風見鶏

1998.1.1〜1998.12.15

  20年後の日本(98・1・1)

 厚木市の新総合計画「厚木ハートプラン」が今年の四月からスタートする。20年後の厚木市や日本は一体どんな姿になっているのであろうか。
 これからの20年間は間違いなく分権と自治の力量が問われる時代であろう。20年後の中央政府がどうなっているかは、政治や行政など日本社会のあらゆる分野で構造改革がどの程度進むかにかかっている。
 20年後の一人当たりの国民所得がいくらになるか予測が出来ないが、気になるのは税金や社会保障を合わせた国民負担率の割合だ。いまは平均して37.5%だが、20年後は70%に上がり、30万円の給与者は21万円を税金と社会保障に取られ、手元には9万円しか残らない。いくら温かい心や人間的な配慮をするからといっても、こんな社会が来たら若者は働く意欲を失ってしまうだろう。だが、いまの政治のやり方を見ていると、こうした事態が来ないとは誰も否定出来ない。
 21世紀は国や地方の有り方を税金から考えていく時代である。税金の水準や使われ方について国民自らがチェックし、判断していくシステムを制度化しなければならない。
 政治家や官僚は何かというとすぐ増税を結論づけるが、税金を甘く見たり軽くみてはいけない。このままいくと、必ず税一揆が起こる。そうならない21世紀でありたい。

  幕末と21世紀(98・1・15)

 NHK大河ドラマ「徳川慶喜」の導入部に、幕末の厚木宿と飯山の風景が写し出されている。脚本家の田向正健さんに聞くと、特別な意味はないそうだが、幕末という時代を象徴的に表すひとコマとして活用したという。
 ところで、徳川幕府は中央政府として権力を掌握してはいたが、各藩の統治は幕府に服属している藩主に委ねていた。日本は幕末にいたるまでに、地方の風土や文化の多様性を維持しながら、モノとヒトと情報の交流=生産力を発展させ、共通の言語を作りあげることに成功した。それがその後の日本の近代化の土台となったことはいうまでもない。
 専修大学の正村公宏教授は「明治以降の日本は、そうした多様な背景のもとで育った人々を、東京に集めることによって大きなエネルギーを生み出した。しかし、行き過ぎた中央集権性と交通・通信手段およびマス・メディアの発達による文化的画一化の進行は、そうしたエネルギーの源泉を枯渇させる作用を促した」と指摘している。(『改革とは何か』ちくま新書)
 つまり、近現代の日本は、過度の中央集権性と商業主義のために、文化の地方的多様性を破壊し、民族のエネルギー基盤を風化させてしまった。その結果、個性が埋没して金太郎飴のようなヒトやモノをつくり出したばかりでなく、偽物や紛い物までが大手を振って市場を罷り通るようになってしまったのである。
 地方分権の推進は、「成長」の時代から「成熟」の時代への転換のために、日本の近現代が食いつぶしてしまった民族のエネルギーを、もう一度耕し直すという意味を持っている。それは男と女、家族、夫婦、仕事や企業、地域社会、文化の在り方までを根底から見直すことである。
 21世紀の改革は、慶喜の時代とはまた異なった地球規模の「人間の量と質の再生産」を求めているのである。

  問題発見能力と解決能力(98・2・1)

 神戸の連続殺傷事件に続いて、中学生が教師を刺殺するという信じられないような事件が黒磯市で起きた。学校現場の中でこんなことが起きていいのだろうか。日本の子どもたちは本当にいつの頃から狂ってしまったのだろうか。
 戦後、日本の社会は多くの人々が、一流企業と一流大学志向という偏った目標をもったために、受験戦争を生み、激しい競争社会の中でいつしか教育の荒廃が進んだ。受験戦争を背景にして、日本の学校教育は、子どもたちの個性や潜在能力を引き出すことに成功しなかったばかりか、むしろ逆にそれを殺すようなほとんど無意味な詰め込み教育に終始してきたのである。
 しかも、一方ではゆきすぎた中央集権性と商業主義が、文化の地方的多様性を破壊し、民族のエネルギー基盤を風化させてしまった。その結果、商業主義的擬似文化が人間性を蝕み、偽物や紛い物が大手を振って市場を罷り通るようになってしまった。
 専修大学の正村公宏教授は、こうした結果、「問題発見能力と問題解決能力のない、子どもたちが育ってしまった」(『改革とは何か』ちくま新書)と指摘している。
 しかも、こうした傾向は少子化によってますます拍車がかかった。少子化は子どもに対する過剰な保護や管理の傾向を強め、兄弟姉妹が切磋琢磨して育つという環境を滅ぼしてしまったのである。そして同時に核家族化が、親から子へ、子から孫へ伝えるという日本の伝統や文化の伝達システムを崩壊させてしまった。
 このように家庭教育と学校教育の機能不全は、子どもたちの問題発見能力と問題解決能力を著しく低下させ、社会的規範を緩めてしまったのである。社会のルールに適応できない子、我慢の出来ない子、すぐキレてしまう子がたくさん出来上がってしまった。だが、このことは学校や家庭での管理を強めることを意味しているわけではない。
 教育制度や教育環境だけではなく、家族や夫婦、企業、社会、仕事や文化の在り方を根底から見直すことなしには、子どもたちの危機を救うことは出来ない。

