2002.03.01(NO5)  川口章吾との出会い

県立平塚農業学校ハーモニカ合奏団

 若い学生の分際でハーモニカに熱を入れる重昭は、それだけで軟弱思想の持ち主というレッテルを貼られるに充分だった。
 ディック・ミネやミス・コロンビアといった芸名にまでクレームがつき、それぞれ三根耕一、松原操と改名させられたり、「ぜいたくは敵だ!」と女性のパーマやマニュキア、アイシャドウや口紅にまで厳しい目が注がれる息苦しい時代だった。

 昭和15年から16年、重昭が県立平塚農業学校の1,2年の頃のことである。重昭はある日、自宅二階の窓辺でハーモニカを吹いていた。ちょうどそのとき、厚木警察の刑事が通りかかった。刑事は階下で仕事をしている重昭の父・芳太郎に歩み寄り、重昭の思想信条についてまで尋問して立ち去ったという。
 当時は不良学生の取締まりや学校への忠告をする「教護連盟」という組織もあり、そのブラックリストに重昭の名が連ねられていたともいわれている。
 さて、重昭がのちに師事することになる「ハーモニカの父」川口章吾との衝撃的な出会いは昭和16年、重昭が農業学校2年の時に訪れた。重昭の学校で川口章吾を招いたハーモニカの演奏会が企画されたのだった。そのとき、川口は43、4歳で脂ののりきった年齢だった。500人ほど入る体育館の壇上に立って、校長から紹介された川口章吾はこう切りだした。
 「きょうはハーモニカで招かれてやって来ました。私はハーモニカが好きで吹いていますが、きっとこの中には私より上手にハーモニカを吹く人がいるやもしれません」このとき、重昭は、もしや自分がハーモニカを吹くことを校長があらかじめ耳打ちしておいたに違いないと確信した。ハーモニカの名手を自認する重昭は内心、鼻高々の気分だった。
 「それでは一生懸命吹きますので、どうぞお聴きください」そう言うと演奏会が始まった。その途端、重昭の心はあまりの衝撃にグラッとした。舞台から大きくて強い音が響いてくる。「何であんな風にふけるんだ」度肝を抜かれた重昭は、先ほどまでの傲りを恥じた。
 川口章吾は「牧場の朝」や「港」などの唱歌に加え、「海行かば」などの軍歌も演奏した。30分ほどの演奏を終えた川口は校長に付き添われてしずしずと体育館を出て行ったが、重昭は川口のうしろ姿を目で追いながら呆然自失の体だった。
 家に帰ってから重昭は「海行かば」の演奏を川口章吾のように真似てみた。口を大きく広げ、舌を大きく使って懸命に真似てみた。翌年学校にできたハーモニカ合奏団の演奏の合間に、重昭は独奏でしばしば「海行かば」を吹いた。これが学生たちの間で結構受けた。
 合奏団の指導に校長の弟・清水武夫がやってくる頃は、既に太平洋戦争が始まっていて、日本軍によるマニラやシンガポール、バンドンなどの占領が新聞やラジオのニュースを賑やかしていた。この頃には明治以来使い慣れたドレミ音階が廃止され、ハニホ音名唱法が教育現場で使われることになっていたが、音大出の清水の指導はほとんどドイツ語読みで行われた。練習曲は「麦と兵隊」「暁に祈る」「大東亜決戦の歌」「そうだその意気」などの勇ましい軍歌や校歌、応援歌などだった。

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