2002.02.01(NO3) 厚木の「ハーモニカの父」 |
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日本の“ハーモニカの父”といえば川口章吾だが(『ハーモニカの本』春秋社)、演奏者、そして優れた指導者として、今日の厚木のハーモニカの隆盛の礎を築いた岩崎重昭はさしずめ“厚木のハーモニカの父”と呼ぶにふさわしい。氏の功績を挙げれば枚挙にいとまがないが、なによりもハーモニカ演奏を“音楽”として完成させた点は高く評価されることだろう。その実例は別に詳しく記すとして、氏のハーモニカとの出会いをたどってみることにする。 |
大正時代が終わりを告げ、「昭和」と改元、若い天皇が即位し、大礼最初の儀式となる期日奉告の儀が宮中賢所皇霊殿神殿で執り行われた昭和3年1月17日、ちょうど日を同じくして、厚木町で八百屋を営む岩崎芳太郎と、彼のもとに寒川から嫁いだチカの間の長男として、重昭は元気な産声をあげた。新しい年の厳かな気分の残る曇りがちの日のことだった。 母チカは相当音楽好きだったようで、ハーモニカもメロディを吹くほどにたしなんだ。母の吹くやさしく、あたたかなチカのハーモニカの音色に、幼い重昭は心動かされたに違いない。 重昭が4歳の頃になると、家の近くのレコード屋の店先によくひとり出向いては、蓄音機から流れ出る流行歌に耳を傾けていた。 電気蓄音機の普及とともに、日本ビクター、日本コロンビアといったレコード会社が相次いで設立され、藤原義江や佐藤千夜子、藤山一郎といった歌手が唄うヒット曲が人々の心を捉える時代でもあった。おそらくは重昭のレコード屋通いが彼の音楽好きをいっそう高じさせたことだろう。 岩崎少年が尋常小学校の中学年になる頃には、家業も八百屋から種苗店へとかわっていた。その頃既に重昭は親戚のおじさんから借りたC調のハーモニカを時折吹いたりしていた。が、重昭をハーモニカへと向かわせるほどの決定的な出会いは昭和12年、重昭が9歳の時だった。 定橋(相模橋)と呼ばれる橋がひとつ架かるだけの相模川はまだ交通の要路で、津久井や山梨に住まう人が、生活物資や海産物などを運ぶための帆掛け舟の往来もあるのどかな光景が見られる時代だった。おだやかな日和のある日、厚木神社裏手の相模川の土手に座ってハーモニカを吹く青年に重昭は出会った。聞こえてくる曲は佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、藤山一郎のヒット曲「青い背広で」だ。前奏もしっかり入った演奏で、重昭にとってそれはまさに驚き以上に形容できない出来事だった。 それまでメジャーキーでしか吹いたことのない岩崎少年が、真似して吹こうにも真似しようのない演奏だったのだ。それもそのはず「青い背広で」は『ラ』の音が主音となるマイナーの曲だったのだ。当時の岩崎少年にしてみればマイナーハーモニカというのがあることさえ知らなかった。 いったい川風に吹かれてハーモニカを吹いていた青年は誰だったのか知る由もない。大いに想像力を膨らませれば、「若鮎ハーモニカバンド」のメンバーのひとりであったとしても不思議はない。 「あの青年のように吹きたい」ハーモニカへの思いもつのり、岩崎少年は母チカに、自分のハーモニカを買ってくれるようせがむのだった。 |
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