風見鶏

1987(昭和62年).1.1〜1987.12.15

  アスピリンエイジ(87・1・1)

 アスピリンエイジという言葉がある。1920年代の後半、世界大恐慌までの時代を、危機と破綻を一時的に沈痛剤でおさえていた時代である▼1980年代の日本経済と国際経済が、このアスピリンエイジに酷似していると指摘する人がいる。原油安と低金利経済、財テク、貿易収支の不均衡、変動相場制の機能マヒなどが当時の世界経済の状況に似ているというわけである▼1929年10月24日、魔の木曜日。再びその破局がやってくるのであろうか。だが歴史はそう単純なものではない。世界の大金持ちが英国から米国へ移行する時代と、日本が世界の大金持ちとして生まれ出ようとする時代とではかなりの相違がある▼今日の事態を招いたのは新保守主義者がとってきた円高対策の無策であるといってよいだろう。事態がどう進展していくか正確には予測しえないが、もはや小さな政府や行政改革、規制緩和、民間移行、民間活力、自助努力というキーワードだけでは日本経済の活力を再生させることは出来ない▼新保守主義に変わる新しい政治理念と経済政策が早急に打ち出されなければならないのである。形を変えた日本型ニューディールが強く要請されていると言ってよい。今年は統一地方選挙の年でもある。その発露を地方から求めたい。

  無投票(87・1・15)

 神奈川新聞に無投票で市長が決まるところの市民は不幸だと書いてあった。確かに無投票はよくない。しかも、これが2回も続くとなるとやはり問題だ。つまり、市長を直接市民が選ぶという民主主義の手続きが八年間も行使されないのは、逆に言えば異常な事態ということができよう▼無投票は何故よくないのか。答えは簡単だ。いい悪いの審判が下せないからである。つまり、民主主義の空洞化である。無投票はイコール無競争でもある。いうまでもなく競争のないところに進歩はない。無競争は政治の活性化を欠き、権力の暴走を助長させる危険がある。反対勢力は目に見えず、絶対的おごりが、政治の平衡感覚を失わせるからである▼では、無投票は誰の責任か。一般的に無投票当選というのは、現職の市長が人格、識見及び行政手腕に優れている場合か、他に対立候補になるだけの人材がいない場合である。しかも、昨今の無投票当選は、保守から中道、革新までの政党が相乗りすることによって翼賛体制を形成し、対立候補の輩出を抑制しているのが大きな特徴だ▼いくら正義感と公共心に燃える人でも、負けると分かっている選挙に、あえて出馬を決意する人はいないだろう。選挙はオリンピックと違って参加することに意義があるわけではないのだ。無投票はやはり民主主義の未成熟の現れだろうか▼それにしても選挙は直接的には勝たなければ意味がない。これは非情な論理である。

  ネットワーキング(87・2・1)

 アメリカの社会学者リップナックとスタンプス夫妻は、共著『ネットワーキング』(プレジデント社・1984..5)の中で、「会社や職業を異にする人達が、共通の目標や価値観によって結ばれ、情報や資源を分かち合う組織が、いま全米に広がりつつある」と述べている。つまりこれが「ネットワーキング」であり、もう1つのアメリカなのだと▼この本は2年前、専修大学の正村公宏教授の監修によって日本に紹介された。当時は朝日新聞の天声人語にも取り上げられ、日本を含め先進諸国の近未来社会構造を示唆する、最初の実体調査レポートとして注目されたのである▼アメリカのネットワーキングは、健康とライフサイクル、コミュニティと協同組合、エコロジーとエネルギー、政治と経済、教育とコミュニケーションなど幅広い分野で驚くほどの広がりを見せている▼その特質は@全体と部分の適切な統合 Aヒエラルキーを否定しつつ多様なレベルの活動を連携させている B集権的官僚組織とは対照的な分権的な運営 C複眼的なものの見方 D多頭的なリーダーシップにあり Eダイナミックに変動する多様な関係によって維持される F境界が不明確である G一人一人の人間が結節点であり、リンクである 9自立的な個人を基礎としつつ全体を発展させている0新しい価値観が結合をつくり挙げる要因だという▼これはヨコ型情報社会の新しい潮流である。神奈川ネットワーク運動はこれをご存知だろうか。