  テレコムの未来(98・2・15)

 厚木市が同市岡田にある「株式会社厚木テレコムパーク」が所有するビルフロアの二階部分を、約6億円で買収する計画を新年度予算案に盛り込んだ。現在、市が借りている情報プラザの機能充実が目的であるという。
 同社は厚木アクストメインタワービルんほ九階までを所有する第三セクター会社。厚木市や県、日本開発銀行など数10社は出資している。三セク分の入居率は現在、5割を越えた程度である。昨年4月の決算では累積赤字が21億円にものぼった。今期の決算でも赤字の増大が予想される。
 市の買収計画は、そうした赤字をわずかでも減らそうという狙いだろうが、三セクが主な営業収入を、不動産賃貸業に依存する限り、経営を黒字に転換していくことはまず不可能だろう。
 もともと、厚木テレコムタウン計画は、企業誘致のほかに、ニューメディアという高度な情報資源を、いかにして市民や企業に低廉でかつ合理的に配分するかというシステムをつくり出す使命を持っていた。
 それは三セクが所有、あるいは開発する技術を生かし、通信や放送、パソコンソフトといったマルチメディア関連分野での事業化をはかり、市内の中小企業や市民の情報化を積極的に支援してくいくことであろう。
 バブル経済が崩壊した今、不動産業という発想から脱却し、日本でも先導的な情報通信のプロジェクトを打ち出さない限り、三セクの未来はない。

  里山リストレーション(98・3・1)

 本紙連載の足立原美枝子さんの『相州八菅山』は、かつて日本の里山にあった自然と人間の営み、家族や地域共同体のあり方をしみじみと考えさせてくれる。
 この中で足立原さんは、山が人々の生活になくてはならない資源を尽きることなく提供し、人々がごく自然にその恩恵に浴して、山のぬくもりと神秘さを肌に感じつつ、心豊かに暮らしている姿を見事に映し出している。
 ところが、炭、薪、練炭から石油、ガスという日本の燃料革命や生活様式の変化によって、人々と山とのこうした関係が滅んでしまった。そして里山が崩壊した。木と語り、木に学び、木の文化を考える様々な取り組みを失ったことは、特にその後の子どもたちの成長に決定的に重大な影響を及ぼすことになったのである。失われた里山をどのように復活させるか?
 岐阜県清見村にオークヴィレッジという工芸村を創設し、自然との共生をめざして木の文化の再生や、環境教育に取り組んでいる稲本正さんは、「子ども一人、どんぐり一粒」を合言葉に、秋に拾ったドングリを家庭で育て、春の植樹祭で山に返してもらうという広葉樹の植林活動を提唱している。この運動は1982年から始めているが、広葉樹の育林と保全運動というよりは、人々の精神を癒すという役目の方が強くなっているという。「受験教育や管理教育でいためつけられた子どもたちは、どんぐりの成長を見ることで、精神的バランスをとっている」(稲本正『森と心』角川書店)のである。 
 厚木市は今年から「里山リストレーション事業」に取り組む。地元の森林組合の協力で、ボランティアの手によって雑木林を再生し、鳥や小動物と共生できるバランスのとれた里山づくりをめざすもので、炭焼き体験やクラフト教室なども行なうという。
 里山を取り戻すだけでなく、自然と人間とのかかわり方、家族や人間同士のつながりまでを再構築するようなリストレーションが生まれてくることを期待したい。

  堤防道路(98・3・15)

