2004.02.01(NO44)  音楽学校での交流音楽会

ハバロフスク音楽専門学校にて
 昭和49年5月14日、重昭たちは朝6時に起床し、身支度を整えてイルクーツク空港を8時43分に発つと、ふたたびハバロフスクを目指した。3時間あまりの飛行だが、両翼に計4発のエンジンがあるプロペラ機は、お尻がむずがゆくなるくらいの振動で乗り心地も悪い。機内のあちこちの壁は剥げたり傷ついたりしていて、座席ももちろんお粗末で、窓は少なく、窓際に座っても外など見えない席が多い。かてて加えてスチュワーデスもみな年のいったおばさんたちばかりなのには、重昭も内心落胆し、シートベルトを腰にまわして観念したように眼を閉じた。
 ハバロフスクには正午に着いたが、時差の関係で時計の針を2時間進めなければならなかった。重昭はちょっぴり時間を損したような気分になった。
 さて、いよいよ今日は夕方から、今回の訪ソの旅の最大の目的でもあった音楽交流会がハバロフスク音楽専門学校で開かれるのだ。重昭たちはホテルに荷物を置くと音楽学校へと向かった。創設されて40年の歴史のあるこの学校は、学生数約500人、きびしい試験をパスして入学した優秀な学生たちばかりのようだった。ソ連の有名な音楽家の中には、この学校の出身者が多く活躍しているとも説明された。
 「ここでへたな演奏はできないな」
 重昭は気を引き締めるのだった。
 会場となる学内ホールは立派で、グランドピアノが乗るステージの床も壁も白木の板に丁寧にニスが塗られ、飴色に光っていた。客席は五百余りで、固定式の肘掛け椅子が整然と並び、照明設備もスポットライトなどが必要最小限には整っていた。
 ステージから見下ろすと、ほぼ満席の客席には男子学生よりは金髪や赤毛の女子学生の方が多く見受けられる。5時ちょうどに音楽会は始められた。まず重昭たち日本側の一行が紹介されて短いスピーチのあとすぐに演奏となった。
 白地に赤や金の刺繍がほどよく施された和服を着た新潟美人の杉山美子、大越啓子、阿部多津の若い3人が、琴の三重奏で「さくら」を演奏する。六段の変奏は宮城道雄による編曲だ。音程もテンポも流れもよく、一糸乱れぬ見事な演奏でどよめきに似た喝采が起きた。
 続いて尺八教授の小山進太郎と高橋寅雄が虚無僧姿に正装して「明暗」を奏する。風を切るような不思議な音の世界に聴衆たちはしんとして聴き入った。次は琴と尺八で北海民謡、続いてピアノ伴奏に合わせて仲村洋太郎の尺八でトセッリの「嘆きのセレナーデ」が演奏された。そして重昭はハーモニカで「荒城の月変奏曲」を演奏した。
 第一部の最後はハーモニカに琴も尺八も加わって、仲村洋太郎が作曲した「信濃川」が奏され、大きな拍手が割れんばかりに会場いっぱいに響きわたった。
 第二部は音楽学校の学生たちがバイヤンの三重奏やバラライカの独奏、バラライカとバイヤン、アコーディオンの三重奏などで「ユーモレスク」やロシア民謡を演奏した。そのどれもがさすがに音楽学校の学生だけあってすばらしいものだった。
 最後に重昭が独奏で「青葉の笛幻想曲」を演奏し始めると、日本人でさえ若い人は知らない曲なのに、会場から重昭の演奏に合わせて静かなハミングが聞こえてきた。
 「ソ連の若い学生たちはこの曲を知っているのだろうか」
 重昭は心の中で驚き、そしてすぐにそれは嬉しさとなって演奏にもいっそう心がこもった。
 拍手が鳴りやまぬなかで重昭は、「カチューシャ」をハーモニカで吹きはじめる。ピアニストでもあり声楽家でもある音大出の若い大崎冬美が白のブラウスにピンクのロングスカートのステージ衣装でステージの階段をあがり、ロシア語で歌いはじめると会場から次第に歌声が重なるように盛り上がって全員合唱となった。重昭は高揚した気持ちでいっそう大きな音でハーモニカを吹く。楽しくなごやかなフィナーレとなった。およそ4時間にわたる交流音楽会だった。
 重昭たちはホテルに戻り、皆で録音したばかりのテープを聴いた。先ほどまでの音楽会の興奮がよみがえってくるようだった。誰もが覚めやらない熱い思いで頭はますます冴えて、夜中の2時を過ぎても寝る者がいない。正直で素直で真面目なソ連の人たちのことや、音楽のこと、食べ物のこと、いろんなことに話がはずんで、賑やかな楽しいロシアの夜は更けていった。

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