|
街の角々での「岩崎ハーモニカ楽団」の演奏を聴いて、武は「若い連中がなかなか難しいのをよくやるな。ハーモニカは面白い」と興味を覚えた。 その後、平井 武が重昭と直接出会ったのは正月に開かれた武の家での百人一首のかるた取りでだった。 武の両親や重昭の母が百人一首が好きで、数百メートルも離れていない互いの家を会場に10数名が集まり、毎年正月頃になるとかるた取りをしたのだった。 「ひさかたの光のどけき春の日に…」「君がため惜しからざりし命さへ…」 平塚農業学校時代から百人一首をやっていた重昭は上の句を読み出すやいなや、パーンとかるたを飛ばす。相当の腕前だった。 「ああ、この人が “メガネのどんちゃん ”か」重昭は武をまじまじと見た。武は口数の少ない好青年だった。 武は中学生の頃から鉱石ラジオを作ったり、後には近所の人たちに頼まれて真空管のラジオを何台も作るほどのラジオ青年だった。 そんな噂を博文たちから聞いた重昭は、武に電蓄を作ってくれないかと持ちかけた。 学校の帰り道、都電で秋葉原まで出て、アメリカ製の8本足のメタル真空管で出力の出るものをかき集めて重昭に電蓄を作ってやった。 手先の器用な武のこと、大きな箱に真空管やスピーカー、モーター、ターンテーブルなどを収めて電蓄は完成した。当時、買えば7、8万する高価だったものを、ほぼ材料費だけの2万ほどでいいと武は言った。 すばらしくいい音のする電蓄だった。重昭はそれではお礼にと、鶯声社製のハーモニカ「エコー」の中古を6本、武にやった。それから武は重昭のもとへハーモニカを習いに通うことになった。『スプリング・ソング』なども習い、吹いた。 |
|
. |
|