象徴的貧困と沈黙のスパイラル     市民かわら版編集長 山本耀暉    

 貧しい判断力と想像力しか持てなくなった
 小泉内閣が誕生して以来、ずっと心の奥底に引っかかっているものがある。それはハーディング(群衆行動)と呼ばれる日本人の意識構造だ。情報やイメージ、映像があふれる現代社会の中で、人々の関心や話題が、ひとつの極に向かって進んでいくという奇妙な現象でもある。
 「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」というエモーショナルな言葉を重ねる小泉首相の発言に国民は酔い知れ、彼の行く先々で人々は歓声を上げ手を振り、一種のフィーバーに近い様相を見せた。それは政権発足時80%を越えた異常なまでの高い支持率に象徴的に現れている。「ワンフレーズ・ポリティックス」と言われ、明快で小気味よい演出が売り物の小泉劇場の中で、ひとびとの意識はどのように動いたのであろうか。
 作家の辺見庸さんは、「多くの人々が政治的アパシー(無気力)から一気に政治的観衆へと化していった」(「漂流する風景の中で」06・3・8朝日新聞)と指摘している。フランスの作家レジス・ドプレは12年ほど前に「今や政治はショーかスポーツの様相を呈し、市民の政治参加はサポーターの応援合戦のようになりつつあると」と述べているが、「じゅんちゃ〜ん」「コイズミさ〜ん」と叫びながら手を振り、街頭で小泉首相の演説を聴くひとびとの姿は、まさに有権者のサポーター化を見る思いであった。
 経済評論家の内橋克人さんは、この現象を市民社会の成熟度にスライドさせ「熱狂的等質化現象」と指摘している(「小泉構造改革」は私たちをどこへ導くか」『世界』01・7・第690号)。この「熱狂的等質化現象」とは何か。内橋さんは「いまだ個としての自立を十分に果たしているとはいえず、したがって市民社会も未成熟なままの日本では、何か事が起きると、人びとは同じ方向をめざしていっせいに走り出し、自分の信条や情感までも他の人と等質化させることに懸命になる」と解説している。
 朝日新聞の清水克雄編集委員は、こうした背景には「象徴的貧困」と呼ばれる大衆意識があると書いている(「思想の言葉で読む21世紀論」06・2・14朝日新聞夕刊)。この「象徴的貧困」とは、フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態」をさしている。
 東京大学の石田英敬教授(メディア論)が「メディアがつくりだす気分に人々が動かされがちな日本の現実にこそふさわしい」と訳語を考えたという。
 石田教授は、「情報社会の中で、増え続ける大量の情報に追いつくためには、情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねざるをえなくなっている」「その結果として、政治や社会などの重要な問題についても、誰もが同じような感想や意見しかもてなくなっている」(「思想の言葉で読む21世紀論」06・2・14朝日新聞夕刊)と述べている。その象徴的な例が、イラクで人質となった後に解放されたNGOボランティアやジャーナリストを、まるで罪人のごとく冷たく迎える日本国民の意識や「自己責任」を喧伝したメディアの姿であった。

 大衆迎合主義化してしまったメディア
 メディアの多様化が進んでいるのに、人々の意識はなぜ同じ方向に向かうのであろうか。それはどのメディアも同じ対象を数量化され画一化された商業主義的な枠組みでもって情報を扱っているからである。テレビのニュースがワイドショー化して以来、どのメディアも同じ人物を取り上げ、もてはやし、こびへつらい、時には手のひらを返したようにバッシングを浴びせる。そこには視聴率至上主義に毒されたテレビ局が、常におもしろ可笑しく刺激を求める視聴者に迎合したいわばポピュリズム(大衆迎合主義)が見えるのである。
 多くの国民の「政治的アパシーから政治的観衆化」への移行、あるいは「熱狂的等質化現象」と呼ばれるものは、日本の政治の成熟度を示すものでない。逆にこうした群衆の変わり身に「大政翼賛会的な国民意識」を感じた人たちもいるだろう。つまり人々の変身に情緒的なものを感じて「これは危ない」と感じた人たちである。内橋克人さんも「この種のハーディングが、時に国家や社会の選択を誤らしめた、という苦い歴史的悔恨を私たちの社会は何度も味わってきた」(『前掲書』)と述べている。
 しかし、マスコミはどうであろうか。マスメディアは何らかのブレーキ役を果たしたどころか、むしろ拍車をかける方向に動いたのである。自民党総裁選も、イラク人質事件も、郵政解散選挙も、刺客も、ITの寵児と持ち上げたほりえモンもすべてがそうであった。マスコミは事件報道をワイドショー化することによって、照明や舞台装置、音響設備などを小泉首相の思惑通りの劇場にしつらえ、歓呼の声や嘲笑のみを報道させて、観客にとって大切な分析的な思考を奪いとることに終止したのである。
 このため、有権者のサポーター化、政治の応援合戦という現象は、明らかに成熟した民主主義とは異なる様相を見せ始めた。作家の辺見庸氏は、こうした社会は「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」(『後漢』のたとえ。一人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実として広めてしまう)に通ずると述べ、「万犬の危うい変わり身と一犬と万犬をつなぐメディアの功罪がいかに大きいか、「小泉執政の五年ぐらいこの言葉を考えさせられたことはない」と指摘している(「漂流する風景の中で」06・3・8朝日新聞)。