   怪文書(87・2・15)

 4月の県議選がまだこれからだというのに、7月の市議選をねらった怪文書がバラまかれている。もっとも選挙の年になると決まって出回るから、そう驚きはしないのだが、4人も市議がターゲットにされたのは、厚木市会ではかってない事件だという▼もちろん怪文書だから発行所などの所在は全く不明で、誰が書いたのかも分からない。そういう文書をわざわざ買って読むものはいないので、発行する側に必ずといっていいほど何らかの意図を感じる。それでも後から振り返ると、こうした暴露に部分的な真実が含まれていることも少なくないから驚く▼紙爆弾を飛ばすのは相手を中傷することによって、イメージダウンをねらうのが目的だ。今回の怪文書は議員の違法行為を非難したもの、収賄や買収などの政治姿勢を攻撃したもの、女性問題を取り挙げたものなど様々だ。驚いたことには「○○に投票するのはやめましょう」ということわりまであって、これは明らかに選挙妨害を意図したものだろう▼真実を暴露したものもあるが、バガゲタ内容は低次元きわまりない。怪文書が出回るとそれに反応して、さらに輪をかけて出回る恐れがある。卑劣で醜い選挙戦の応酬は有権者の失笑を買うし、読んでいても気持ちのいいものではない。                            

  基金制度(87・3・1)

 厚木市の62年度予算案が発表された。一般会計の伸び率は1.3%で、かってない緊縮型の予算編成だ。これまでの2ケタ台から一挙に1%台に落ち込んだのだから、円高不況による税収減は予想以上に厳しいと言わねばならない▼法人市民税は昨年に比較して17.2%減で、10億2,800万円の減額。人口増による個人市民税の伸びを合わせても市税収入は3.2%の減収になる。しかし、慌てるには及ばないということで、やりくりしたのが基金制度の活用だ▼今回は公共施設整備基金から21億円を繰り入れた。しかもまだ29億円が残っている。このほか財政調整基金については30億円がそっくり手つかずの状態である▼昨今は色々な名目で基金制度を活用している自治体が多い。株式会社方式で知られる神戸市では、この種の基金を30ほど持っており、全部合わせると2,000億円を越すというから驚きである。しかし、基金は使い果たせばゼロになる▼国のケインズ主義的政策が破綻した今、地方税の伸びをどう導きだすかを考えるのは、これからの自治体における財政運営の最大の課題である。税収を市場メカニズムによる景気の変動に任せるか、流通や情報のインフラ整備による企業誘致やコンベンションなどの産業政策を推進することによって増収に導くか、厚木市は今後重大な選択に迫られるだろう。

  売上税と地方選挙(87・4・1)

 統一地方選挙は、この3日の県議選告示で一挙に本番に突入する。岩手ショックを引き金に吹き荒れている「売上税問題」は、今回の統一地方選の最大の争点だろう▼ところが、最近になって争点がボケてきた。怪しくなってきたのだ。何故なら、地方レベルでは自民党も「ウリアゲゼー、ハンタイ」を叫んでいるからである。いまや猫も杓子も売上税反対である。これでは中曾根総理がいくら売上税導入をもくろんでも、強硬突破は無理に違いない▼
いやいや、どこかにまやかしの売上税反対論者がいる。というのは自民党は地方レベルで反対の声を上げさせておき、有権者の批判をかわして勝利をもくろんでいるのが、ありありと見えるからだ。勝てば強硬突破を狙ってくるのはまず間違いない▼県議選の立候補予定者に対して本紙が行った調査でも、5人全てが売上税に反対だった。本当に反対なのだろうか。選挙目当てのごまかしではないのだろうか。政治に嘘はつきものというが、同日選の二の舞にならぬようわれわれ有権者はもっと賢くあらねばなるまい。誰が嘘をついているかを慎重に見極めねばならないのだ▼それにしても国政のテーマである売上税が、今回の統一地方選挙の最大の争点になったのは、政治の皮肉としかいいようがない。

