|
|
昭和33年頃の厚木市の表玄関でもある小田急「本厚木駅」の周辺は、重昭の種苗店やラジオ店、時計屋、家具屋や呉服屋、釣具店なが軒を並べる天王町通りや本町通り、中央通りが賑わっていたものの、現在繁華な一番街のあたりはせいぜい油を売る油屋や「ほてい屋」という旅館が目立つくらいでその西側一体は田んぼだった。線路を渡って南口から平塚方面を見渡せば、こちらもまたどこまでもさえぎるものもなく田園風景が広がっていた。 初夏の梅雨時には着ゴザを背に着け、編み笠をかぶった農夫たちが慣れた手つきで一本一本稲を植える姿があちこちで見られ、秋ともなれば近隣の農家の庭先では、脱穀機をまわして家族中で脱穀に精を出したり、ムシロの上に収穫した大豆を枝ごと日干しし、それをクルリ棒で叩いて豆を剥くといったまったくのどかな光景が見られた。 |
重昭が厚木の本格的な楽団ともいうべき「厚木リード交響楽団」をつくったのはその頃で、建材屋の社長を団長に、風呂桶屋や洋品屋、下駄屋や乾物屋など町内会の若者がメンバーだった。 楽器の編成はハーモニカが数名、アコーディオンも数名、トランペットが2名、トロンボーン、サクソフォーンもそれぞれ1、2名、それにビブラフォンやマリンバ、三味線やティンパニーなど総勢で37名だった。 後の「厚木ハーモニカトリオ」のメンバーでもある平井武は弦バスと三味線を担当した。平井は長唄のたしなみもあって三味線が弾けた。編曲と指揮は重昭が担当し、重昭の妹のかつてのパン工場を会場にして深夜まで熱心に練習した。 後には、相模川にほど近く、厚木神社の側にあった移転間近の市役所の中にある議場を借りて練習場とした。議場とはいうものの老朽化した板張りの床に木机が置いてあるだけの粗末な部屋だった。下駄履きのままで3、40人はゆうゆう入ることができた。演奏曲は「荒城の月」から「君が代」、「青い山脈」や「ボギー大佐」、「美しき青きドナウ」などあらゆるジャンルにわたった。 盆踊りでも歌われた「厚木音頭」や「夕焼け小焼け」の作詞者でもある中村雨紅の「荻野音頭」なども演奏した。「厚木音頭」は、この時の編曲を元にレコード化された。 また、厚木神社のお祭りや市の行事に引っ張り出されたり、時には箱根の精神障害者の療養所などにも出前演奏に行った。 昭和36年には4年前に建てられたばかりの厚木中央公民館(後の厚木北公民館)を会場に発表会を催した。商工会議所や教育委員会も応援してくれて客席は超満員、250人位の観客が聴きにきてくれた。 重昭の妹の亭主でもあり、「青春は雲の彼方に」や「大利根無情」などを作ったテイチクの専属作詞者であった猪又良の口利きで、テイチク専属の男女二人の歌手を招いて、「異国の丘」や「雨の桟橋」などの伴奏や演奏をまじえての賑やかなコンサートは、観客からやんやの喝采を浴びて幕を閉じた。 市役所が移転し、厚木キネマがなくなり、仲町クラブが消えてやがてまちの中心が、小田急通りや駅前の一番街へと移っていく。中央通りや天王町通りの商店街は歩道を広げたりアーケードをつくる大がかりな工事に取りかかった。重昭の家も取り壊し、練習場を失った楽団は解散となり、そのまま消滅の憂き目に遭うのだった。 |
|
. |
|