 厚木市の相川地区の相模川右岸堤防道路の整備計画に、岡田地区のリバーサイド自治会が反対している。堤防道路はこれまで七メートルという話だったから、11メートルははまさに寝耳に水の話であった。しかも相模大堰の取り付け道路として利用するという。
 相模新橋の取り付け道路は平成6年11月、学校用地が分断されるという地元住民の反対を押し切って都市計画決定された。新橋の中間から県道酒井金田線までを東西に結ぶ延長570メートルである。だが、相川小学校の敷地が道路によって二分されるため、体育館とプールを再配置しないと手がつけられなくなった。計画を実行に移すためにはそれが条件となったのである。
 学校に隣接する青果市場を買収すれば、再配置が可能になるが、厚木市には買収する考えはない。道路予定地の地権者からも買収反対に遇い、事業は完全に暗礁に乗り上げた恰好だ。そこで出てきたのが、今回の堤防道路を拡幅して新橋の取り付け道路として使うという話である。拡幅には団地側の緑地帯の撤去と、共有地の一部買収が前提だ。先日行なわれた市と団地側との話し合いでは、「強制執行」してでも買収するという話が出たそうだ。
 堤防道路を拡幅すればリバーサイド団地内の市道とも接続が可能になる。市は当面、堤防道路と団地内の公道を接続する気はないというが、地元自治会では将来にわたっての保証はないと心配している。
 自治会では都市計画道路が進まないツケを堤防道路に回してきたと怒っている。もしそうだとしたなら、これは全く筋違いな話で、強制執行する相手が違うのではなかろうか。社家岡田線の整備が進まないのは、行政の職務怠慢以外の何ものでもない。

  かけこみの家(98・4・1)

 文部省の「調査研究協力者会議」は、このほど相次ぐ少年事件の解決や指導の中で「学校の能力・権限の限界」を明らかにし、警察や他の関係機関との積極的な連携を求める方針を打ち出した。
 「学校は子どものすべての行動に責任を取りえない」「学校は万能ではない」とする考えを初めて明確に打ち出したもので、学校内だけですべてを解決しようという抱え込み意識や閉鎖的意識を捨てるべきだと強調している。
 この文部省の考えは別に学校崩壊を意味しているわけではない。学校はもともと学問を教える場所である。ところが、戦後、親が家庭教育を放棄してから、日本の学校教育は過大な荷物を背負うことになってしまった。それが限界に達したのである。子どもの教育に関しては学校は一人相撲をやめ、親も地域も応分の負担をしなければならないだろう。
 厚木市では昨年から、子どもたちの身を危険な状況から守ろうという「かけこみの家」運動が始まった。これには学校やPTAだけでなく、自治会や商店会なども参加して地域ぐるみの運動として取り組んでいるところもある。
 この「かけこみの家」を、児童・生徒の身を危険から守るだけというのではなく、しつけや子どもたちの悩みを聞いてあげるという「愛の一声運動」にまで高めることは出来ないだろうか。私たち大人が、おせっかいなおじさんやおばさんになって、子どもたちをあたたかく見守ってやるのである。学校の指導の限界は、実は親や地域の頑張りを意味しているのである。

  卒業式(98・4・15)

 埼玉県所沢高校で、日の丸・君が代の厳粛な「卒業式」や「入学式」を行なう校長と、生徒会主催の「卒業記念祭」や「入学を祝う会」が対立して開かれ、何とも気分のすぐれない日が過ごした。同校では学校運営のルールは従来、生徒会と職員会議で決めてきたという。学校と生徒は対等な関係というのだろうが、果たして教える者と教わる者に対等の関係があるのだろうか。もちろん、教える者が生徒の人権を無視したり公平さの配慮に欠けていては問題だ。だが教える者への敬意や教わる者に謙虚さもなければ困る。
 日本経済新聞に、子どもが親を呼び捨てにしているのを聞いた教師が、「人前ではお父さんと呼びましょうね」と注意したら、その親から「うちは親子が対等な関係だから、名前で呼び合うようにしている」と文句を言われたという記事が出ていた。
 対等な親子関係なんてあるのかと驚いてしまうが、子どもと同じレベルで感情的になったり、子どもの前で教師の悪口を言う親がいるし、子どもと同じレベルで校長や教育委員会に文句を言う教師がいる。しかし、このレベルは対等ではない。子どもに親や教師がただ迎合しているだけだろう。先生と生徒、親と子という関係をいま一度考え直しててみてはどうか。
 昔は卒業式の歌といえば「螢の光」と「仰げば尊し」に決まっていた。歌詞が古いのか、時代に合っていないのかは分からぬが、最近の卒業式ではこうした歌はまったく歌われなくなった。時代が違ってもこの歌を分かる子どもたちが育って欲しいと思う。

  元気印のまちづくり(98・5・1)