  県議選の結果(87・4・15)

 86年体制のもとで行われた初めての統一地方選挙を振り返ってみると、追い風に乗った人、油断した人など悲喜こもごもで、13日の開票日にはさまざまな人間ドラマが演じられた▼厚木選挙区では自民党の小沢金男氏が4回連続してトップ当選。自民党候補が各地で苦戦した中にあって、前回を上回る票を獲得、現職議長の貫祿をまざまざと見せつけた。正にアッパレというほかはない▼保守系新人で新しい県政を推進する会の山口巖雄氏は、確認団体を組織した伊勢原、海老名の候補と共に初当選を果たし、3人による県央のまちづくりへ大きな弾みをつけた▼社会党新人の大桃正子氏は、売上税と保守3議席独占打破という追い風に乗って初当選、厚木に初めて革新の灯をともすことに成功した。この追い風を7月の市議選に結びつけることが出来るかが大いに注目される▼現職で落選した保守系無所属の堀江則之氏は、基礎票の読み方が甘かったことに加え現職であるという油断、そして新自由クラブ解党後の後遺症が大きく響いた。今回の選挙結果によって河野神話は完全に崩れたといってよい▼また、神奈川ネットワーク運動の又木京子氏は、主婦を中心としたボランティア選挙を展開、落選したとは言え、地方政治に新しい波紋を投げかけた。

  創造する学校(87・5・1)

 厚木市立森の里小学校から、教育活動の実践記録ともいうべき『創造する学校』が贈られてきた。ページのはしはしに教師と児童による創意あふれる教育活動の実践がいきいきとして描かれており、改めてこの学校の教育に対する情熱の高さに驚かされた▼同校が今日、注目されるような存在になったのには、まず、教育の硬直性や閉鎖性、画一性を反省し、教師のアイデアと創意を生かして、いきいきした児童の活動を展開することにあった。母体校を持たない新設校という条件も、こうしたやり方を推進させる上ではむしろ幸運でさえあったと▼自由登校、住宅街を走る四季の路を子どもの広場にするというアイデア、楽しい授業を考えたコの字型、円形、扇型などの机の配置、オープンスペースの設置、青竹踏みから始まる1日、手づくりの修学旅行、森の里音頭の作成、体験農園の実践活動などが次々に出てくる▼また、21世紀へ向けた開かれた学校経営にも熱心だ。縦割り教育の実践とも言えるひまわり、あじさい、くすのき活動、中国語やスペイン語に親しむ集い、横手市との交流、地城清掃などである。この本が多くの読者に感動を与えるのは、ただひたすら教育への情熱が、実践活動の基本になっているという素晴らしさである。

  初めに国家ありき(87・5・15)

 地方自治の壮大な実験に一つの答えが出ようとしている。逗子の池子米軍住宅建設問題は、長洲知事の調停案によって最終的な局面を迎えた▼もう選択の道は「受け入れ」か「拒否」かの2者択1しか残されていない。まさに苦汁に満ちた決断を迫られたと言える。富野市長は民意を聞いた上で回答すると述べているが、調停案を尊重するという立場からすると、受け入れはまず間違いないだろう▼池子は首都圏に残された数少ない貴重な自然である。珍しいオジロワシが飛来し、ホタルが飛び交い、野草の宝庫でもある。自然度の高いこの緑の環境を守ろうとする市民の声はむしろ当然のことであったろう。それは、強大な権力を持つ国の意思と真向から対立することでもあった▼行政として池子をどうするのか。逗子市民が投げかけたのはそうした形での問題提起であった。かれらは市長リコールや選挙を通じて、市民の意思で国の事業や国政レベルの問題を替えていく方向を選んだ。その意味ではまさしく地方自治の壮大な実験であったと言えるだろう▼だが、ここにきて、その実験も長洲知事の政治解決という形で、幕を閉じつつある。国の政策に地方は口を出せないのか。初めに国家ありきだ。地方は昔からこの論法に押しつぶされてきた。

