになったことは、東電所有分を除いて約10億円といわれる購入費を、国庫補助(社会資本整備総合交付金)と起債と一般財源から捻出すること、さらにリニューアル費として25億円(内装10億円、電気設備5億円、設備10億円)、維持費に2億9千万円の費用がかかることも分かった▼取得後、市は「(仮称)元気館」として整備、子どもから高齢者まですべての世代が交流できる市民交流施設として活用していくという。中味はまだ見えてこないが、文化芸術、生涯学習関係の施設のほか、商業施設の誘致も考えられている▼シャッター通りが広がり、大型店が撤退、都市間競争が激化する中で、中心市街地の活性化は最大の行政課題である。小林市長はあえて困難な問題に立ち向かうわけで、成否のカギは元気館の中身次第ということになろう。仕掛けが大きいだけに、慎重な論議が必要だ▼議会では原案通り可決されたが、市民や議会、商店会との協議、多様な意見の採用、改修費や維持管理費の縮減、事業進捗状況の公開と説明責任という付帯決議がついた。

 高松山古墳(2012.3.1)

 厚木市の高松山は、昔から「高松大明神」と並んで「明治天皇行幸之地」で知られている。12年ほど前、市民からこの高松山が前方後円墳ではないかという情報が寄せられ、教育委員会は昨年試掘調査を行った。東海大学の北條芳隆教授は「位置形状から判断して古墳の可能性が極めて高い」という談話を発表、市民の古代ロマンをかきたてた▼このほど開かれた試掘調査の結果報告を兼ねた検討会では、炭化物を含んだ黒土の放射性炭素年代測定を行った結果、古墳だと判定する科学的な証拠は得られなかったという。ではあの遺構は何なのかということになる▼遺構は自然のものとは思えず、明らかに人工的に手を加えたものだろう。埋葬品がなぜ出なかったのか、後世に誰かが墳丘部を改変しなかったかという疑問も出てくる。そう考えると、明大の大塚初重名誉教授が指摘するように、墳丘部を調査するしか方法がないように思える▼高松山は標高146m。360度の眺望は絶景だ。古代人や明治天皇は、鷹のように大空を舞う気持ちで、山頂から相模平野を見下ろし、眼下に流れる相模川のきらめきを見たに違いない。「鷹舞ふや山河ひかりを荒くせり」俳人・杉山羚羊さんはその情景をこう詠み、山頂に句碑を建てた。古代人がここを墳墓の地とする理由がわかるような気がする。高松山の古代ロマンはまだまだついえない。今後の調査に期待したい。

 富士登山から大山登山へ(2012.2.1)

 バブル崩壊から20年、後始末に追われながら国の借金が膨大にふくれ、財政破綻を招きかねない危機にきている▼財政、社会保障、雇用の世代間格差が広がり、財政、雇用などは都市と地方の格差も拡大している。深刻なのは非正規雇用の増大、年収200万円以下、年金などの基礎的な社会保障からも排除された「貧困マジョリティ」の増加である▼日本は今後も財政赤字、財政難、借金、増税と最悪の道が続くが、財政難は国ばかりでなく地方自治体も襲っている。今年度、神奈川県は900億円、横浜市270億円、伊勢原市20億円、厚木市も4億円の歳入不足が見込まれる。深刻なところでは住民サービスの低下や削減の危機に立たされるだろう▼こうした状況下で、日本の政治は停滞と混迷を繰り返す一方で、二者択一で四字熟語好きな日本人は、熱狂的等質化現象に溺れはじめている。政治の閉塞のうっぷんを張らしてやろうという「ハシズム現象」(橋下徹市長の維新の会)も同じである▼グローバル化に対抗して国を立て直すには、坂の上の雲を目指した登山をやめ、弱者でも登れる登山へと切り換えなければならない。富士登山から大山登山への転換だ▼産業再生のキーポイントとなるのは、農業(食)と再生可能エネルギー(太陽光・水力、地熱発電)と介護である。国も地方も、これにシフトして確固たるモデルを構築すべきだろう。

 下山の時代(2012.1.1)

 日本は戦後60年にわたる「登山の時代」を終えて「下山の時代」に入った。だが、政治家も国民も、下り方を探しあぐねている。元気な人ばかりでなく、病人や高齢者、車椅子の人も、仕事を失った人も、孤族な人もみな一緒に下山しなければならない▼ところが道案内役をつとめる総理は毎年変わるし、国民との約束事も反故にされ、政治は一段と混迷を深めてしまった。政権交代してもこの国の政治は変わらず、借金だけが膨大にふくれ上がってしまったのである。それでも私たちは足もとを踏みしめながら、一歩一歩慎重に下山していかなければならない▼そんな覚悟をした時に、背後から強烈な雪崩に襲われてしまった。東日本大震災と福島原発事故である。私たちは一瞬にして町が消える姿を目の当たりにして言葉を失った。まるで地獄そのものである。21世紀に入って自然災害は想定を超え、ますます巨大化している。その先で私たちを待っていたのはこれから何十年も続くであろう放射性廃棄物に怯える不安の世界である▼人間は、生老病死が一生ついて回り、自然と世の中の理不尽さに翻弄されながらも生きていくしかない。下山にはこれまでとは全く異なった視点が必要だ。登山する時と下山では歩き方が違うし目の位置も違う。坂の上の雲を見ず、再び世界の経済大国を目指す必要もない。見上げるのではなく。見はるかすという視点だ。生を死の淵から見つめたり、生きるものすべてとの共生を考えるのもいい。そしてゆっくりと優雅に下りていこう。

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