 岡山県笠岡市に「ゲンキ笠岡まちづくり支援事業」というのがある。市民自らの手で計画実行するまちづくりを、行政が支援するもので、平成8年度から始まった。支援事業は、ソフトとハードに分かれ、ソフトには50万円、ハードには100万円の補助金が支給される。
 この三年間でソフト、ハード合わせて72件の応募があり、35件が事業化されたという。アイディアを審査するのは役人ではなく、イベントプロデューサー、漫画化、アナウンサー、建築家、大学教授といった顔ぶれである。
 厚木市でも「あつぎハートプラン」の重点目標である「厚木らしさ」を創造するため、市民の知恵をまちづくりに活かすという「厚木らしさの創造推進事業」がこの5月よりスタートする。公民館単位に、地域の特性や歴史的特徴などを活かした事業を市民に考えてもらい、交付金を出すというものだが、対象団体は地区自治会連絡協議会会長を代表者にして、大部分が自治会長や公民館長が推薦した者で構成されるという。これだと自治会長や公民館長好みの人選にならないだろうか。
 既存の組織や枠組みにこだわらず、市民が自由に厚木らしさを創造し、描いた事業を行政が支援するという方法が取れないものかと思う。
 笠岡市は「市民のグループであれば誰でも応募できる。しかも役所は金は出すが口は出さない」ことにしているそうだ。

  役所の不祥事(98・5・15)

 厚木市はこのほどセクハラと職務中に飲酒をしたとして部長級の職員2人を処分した。職員の入札妨害、勤務中のパソコンゲーム、酒酔いした上での当て逃げなど不祥事続きの厚木市だけに、職員の意識は一体どうなっているのかと疑いたくなる。
 不祥事の内容は極めて低次元だ。しかも一般行政職の最高幹部が起こしたとあってはあきれて物が言えない。恥ずかし限りである。民間でもセクハラや勤務時間中の飲酒は、厳しく処分される時代である。厚木市の職員のタルミは公僕とはほど遠く、まったくひどすぎる。
 これを機に管理職のスクラップ&ビルドを断行してはどうか。不適切な管理職をどんどん降格させるのである。もちろん賃金もカットする。その分、やる気があって能力のある職員をどんどん管理職に抜てきすればいい。
 役所の部課長は極論すれば鉛筆を持たない、企画もしない、仕事は係長に任せてハンコだけ押すといういわゆる座っているだけの管理職が多い。つまり部下のやる仕事を“ピンハネ”するだけの管理職である。こういうピンハネ型の管理職は本来不要である。
 それにしても、こうした不祥事が続くと、市長の方針や意識が、管理職や職員にどの程度伝わっているのかと、疑問に思わざるを得なくなる。役所も民間も上に立つものが、信頼を失ったら組織は崩壊する。

  降格人事(98・6・15)

 日本の社会で仕事をしなくても身分保障が完璧なのは役人だけといわれている。不祥事を起こしても、収賄以外はよほどのことがない限りクビにはならないのだ。
 ところが、厚木市では入札妨害で起訴された職員を懲戒免職処分とした。昨年と一昨年、同じ入札妨害で処分を受けた職員が6か月と4カ月の停職だったのに比べると、今回は随分と重い処分だ。不祥事の続発とこれまでの市の処分は甘いという、世論を考慮した上での決断であったのだろうが、処分の公平さという点では甚だ疑問が残る。
 理事者は議会で、不祥事の原因は職員の資質にあると答弁していた。だが、市の機構や人事管理にまったく問題がなかったのであろうか。また、今後同じような不祥事が起きた場合、今回の処分がその基準となるのであろうか。
 セクハラ、勤務中の飲酒など、最高幹部の不祥事も明るみ出たが、感ずることは役人には「恥」の意識がないということである。万分の一でも恥じるという気持ちがあるのなら、処分が出る前に進退伺いが出て当然だろう。だが、それもない。管理職でさえそうなのだ。今日では自らを処分するというサムライはいなくなった。
 ところで、役所というところは懲戒免職以外は、処分が済むと名誉回復の努力をしなくても、また同じポストにつける不思議なところでもある。たとえば部長が停職の処分を受けても、戻ってくると再び部長の机があり、部下も大勢いる。これは降格がないからである。役所も民間と同様、不祥事や仕事が出来なかったりした場合は、民間並にどんどん降格人事を進めるべきだろう。もちろん、ポストだけでなく給料も下げるのである。
 また、不祥事では責任を取るが、政策の失敗では責任をとらないというのも役所である。これを機に今後は「政策の失敗」についても、責任をとる行政を進めたらどうか。

  元気な自治体番付(98・7・1)