  行きも帰りも(87・6・1)

 相模川の河口から約7kmところに寒川の取水堰がある。川で生まれ、海で育った若鮎が「ふるさとの川」に戻ってくるとき、ここで思わぬ障害にぶち当たる▼川幅270mを6mの高さにせきとめた寒川の堰堤。いくらジャンプの名手でも、この関門は跳び越えられない。そこで設けられたのが中央部に一段低く口をあけている鮎専用の「魚道」だ。幅10m長さ35m、10分の1の勾配のスロープで、魚道に到着した鮎はここでジャンプを繰り返すという▼障害物はここだけではない。磯部の堰堤、城山ダム、ほかに石を積み上げた程度の堰がいくつもある。魚道はあるが、段差がひどくてジャンプ不能のところもあるとか。川の水量が少ない時には鮎にとっては最悪の魚道になる▼これに追い討ちをかける形となったのが、宮ケ瀬ダム建設に伴う社家取水堰の構築だ。ここの魚道は全国でも類例のない「Uターン方式」を採用するという。ソ上する鮎が上り切った直後に、取水口へ進入するのを防ぐための工夫で、四国・吉野川の池田ダムもこの方式である▼鮎の子が川下りする際に、障害になるのもこの堰の取水口である。寒川堰では水道水と共に稚鮎がのみこまれてしまうため、海に辿り着くのはごく少量だ。ほんに相模川の鮎は行きも帰りもままならない。

  選挙異変(87・6・15)

 厚木市議会選挙の告示まで、まだ1ケ月以上もあるというのに市内の各所にポスターの掲示が目立ってきた。これは、かって見られなかった現象で、事前運動も今後、いっそう過熱してくるものと思われる▼今回の選挙の特徴は、まず第1に新旧の交代が挙げられる。4期以上を勤めた現職組が6人も引退するのは、明らかに新旧交代を加速させるだろう。欠員の2名を加えると8名の計算になる。新人は13名ほどの出馬になると思われるので、5人が落選の憂き目に合う▼議員は何期つとめるのがベストか分からぬが、議会の活性化、マンネリ化の打破を考えると、絶えず新旧交代が行われた方がベターである。首長と同じように議員に対しても多選批判があってしかるべきだろう。惜しまれてやめるか、憎まれてやめるか、身の引き際は本当に難しい▼第2は今回の市議選で、政党化がかなり進行して、無所属議員の数がいままでよりも少なくなるのではという観測である。この政党化は既成政党の枠を越えた、新しい政党や政治団体の台頭を予測させる。公明、民社、共産、社会に加え、NETやMPDが初議席を確保するか極めて注目されるのである。都市化の波が相模川を越える政治の世界にもようやく波及してきた。厚木の選挙も大きく変わりつつある。

  選挙改革と議員の選び方(87・7・1) 

 選挙は被選挙権があれば、誰でも立候補出来るが、実際にはガバン、ジバン、カンバンと特定の条件を備えた者でなければなかなか立候補は出来ない。このため、真に市民の代表として推したい人が出ず、人格・識見などいかがと疑われるような人が議員に当選するという傾向も見られる。従って、市民のよき代表者を議会に送ることの出来る選挙制度の改革が必要だろう▼誰でも議員になれるための第1条件は、議員でも生活に不安なく前途が保証されることである。したがってまず金のかからない選挙を行うために選挙の公営化を進めることが必要だ。2つ目は市民が議員を選ぶ参考資料や判断材料のため、選挙広報のほかに立会演説会や公開討論会を地方選挙でも積極的に取り入れることである▼議員には住民代表としての一定の資質水準が必要である。したがって3つ目は候補者に対して、選挙管理委員会が一定の学科試験及び身体検査を(体力テストを含む)を行い、結果を選挙広報で市民に公表することが必要だ▼4つ目は選挙で金品をもらった方を罰しないで、贈った方を罰することである。そうすれば贈った方だけ損をするので、選挙で金を使うことはなくなるだろう▼ところで、議員をどういう形で選ぶかは大いに論議のあるところである。地域代表、組合代表、政党代表、宗教代表などさまざまな形があるが、地域のコミュニティーの代表という形が望ましいように思える。これは○○団地とは○○自治会とか、地域の広さをいうのではなく、「連帯意識を持った近隣社会の代表」という意味である。この代表は地域ニーズを十分に把握する能力を有し、地域エゴに対しても説得力のある説明が出来なければならない。

