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横浜市野庭にある10階建てマンションの最上階の一画が岩間朱美の自宅だった。サンルームが朱美のいつものハーモニカの練習場所だ。4歳のときからハーモニカを始めて、小学校3年生のときに「国際複音ハーモニカ・テープコンテスト」ジュニア年少部門で2位に入賞してからというもの、ハーモニカへの取り組みはより真剣になった。 もともと賢い少女ではあったが、すべてにわたって積極的になり学校の成績も俄然よくなった。「全日本ハーモニカ音楽祭」や日本ハーモニカ芸術協会の定期演奏会などにも数多く出演したり、大人たちと接する機会が増えたのも大いに自覚を促したのだと思う。 夕方の5時くらいからを練習時間と決めて、音階の基礎練習から練習曲まで、毎日小一時間は必ずハーモニカを吹いた。 「母さん、これから本番ね」ひと通りの練習をしたあと、最後には母親を観客に見立てて練習曲を吹く。いつだって”本番“には母か、時には父が立ち会った。朱美の両親は学生時代からクラシックコンサートなどにもよく足を運び、音楽には精通していた。 |
母はじっと静かに朱美の演奏を聴きおわると、短い言葉で批評をする。決してけなしはしないが、一度として褒めることはなかった。そんな母親の対応が時には悲しくなって、朱美はハーモニカを吹きながら涙することもあった。 昭和58年、朱美が小学校5年生のとき岩間家は若葉台へ引っ越した。今度は14階建てマンションの1階が自宅で、朱美には個室もあてがわれた。この引っ越しを機に、月に2回厚木まで通い、いよいよ本格的に重昭の門下生として入門した。毎日の自宅練習は若葉台に移ってからも決して欠かすことはなかった。 「朱美ちゃん、この曲は君にぴったりだ」重昭はさっそく朱美のために「追憶」を編曲してくれた。朱美は“追憶”の意味さえわからず、どう自分にふさわしいのかも解りかねた。 ハーモニカを3本持って吹くのも初めてのことだった。そのときの朱美にとってはハーモニカを吹くことがただ楽しくて、夢中だった。重昭の一言ひとことをしっかりと頭に入れた。そして練習をやればやるだけ上達する。朱美にはそれが実感できた。 「朱美ちゃんは練習してなさそうでいてうまいね」 この言葉にだけは朱美も内心、「練習は毎日しています」といくぶんカチンときたが、いつもの重昭の優しいほめ言葉が、ここまでハーモニカを続けられた原動力だったかも知れないと朱美は思う。 「国際複音ハーモニカ・テープコンテスト」での日本勢の上位独占を受けて、中国の演奏家たちがぜひ生の演奏を中国で聴かせてほしいと、中国音楽家協会を通じて入賞者の招聘を求めてきた。それに応えて、昭和59年、全日本ハーモニカ連盟が企画して、4月29日から5月6日まで、連休を利用しての8日間、「日本ハーモニカ音楽訪中団」50人が北京と上海を訪れることになった。中国の来賓としての処遇を受ける公式の使節団だった。これに朱美は最年少の団員として参加した。佐藤秀廊や森本恵夫、 大石昌美、斎藤寿孝、間中勘らの他に厚木ハーモニカトリオも一緒だった。 両市での交流演奏会やパーティーで、朱美は「追憶」や「灯台守」「ドナドナ」を吹いた。どこでもやんやの喝采を浴びた。 「こんなに喜んでもらえる」と朱美は嬉しかった。 一方、中国の子どもたちがまるで機械のようにすばやい動きでハーモニカを吹くのをみて、凄いとも思った。この中国での演奏体験が朱美のハーモニカへの情熱をいっそう掻き立てることになるのだった。。 |
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