 共同通信社が『3,302人の首長が描く等身大の日本−全国自治体トップアンケート98』を発表した。中でも首長が選ぶ元気な自治体番付は面白い。これは複数の自治体から「今後の行政のモデル、目標とする自治体」として推薦された都市を東日本と西日本に分けたものである。
 東日本の横綱は静岡県の掛川市である。人口77,942人。79年に「生涯学習都市」を宣言、住民が主体となって開発や保全を決める「まちづくり土地条例」を制定するなど、行政への市民参加を徹底。新幹線新駅や高速道路ICを市民の募金でつくるほか、住民自治の確立という市長のリーダーシップも評価を受けた。
 西日本の横綱は宮崎県の綾町である。人口7,663人。88年全国で初めて有機農産物を町独自基準で認定する「有機農業条例」を制定し、「綾ブランド」野菜の生産拡大を進める。また「照葉樹林都市」を宣言、カシやシイなどの原生林を保護し、生態系を生かし育てる町として注目されている。 この二つの自治体に共通しているのは、中央に組み込まれない独自の政策を掲げ、うちはこれで生きるのだという強い信念を持っていることである。
 まちづくりは量と規模の競争ではない。きちっとしたポリシーを持ち、議員を含めた職員がレベルアップして市民とともにに中央や物真似でない独自の地域と文化を創造することだろう。ちなみに厚木市をモデルにあげた自治体はなかった。

  環境都市(98・7・15)

 環境都市というと、ドイツの「フライブルク市」が有名だ。中心街への自家用車の乗り入れを禁止して、路面電車と自転車の併用を行なったり、ごみの管理を徹底するなど世界中から視察団が訪れている。
 日本では公害を克服した北九州市や琵琶湖の保全運動で知られる滋賀県、有機農産物にこだわる宮崎県綾町などが浮かんでくる。北九州市と中国の大連は、独自の技術提携をおこない大気汚染などの改善にも取り組んでいる。
 埼玉県では2005年から2010年の間に、一人当たりの二酸化炭素の排出量を1990年より20%削減するという。川越市では96年から1%節電運動に取り組んでいるし、山形県立川町の風力発電なども注目されている。
 環境問題の基本は「地球規模で考え、地域から行動を起こす」ということであろう。川崎市に代表されるように、かつて日本の公害を克服してきたのは地方自治体であった。そこには生命を守り自然と共生しようという「地域の自覚」が明瞭に示されていた。
 どこの都市も「環境にやさしい自治体」になりたいという。だが、具体的なイメージやプランはなかなか湧いてこない。厚木市が策定を進めている環境基本計画は10月に公表されるが、果たして市民はどんなイメージを持つだろうか。フライブルク市や公害を克服した自治体のように、地域をリードし、世界の先端を行く環境都市の施策を打ち出したいものである。

  厚木らしさの創造(98・8・1)

 厚木市で「厚木らしさの創造推進事業」がスタートした。市民が公民館単位に地域の自然や歴史、特徴などを話し合って「ここぞ私たちのまち」と言える個性を形成しようというものである。
 「わが町は、いったいいかなる町であろうか、また町であろうとするのか」という問いに、明確に答えることはなかなか容易ではない。
 地域アイデンティティ(RI=リージョナルアイデンティティ)という言葉がある。まちづくりを考える場合に、RIを基礎として、都市住民の意識をまとめていこうという考えから出てきた。このRIは蓄積した資産のように、地域社会にすでに備わっているものではない。それは住民が自分で発見しなければならないものである。
 厚木市の事業もそうした視点から試みたものであろう。たとえば昔話や風俗、習慣など地域の伝統の中にある地域の思想の中から、何が地域らしい生活なのか、その「らしさ」を住民自ら確認することが大切だ。
 京都学園大学の波多野進教授は、「注意しなければならないのは、現在の住民だけの考えでRIを見ないことである。単なる自己確認ではなく、他の人々にも認められること。さらに単なる他者だけの評価ではなく、自分たちが他者にどのようにかかわろうとしているのかが、アイデンティティの重要なポイントになる。この他者には、もちろん同時代の他国の人びと、他の地域社会の人びとのほかに、時代を超えて、先人、また子孫、今後あらたにこの地域で生活するであろう人びとを含めて考えるのである」(『地域主権の経済学』実務教育出版)と指摘している。
 「厚木らしさの創造」は、現在の地域の視点から見た伝統の意味を、内と外から明らかにすることであろう。

  議会のリストラ(98・9・1)