   多党化現象(87・8・1)

 厚木市会30人の新しい顔ぶれが決まった。今回の選挙で特徴的だったのはまず第1に、投票率が予想以上に低かったことが上げられる。59.6%という数字は、前回の67.12%を7.52ポイントも下回る数字で、争点不在と言われた選挙に四割の有権者が無関心を示したという結果である▼厚木市の市議選は、回を重ねるごとに投票率が下がっていく。都市化の1つの傾向だろうが、向こう四年間の市民代表を決める身近な選挙である。もっと関心をもってもらいたかった▼第2の特徴は党派性の著しい進行である。当選者を見ると30人の定数のうち15人が、ローカルパーティーを含む政党に所属しているわけで、政党の主義、主張や政策、市民運動的な選挙が有権者の半数近い指示を得たことになる。これも多様な政治意識を持つ市民が増えてきたという都市化の現れである▼第3は厚木市の選挙も地緑、血緑型から党派、人格、識見などの一般的選択基準で選ぶ選挙に変わってきたということであろう。地域や組織代表という形でなくとも、有権者を馬鹿にしたやり方ではなく、真面目に政策や抱負を訴えれば当選することをNETやMPDが身をもって示した。こうした傾向が今後ますます強まっていくことはまず間違いない。

  議長人事(87・8・15)

 改選後初の議会人事が決まった。予想された通りで、今回は年功という目安がスムーズに物言った。与党の申し合わせによるものだろうが、たらい回しであることには変わりはない▼議員がなぜ議長や副議長のイスにこだわるのかは、かってこの欄でも取り上げた。名誉欲や権力欲のほかに、一般議員より報酬が多く公用車や交際費も使えるというのが大方の見方である。各種の会合に「議会の顔」として招かれるため、次の選挙に有利といううま味もある▼だが、本来の意義は意外と軽く見られているようだ。議長の役割は自治法で規定されているように「議場の秩序を維持し、議事を整理し、議会の事務を統理し、議会を代表する」とある。このうち議会代表権の持つ意味はとりわけ大きい。議会代表は究極的には住民代表である。住民の意向を統括して行政側へ「もの申す」立場にある。この基本的な考えに立つならば、議長はポストにふさわしい人でなければならないだろう▼今回の人事にケチをつけるつもりは全くない。当選回数の多い議員を人事の目やすにするというのも分かる。しかし、それが基本ではない。基本はあくまでもポストにふさわしい人材である。今回はうまくいったが、次回はどうなるのか。4年間を見守りたい。

  3セクの株式募集(87・9・1)

 厚木市のテレトピア計画の事業主体となる株式会社厚木総合情報センターが発足した。この会社は行政と民間との共同出資、いわゆる第3セクター方式による会社法人だ。5月に発起人会を開催、6月に創立総会を開いて正式に発足した。発起人はそれぞれに応じて株式を引き受けている▼この発起人の選出に当たって、行政として慎重さを欠く点があったのではという指摘がある。それは足立原市長の取り巻きが多いという理由からでもあろう。縁故という方法が、事業の性格からして適当であったかはどうかは、この際考えてみる必要があろう▼厚木テレトピア計画は、郵政省のテレトピア構想に基づく極めて公共性の高い事業である。第3セクターとは言え、会社の設立に当たっては慎重を期さねばならないことはもちろんである。多少手間がかかっても募集設立という形が取れなかったかと思う▼発起人の選出に当たって行政が配慮した事項は、 @公共、公益的団体の出資比率が50%以上となる。 A市内に所在する団体、会社の事業の運営に関連する団体。 B採算性の見通しが困難であるため、その趣旨を十分に理解してくれる団体であることとなっている。だからといって縁故募集ということにはならない▼厚木市や県が大金を出資して設立する第3セクター会社は、税金を使うという点からも公開性というものが大前提となる。秘密やヴェールに包まれたやり方は市民に疑念を抱かせることになるし、経営という点からも得策ではない。

