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衣食住ともいまだに貧しい時代だった。度重なる停電にも人々はすっかり慣れっこになり「線香なみの送電だ」などと揶揄した。 蓄音機はもちろんレコードさえ高嶺の花だったが、ラジオだけは戦時中の空襲情報を聞く必需品として1家に1台はあり、それが唯一の娯楽でもあった。 懸命に生きる人々に夢や希望をと、昭和21年5月にはじまったNHKの「ラジオ歌謡」は疲れ果てた人々の心を慰撫してくれた。「朝はどこから」や「山小舎の灯」、「夏の思い出」など人々に口ずさまれる歌もそこからたくさん生まれた。 厚木のハーモニカを語る上で岩崎重昭とともに重要な人、大矢博文は小学6年生の時、ラジオから流れる「山小舎の灯」に耳を傾け、それを愛唱する1人だった。 昭和23年、重昭が宇都宮農林専門学校を卒業し、家に戻って過ごす最初の夏休みのことだった。 相模川でひと泳ぎした重昭が土手に寝そべっていると、ひょろっと痩せた細面の少年がニコニコと人なつこい笑顔を浮べて、駒下駄にふんどし姿でつかつかとそばにやってくる。重昭の近所に住む少年も一緒だった。近所の子の方がこう切り出した。 |
「重ちゃんの家からいつもハーモニカが聞こえるけど、誰が吹いてるの」 「俺だよ」 重昭が得意そうに答えると2人の少年は目を丸くしていっそう重昭に歩み寄る。 細面の子は「重ちゃん、俺にもハーモニカ教えてくれないか」と言う。 「ああ、いいよ」 「明日からでもいい?」 「ああ、いいよ」 小躍りして2人は帰って行った。 細面の子が、当時中学1年生、12歳の少年の日の大矢博文だった。もう1人は後藤といって、後にコンクールでも入賞する同級生だった。 博文は夏休みの間、“種屋の重ちゃん”の家の前を通って、毎日のように泳ぎに来ていたのだった。 雲井劇団という厚木では名の知れた劇団の座長を務める大矢一を父に、1人息子の博文は母、キンからもたっぷりと愛情を注がれていた。キンは和服の似合う人だった。 博文が相模川に出かけたとなると心配で心配で川原を見回る。傘をさして歩くその和服姿は重昭にはまぶしく感じられた。 早速翌日から博文たちが重昭の家へやって来た。店の2階で、ハーモニカは重昭のものを貸してドレミファの基本から教えてやった。 「ロングロング・アゴー」や「草競馬」などが練習曲だった。 ある日のことだった。重昭が指導の手を休めて後ろを振り返ると、あの美しい和服姿があった。 「大矢でございます」 丁重に一礼して優しい笑みを浮べている。 「博文がお世話になってます。川原じゃとっても心配だけど、重ちゃんのところなら安心です」 心底安堵したような面持ちで重昭に礼を言う。目尻には幾分光るものが見えた。キンは気さくで、涙もろい一面もある人情家だった。 |
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