 厚木市鳶尾に住む雪島東風さん(57)が、議員の定数と報酬の削減を求める陳情書を議会に提出した。雪島さんは「年40日ほどしか出ていない議員の報酬が、年間800万円もあるのはおかしい」として、市議の定数を5つ減らして25にすることと、報酬の1割削減を求めている。
 雪島さんのように、議会の定数削減を求める声は、今日では世論の常識である。これはリストラというコストの面だけでなく、報酬に見合った仕事をしていない、無能な議員が多いというのが、削減論の根底にあるからだ。従ってこのレベルになると自治法に定められた定数論議などの出る幕ではない。
 ところで、首相の諮問機関である地方制度調査会は、地方議会の政策論議を活発にするために、サラリーマンや主婦が議員として活躍できる「非常勤議員」制度を導入する方向で検討に入った。福祉や教育、国際交流など特定な分野で仕事の経験や専門知識を生かしてもらおうというもので、非常勤議員は選挙で選び、報酬は通常議員の半分にするという。
 とかく「政策に弱い議員が多く、議論が低調」と批判される地方議会を、もっと活性化させようというのが狙いで、調査会では2年程度で答申をまとめ、これを受けて自治省は法改正に着手するという。
 無能な議員を減らし、有能な市民を議会の場に送り出す方法としては、極めて注目に値する。ついでに議員の当選回数についても盛り込んで欲しい。

  財政破綻(98・9・15)

 岡崎知事はこのほど、今年の冬のボーナスから2000年3月までの5回分のボーナスを、全額返上すると発表した。財政危機の打開策の一環として、歳出の大半を占める人件費の削減を率先して自ら実行するのだという。
 これに合わせて3人の副知事、出納帳の特別職のボーナスについても、一律50%カットする。全体の歳出額にくらべるとその数字は小さいかも知れないが、知事と特別職を合わせたボーナス返上の総額は4,000万円程度になるそうだ。
 民間ではごく当たり前のことなのだが、行政がこうした発想で歳出削減に取り組む例はいままでほとんどなかった。定数を削減しても給与や賞与には手をつけないというのが、行政のこれまでのやり方であったのである。
 長びく不況の影響で税収が落ち込み、県財政は「火の車」である。岡崎知事によると、今年度の税収は当初の見込みより1,000億円程度減収になり、このままいくと石油ショックの影響を受けた75年度以来の赤字決算になる恐れがあるという。財政の非常事態である。
 県では人件費を含めた義務的経費は歳出の7割を占め、財政の硬直化が進んでいる。10年後の職員退職金も膨大な数字になる見込みで、一般職員を含めた人件費の抑制は県の重要課題となっている。 まず「隗より始めよ」岡崎知事は身を呈して財政再建に取り組む姿勢を明らかにした。次は議会と職員の番であろう。

  AINETの解散(98・10・1)

 厚木市の第三セクター「株式会社厚木総合情報センター(AINET)」が、来年3月31日で解散することが決まった。
 同社は郵政省のテレトピア構想モデル都市の指定受けて昭和62年(1987)7月、地域情報化の旗手として誕生した。2億4000万円の資本金は、市や商工会議所、農協、地元企業など34団体が出資した。
 主力商品であるキャプテン(電話回線による文字図形情報通信)を販売するため、市内の公民館や図書館にも端末を置き、市政情報などのサービスも提供してきた。89年には、「最適列車案内システム」が、全国キャプテングランプリを受賞、スポーツ予約システムなどはそれなりの効果を上げたが、爆発的に普及するまでにはいかなかった。開設後11年が経過するが、端末はわずかに920台を数えるだけ。最近はインターネットの普及でアクセスが減り、平成10年8月末現在の累積赤字は約4000万円を越えた。9月17日の取締役会では「地域情報化の推進を図るという所期の目的を達成、その役割を終えた」として解散を決めたという。
 このキャプテンはマーケットメカニズムとは別な次元で事業化が図られたため、開設当初から市民ニーズが低かった。端末導入者もそれは必要性からではなく、市の情報化政策の一環であるという意味でおつき合いした人がほとんどである。
 厚木市のキャプテンはなぜ地域のメディアとして成功しなかったのだろうか。第1はキャプテンを利用するには通信料の負担や端末機が必要だが、端末機の低価格化に成功しなかったこと。第2はキャプテンの持つ双方向性の機能を十分に活用したシステムを開発することが出来なかったこと。第3は民間企業が多数出資しているにもかかわらず、企業形態が行政主導の第三セクター(経営トップを市長や助役が兼ねてきた)であるため、経営のノウハウを身につけることができず、民間の経営手法が生かされなかったこと。第4は提供する情報の価値が低く魅力に乏しかったことなどが挙げられる。
 その結果、厚木市の期待に反して、市場はキャプテンに積極的な反応を示さなかったのである。ことに、郵政省のお墨付という看板と行政主導でスタートしたという事情が、こうした市場の反応を的確につかむ判断力を失わせ、経営の見通しを甘くしてしまったのである。
 厚木市民はキャプテンが地域の情報化に有効なメディアであるという認識を示さなかったにもかかわらず、事業者は的確な経営方針を打ち出すことは出来なかった。従ってキャプテンは「地域の情報化」という所期の目的を達成したのではなく、達成せずに解散に追い込まれてしまったのである。
 全国で三セクの破綻が相次いでいるが、こうしたやり方は第三セクターの放漫経営として大なり小なり全国各地で見られる。厚木市の2つ目の第三セクター「株式会社厚木テレコムパーク」もその例外ではない。困ったことには経営が行き詰まったときに、どの主体がリードして処理にあたるかがはっきりせず、いつも対応が遅れがちになることだ。その結果、損失処理は必ずといっていいほど自治体に回される。面子やもたれあいが続けば続くほど赤字が累積する。現在、三セクの破綻が表面化しているのは氷山の一角だ。今後、全国で破綻する三セクはさらに増え続け、その処理が地方財政を圧迫することは目に見えている。
 市場から見放され、増え続ける三セクの赤字を食い止めるには、自助努力に見切りをつけ、いち早く破綻処理に取り組むことであろう。どこの三セクでもその判断が問われている。