  敬老祝金(87・9・15)

 毎年70歳以上のお年寄りに対して行政から「敬老金」が支給されるが、この敬老金の考え方について少し考えさせられる面がある▼いうまでもなく敬老金は長寿をお祝いする趣旨から支給されるものだ。しかし、現在の1人当たり3,000円から10,000円の支給では、その総額の割には行政効果は極めて小さいのではないかという指摘がある。財源を別の老人福祉に切り換えた方が、よりベターな場合もあるだろう▼一方、福祉の本来的な事業ではないので廃止すべきだという考えもあるが、年金制度が確立した今日、何となく時代的な感じがしないでもない。金銭的な面だけを考えれば、国民年金の中の福祉年金発足により制度的には役目を終えたといえるだろう▼また、支給するにしても一律ではなく、もっと対象をしぼるべきだという考え方もある。例えば喜寿、米寿などある一定の年齢に達した年に支給するというやり方だ。さらには、老人への「物、金」の支給は見直し、心を支給すべきであるという考え方や、少しばかりの金を渡しても仕方がないので、記念品程度でよいという考えなど千差万別である▼長年社会の発展に貢献してきた人たちである。何かの形でお祝いするのはやぶさかではないが、もっとうまい方法がないものかと思う。

   詰め込み運動公園(87・10・1)

 厚木市の総合運動公園の建設概要が発表された。第2種の公認陸上競技場のほか、多目的広場、プール、テニスコート、総合体育館を配した立派なものだ。▼だが、内容を見てみると、少々詰め込みすぎではという感がぬぐいきれない。そのため、総合運動公園としては、1部に物足りない施設が出来ることになりそうだ。陸上競技場、総合体育館、多目的広場については特に異論はないが、問題はプールとテニスコートである▼プールは50m・9コースを設置する計画。しかし、屋外プールの利用はほぼ夏だけに限られるため、土地の有効利用を考えた場合、少々勿体ない使い方のような気がする▼例えば、同市が金田に建設を進めている環境センターの余熱を利用した温水プールが考えられるなら、運動公園内にプールを作るよりは、はるかに市民ニーズに合ったものとなるであろう▼テニスコート4面にしても市民のニーズを考えると、とても充分な規模とはいえない。むしろ、思い切ったコートの確保が必要だったように思う▼14.7ヘクタールをどのように有効利用するか。施設をあれこれ中途半端に詰め込むより、カットするものはカットして、その分他の施設を思い切って広げるというような発想があっても良かったように思う。

  婦人問題(1987・10・15)

 厚木市は昭和64年度からスタートさせる「あつぎ女性プラン」の策定に向けて、10月1日「厚木婦人問題懇話会」を発足させた▼75年の国連婦人年以来、婦人の自立と社会参加、男女共同社会の創造に向けてのうねりは、今や時代の潮流になってきている。国の国内行動計画や民法、国籍法の改正、男女雇用機会均等法の制定などは、そうした動きの現れであろう▼しかし、実際の婦人問題の複雑さや根の深さは想像以上である。それは男女に関する意識の持ち方一つをとってみても明らかだ。憲法や社会的制度を基本理念とした女性プランだけでは、婦人行政の新たな展開は望めない▼神奈川女性会議の大槻勲子さんは、「男性主導の社会構造そのものが長い歴史の中で、国家の利益や企業の論理、男性の発想で組み立てられている中に、慣習的に固定観念を持って女性がとりこまれていて、女性自身でさえ自分の痛みを感じないほど、客観性を失っている面もある」と指摘している▼女性が意識して主体的になる、強くなるということは必要だろう。だが、それだけでは人間としてのしなやかさは出てこない。婦人問題の解決は口で言うほど簡単ではない。なぜなら、男女の役割分担や意識改革をともなった新たな社会の創造にあるからだ。

