2002.05.15(NO7)  宇都宮農林専門学校へ

宇都宮農林専門学校で化学の実験を行う重昭(白衣)

 重昭が宇都宮農林専門学校に入学したのは、日本の戦況がさらに悪化の一途をたどる昭和20年のことだ B29が大編隊を組んで東京の空に襲いかかり、無差別爆撃を繰り返す。未曾有の大火となった3月10日の大空襲ではおよそ10万人の死者が出るほどだった。
4月1日には、米軍は沖縄本島への上陸を開始し、日本本土侵攻への足がかりを手中にしたのだった。4月7日には巨艦を誇る戦艦「大和」が、九州南西で米軍機の攻撃を受けて沈没。破局への道のりをひたすら歩みつつある日本の惨めな姿がそこにはあった。

 重昭が専攻したのは農芸化学で、18に及ぶカリキュラムを朝8時から夕方5時までぶっ通しで学び、6月までの3ヶ月足らずのあいだに3年分の単位を終了した。7月になると、醗酵化学を学んだ重昭は、当時不足していた飛行機の燃料となるアルコールづくりに精出すことになった。
 宇都宮から東へ10キロほど離れた鬼怒川の淵に、関東一の造り酒屋「外池酒造」(とのいけしゅぞう)があり、重昭はそこでさつまいもやじゃがいも、あずきや大豆などを醗酵させ95%のアルコールを蒸留する作業に従事した。
終戦を迎えたのも「外池酒造」でだった。8月15日、重昭は正午から放送された玉音放送に耳を傾けた。
「……然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
 よく聞きとれないラジオから、天皇とおぼしき声が聞こえる。
「おい、日本が負けたぞ」そう言って泣き出す者がいた。
「死ぬ」という者もいる。
重昭は事の顛末を了解すると悔しくて悔しくて、自然と涙が頬を伝った。
「何だ、神風なんか吹かないじゃないか」
失望はしかし、これでようやく長い戦争から解放されるという喜びをも内包していた。安穏とハーモニカなど吹くことさえ叶わない時代だった。早く平和がほしかった。
8月22日にはラジオの天気予報が復活、9月9日には歌謡曲、軽音楽が戦後初めて放送された。10月には戦後初の映画「そよ風」が封切られ、敗戦の暗い空気を吹き飛ばすかのように、主題歌「リンゴの唄」が並木路子によって歌われ、その後多くの人に愛唱され大ヒットした。
 秋には文化祭も行われることになり、仲間からはハーモニカを吹け吹けとしきりに尻を叩かれたが、当時3年の音楽部の部長に「ハーモニカはおもちゃだ。楽器じゃない」と言われ、重昭はしぶしぶハーモニカで出演するのを断念した。
 心から悔しかった。
「よし、音楽をもっと本格的に学ぼう」
 それから重昭は焼け跡の古本屋を探し歩いて音楽理論や和声楽、管弦楽法、指揮法などの本を買い漁った。
「楽器じゃないって……いまに見ていろ」
 あまりにも音楽ばかりにのめり込んで、次第に学校の成績は下がっていった。

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