  おもちゃ図書館(98・10・15)

 おもちゃ図書館「シャーナ」は、小鮎公民館の学習室の中から大山が見える景色の良い場所にあった。「バスやタクシーを使ってやって来る人には遠くて申し訳ないのですが、でもみんな窓から見える景色はとても気に入っているんですよ」という代表の斎藤登喜恵さん。
 ここで障害を持つ子どもたちやその父母、兄弟が大勢やってきて、みんないっしょに遊んでいた。オヤと思うのはボランティアも、お手伝いするばかりでなく、いっしょに遊んだり、おしゃべりをしたりして楽しく過ごしていることだ。
 会が発行するニュースに「おもちゃ図書館のボランティアは誰がボランティアか、そうでないのかはっきり分からない。なぜなら、おもちゃ図書館に来る人は、みんな涙も笑いも共有しあえる仲間だから」と書いてあった。斎藤さんも「おもちゃ図書館はひとつのファミリーみたいなんですよ」という。
 取材した時、中学1年生の不登校の男の子が来ていた。母親もシャーナのボランティアである。男の子は学校よりもここが楽しいと見えて、みんなと一緒にニコニコ顔で話したり遊んだりしている。よっぽどここが気に入っているのだろう。
 筆者は「学校へ行かなくても子どもは育ちますよ」と、つい余計なことを言ってしまった。誰にでもホッとする空間。シャーナにはあらゆる子どもたちや大人を包み込むあたたかい魅力がある。

  議員定数(98・11・1)

 厚木市会が議員の定数問題について論議している。議会は市長が提案する税金の使い方をチェックする重要な役割があるだけに、賛否両論があるだろう。
 今日、定数問題が話題に上るのは、財政危機による行政改革と議員の質の問題がその背景にあるからである。自治法では人口に応じた定数が割当てられている。人口20万から30万未満は44人で、厚木市会は14人も定数を減らしていることになる。従って、これ以上定数を減らすと、議会の機能をせばめ、民意の反映が損なわれるというのが、反対者の論理である。
 過日の朝日新聞に、米国テネシー州のチャタヌーガ市のことが紹介されていた。「米国一住みやすい」と全米市長会が折紙をつけた都市である。人口16万人。議員は女性2人を含む9人だ。日本の同規模の都市の4分の1しかいない。
 議員が少ない理由は、市の計画策定や問題の解決に、住民が最初から直接かかわっているからである。市内のいたるところで毎日集会が開かれ、市長も月1回は住民と対話集会を開く。集会では情報公開が徹底され、これをもとに市民が計画を練るという手法がとられている。議会の開催日は毎週火曜日の夜で、誰でも自由に傍聴ができる。
 効率が優先される米国で、このような愚直な方法がとられている。チャタヌーガ市をお手本にするわけではないが、情報公開と住民参加の手法を徹底させれば、議員の数は少なくて良い。だが、それ以前に議員の質を問題にしなければなるまい。

  経常収支比率(98・11・15)