  ミスコン(87・11・1)

 12月24日に開かれた若人の祭典あつぎで「ミス若人コンテスト」の審査員をつとめさせてもらった。これで2回目である▼ミスコンといえば昔から顔や容姿、プロポーションが審査基準の通り相場となっている。最近はこれに知性や個性も加味されるようになってきた。もっとも基準といっても、個人の価値観や環境などによっても変わるのでこれほど曖昧なものはない▼奈良時代は鳥毛立美人のようなふっくらとした丸ポチャのグラマー、平安時代は源氏物語に出てくる下ぶくれ、江戸時代は浮世絵のうりざね顔と、美人の顔も時代とともに丸くなったり長くなったりしている。明治以降は二重瞼、8頭身などが美人の基準になった▼秋田、京都、博多、津軽、庄内、越後、出雲、加賀などは美人が多い産地として有名だ。「富士山の見えるところには美人はいない」というから、東京や神奈川は駄目らしい。東京の冬は温度、湿度ともに低く、紫外線が多いから美人が育たないのだそうだ▼もっとも、女性に優劣をつけるというコンテストそのものが差別を生む行為で、女性の自立や男女共同社会が叫ばれる今日、時代にそぐわないという批判もある▼イベントとしての愛嬌もあるだろうが、審査員の立場からすると、女性に優劣をつけるというのは、自分の好みの品定めをしているようなもので、感じのいいものではない。

   女は男の手足か(87・11・15)

 評論家の樋口久子さんが「都市の地域社会が現実には、女性によって担われている(女性は全日制市民、男性は定時制市民)にもかかわらず、女性の地位が依然として低く、地域の様々な決定にあまり関与できない」と指摘している▼現実の社会の中で責任あるポストのほとんどが男性で占められているのも事実だ。例えば自治会長、PTA会長、公民館長、老人クラブ会長、青少年指導員などがそうである。大都市では女性のPTA会長は珍しくはないが、地方へ行くと会長は男性で副は女性といったきまりが多い。女性に参加の資格を与えなかったり、公式の会合に出席することを嫌う風潮も残っている▼つまり、女性は社会の中では実務には参加出来るが、決定には参加できないという仕組みになっている。これは家庭や地域に「頭は男、手足は女」という上下関係を伴った分業意識が依然として残っているからである。そのくせ、職場人間一辺倒できた男たちは、定年後は馴染みの薄い地域社会へ、どう参加するか四苦八苦しているのである▼女性を手足としてのみ使おうとするなら、その社会のコミュニティは決してよいものとはなりえない。

  自治体の産業政策(87・12・1)

 厚木市がまとめた「21世紀の新産業機能調査」を読むと、今後ますます同市のハイテク化が進み、第3次産業に占める就業人口の割合が相当高くなることが予測されている▼報告書ではトータルイメージを「県央地域をリードする高技術文化産業都市」と定め、研究開発機能や高技術生産機能、生活文化産業機能、業務・サービス・サポート機能を備えたバランスの取れた産業構造を描き出している▼こうした産業振興を推進するうえで、今後新たな利用が可能な土地が市内17カ所に約155haもあると言う。都市計画法による線引きや地下の高騰を抑制する条件整備など課題も大きいが、土地利用の有効性を図り21世紀の厚木市の基幹産業ともなるエレクトロニクス、バイオ、新素材産業の計画的な導入が指摘されているのである▼石井前市長は昭和35年、工場誘致条例を定め厚木市の工業化を推進した。いわば今日の厚木市の経済力、財政力の基盤を築いたと言える。21世紀の厚木は研究開発と情報化によって経済力と財政力を高めていくことはほぼ間違いない▼自治体の産業政策にかってないほどの大きな期待が寄せられているのである。今、これをしっかりとやるかやらないかによって、将来の厚木市の命運は相当変わってくる。

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