厚木の大名 <N014>

烏山用水         山田不二郎

烏山用水(相模原市田名)

 厚木神社北隣の烏山藩厚木役所旧跡に近い相模大橋から相模川を遡ること凡そ13q、高田橋の架かる左岸側が相模原市田名である。江戸時代後期の田名村の戸数は569戸(『新編相模国風土記稿』)、11の集落からなる比較的大きな村である。
 享保13年(1728)、厚木村と同じく一村全体が烏山藩大久保氏の所領となる。相模国内の烏山藩領では厚木村に次ぐ1,650石余りの石高があった。集落の多くは相模川が形成した河岸段丘(台地)上にある。台地の下は相模川の氾濫原である低地が広がり、相模川沿いの自然堤防には滝(たき)と久所(ぐぞ)の二集落が営まれてきた。

 高田橋を渡ってすぐ左に曲る道が旧道で、家々が密集する久所集落に入る。相模川の渡河点である久所は、江戸時代以降盛んになった大山参詣の止宿であった。後年、「鮎の水郷田名」をうたって相模川の鮎漁による観光でも賑わった。集落東側の低地一帯は現在、住宅地となっているが、以前は相模川の水を引いた水田が広がっており、水郷たる景観を呈していた。集落の北側にある鎮守田名八幡宮西側を、地元で新堀と呼ぶ用水が流れている。久所の水田を潤した用水であるが、この用水際に「烏山用水」の標杭が立っている。この名は烏山藩が行った新田開発に由来している。
 明治・大正期の用水改修工事竣工を記念して建てられた「疎水工事紀念碑」(八幡宮境内) 裏面には、冒頭に次のような碑文がある。「高座郡田名村疎水工事ノ沿革ヲ按ズルニ安政五年領主烏山ノ城主大久保佐渡守殿相模川字山王崖ヨリ隧道三百間ヲ鑿チ水ヲ引キ以テ新田ヲ開キ耕サシメタリ」。
烏山藩は、特に凶作による飢饉が発生した天保期に本領の下野領が荒廃し、天保7年(1836)には借財が3万4千両余になるほど藩財政は悪化していた(『相模原市史』第2巻)。田名村の相模川低地一帯の開発は年貢増収による財政再建を企図したものであろう。
 開田工事は安政5年(1858)に着手された。滝集落にある宗祐寺西側の山王坂の崖下からトンネルを掘って集落内に出口を設け、ここから南へは掘割を開鑿して導水した。また、高田橋の少し上流の地点からは旧来の堤防につなげて新しい堤防を築いていったという。工事が完成したとされる翌安政6年に「御普請所諸入用惣〆帳」が作成されている。これによると、総費用は金478両2分と807文。主な資材としては、杭などに使う雑木が4,294本、縄960房、築堤用の蛇籠は1,971.5間(延べ3,500m余)にもなった。工事に携わった人足の数は記載されていないが、総額の7割を超える350両余が手間代として書上げられている(『相模原市史』第2巻)。
 工事道具をみると、ツルハシ14丁やジョレンなどの掘削具、運搬具はテンビンやモッコ程度のものである。相当の困難を伴った大工事であったと思われ、また、従事した人足の多くは村人であったと思われる。ところが、先の碑文はこう続けている。「然ルニ万延元年洪水ノ害ヲ蒙リ平田埋没シ水路杜絶セリ」。
 工事が完成した翌年の万延元年(1860)、この年の大水によって堤防は決壊、村人の労苦の末にできた新田は、いくばくの実りも見ることなく濁流によって流出してしまった。決壊したのは新旧堤防のつなぎ目あたりであったという。『相模原市史』第2巻は、「全く年貢増徴のみを考えて、新田の開発が広過ぎ、それを守るための堤防が水勢水圧を考慮せず」と、烏山藩の工事監督者の責任を断じている。
 その後、烏山用水は地元農民の努力等があり、この低地の水田を潤す用水となった。その経過は『相模原市史』第3巻に詳述されている。 

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