 地方自治の財政事情を示す数値に経常収支比率というのがある。同比率が75%以下なら健全、80になると黄信号、85を越えると赤信号が灯る。
 自治体の98年度3月決算を見ると、経常収支比率のワースト順位は、大阪府の112.0、次いで神奈川県の106.2、愛知県の99.0。東京都も96.1で限り無く100に近い。公債費負担率はどうであろうか。これも大阪府12.6、神奈川県11.2、愛知県12.4、東京都9.3と15%の警告ラインに近づきつつある。
 これらの自治体はこぞって非常事態を宣言した。放っておくと財政再建団体に転落するからだ。なぜそうなったのか。答えは簡単である。税収が落ちたのに、歳出だけが増え続けたためである。ちなみに厚木市の経常収支比率は68.3、公債費負担率は17.3である。
 人件費太り、ばらまき行政、都市基盤整備を目的とした公共事業、コスト意識の希薄さ、そして日本の自治体では懐の大小に関わらず、どこでも金太郎飴のような事業が行なわれてきた。そこに介在する補助金と地方交付税。その結果、住民にとっては採算の合わない施設と借金だけが残ってしまったのである。
 これを改革するには、住民自ら事業をチェックするという自己責任の原則が必要だ。橋一つかけるにも民意が問われなければならない。場合によっては住民投票するぐらいの気持ちがないと、地方自治の財政再建は不可能だ。これまで住民はあまりにも放任しすぎであったのだ。

  行政協力報償金(98・12・1)

 厚木市が自治会長に支給している行政協力報償金と、自治会長研修視察を廃止すべきだとして「厚木市政をウォッチする会」が11月2日、住民監査請求を行なった。
 同会は請求理由として、「市は報償金で行政の肩代わりを自治会長を通じて強いている。研修視察も自治会長の慰労であり、自治会長と自治会に対する住民の信頼を低下させる要因だ」と指摘している。
 従来から市は行政上の施策や事業を、自治会長を通じて意見を聞くというやり方をとってきた。つまり、行政課題や施策を自治会長に一本化することによって、市民参加を形式的かつ効率的に制度化してきたのである。
 中京大学社会学部の松田昇教授は、「行政が自治会長に期待するのは、地域代表機能・総合調整機能・地域管理機能」の3点だと指摘している(『ハイテク化と東京圏』北側隆吉篇・青木書店)。
 だとするなら自治会長は、行政にとって誠に都合の良い存在ではなかろうか。行政は「市民参加」を巧妙にかつ形式的に進めるため、自治会や自治会長を行政協力者として重宝してきたのである。言ってみれば自治会長との対話とか自治会の意見を聞くというのは、自治会を行政の下請け機関化させるための巧妙な手法なのである。自治会長の発言が、行政の代弁者となるケースなどはまさにこの典型であろう。従って、自治会長一本化のラインから外れる要求や要望は、行政にとって好ましくないということになる。
 自治会組織がどれだけ住民自治を達成しているかは、自治会個々人の自治意識に大きく左右されることはもちろんだが、決め手を握っているのはやはり行政との関係だ。行政との対応が非近代的なものであればあるほど、行政との間で癒着が発生し、ボス支配がはびこり、その結果、ますます行政の補完団体、下請け機関化するという悪循環をたどる。
 行政協力報償金というのは、行政が自治会を下請け機関化するための賄賂的性格を持つものだといっても差し支えない。これは本来自治会にとっては不当な恩恵だといわなければならない。 
 自治会は市民の意見を代表する一つの機関ではある。しかし、自治会長にその地域の意見がすべて集約されているわけではない。「市民が主役の市政」は「自治会長が主役」の市政ではない。報償金や研修視察はむしろ自治会長の方から辞退すべきだろう。

  行政の非常識(98・12・15)

 厚木市議会の一般質問を聞いていて、行政というところは民間の常識が通じないということを再認識させられた。徳間和男議員が財政危機時代の問題点として、期末勤勉手当の役職加算の廃止について質問したが、市側は「人事院から見直しの勧告がないので存続させていきたい」と検討の余地すら見せなかった。
 この役職加算は、バブル期に官民格差を是正するために取り入れられた全国的な制度で、厚木市では20%を上乗せをしている。厳しい不況の時代に見直しをするのは当然ではないかというのだが、市側にはこうした常識はまったく通じない。
 徳間議員はテレコム支援に関連して、厚木市食肉公社が赤字補填のため、約1億円の支援を行政に要望している問題を取り上げ、市長の考えを質したが、山口市長は「法的な問題をクリアし、必要と認められれば」と答え、予算措置を示唆する答弁を行なった。
 赤字経営が続き、平成13年には廃止が決まっている食肉公社に、市が財政支援する根拠はまったくない。これを支援するとしたなら、それこそ監査請求ものだろう。山口市長はテレコム支援については「重要課題である」という認識にとどめ、明快な答弁を避けた。
 役職加算の廃止、赤字部門への支援打ち切りなどということは、民間では論議を待たない。だが、行政というところはそうではないらしい。山口市長はアクセルとブレーキをどう使い分けようというのか。「リストラ市長」はいったいどこへ行ったのだ。

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