 沈黙のスパイラル
 小泉構造改革について、もう一つ面白い見方をしている人がいる。東京大学教養学部の小森陽一教授だ。小森教授は「小泉劇場型総選挙は、テレビ時代の『大衆扇動的全体主義』の実験が、日本という国で成功したことをあらわしている」と指摘、「小泉純一郎が使ったのは、ナチス・ドイツが開発した『沈黙の螺旋(スパイラル)』という、マス・メディアの操作方法である」と述べている(『誰が憲法を壊したか』小森陽一&佐高信・五月書房・06年1月)。
 これは社会心理学者ノエル・ノイマンの『沈黙の螺旋理論――世論形成過程の社会心理学』(改訂版、池田謙一訳、ブレーン出版、97年)に提示されている仮説である。ノイマンは現代人は、マスメディアや周囲の人間の声を通じて意見の分布や世論の動きを敏感に意識しているが、何よりも自分の意見が孤立化することへの恐怖感をもっている。当然、少数派は孤立を恐れて発言を控えるようになる。その一方で、多数派意見は積極的に発言するという螺旋的ループが発生するため、全体的な意見の分布は実際よりも多数派に偏っているように見えてしまうと述べている。
 江戸川大学社会学部マスコミュニケーション学科の市川昌(あきら)教授は、「沈黙の螺旋」は、(1)マスメディアが取り上げて優勢と発表した意見が、次第に主流派とみなされる。(2)逸脱した意見を発表せず、優位な方につくひとびとの輪は、時間とともに拡大されていく。(3)メディアから逸脱した意見の個人的な支持者が次第に沈黙を守るようになる傾向がある―という3つの特徴を持っていると指摘する。
 小森教授は「沈黙の螺旋」は次の4段階で成立すると述べている。
 第1段階は、権力の中枢にいる為政者が突然、国家にとっての仮想敵を外側と内側で声高に特定する。それがあまりに唐突なので、この段階では、しかるべき反論や批判が出てこない。
 第2段階は、反論や批判が出なかったことを理由に、この仮想敵との戦いこそが、国民の総意であり、国民的課題であり、国益であると、為政者がさらに声高に宣言する。
 第3段階は、遅れて出てきた反論や批判をした者には、国民への裏切り、国家への敵対として、徹底して非国民としてのレッテルを貼り、弾圧し社会から排除する。
 そして第4段階、この過程を見せつけられた多くの人々は、勝ち馬に乗ろうと為政者を支持し、社会から排除されることを恐れて反論や批判を一切口にしなくなり、その沈黙はどんどん螺旋を巻くように深まっていき、誰もその為政者に対して反論や批判をするものがいなくなっていく。
 ナチスドイツの場合、「外」の敵はソ連共産主義で、「内」の敵ははユダヤ人であった。当時、ドイツは独ソ不可侵条約を結んでおり、国民の誰もがソ連は敵だとは思っていなかったが、共産主義の不安をあおることで、人々を沈黙の螺旋へと導いたのである。国内では、ユダヤ人金融機関が国民経済に大きく寄与していたのであるが、ナチスは東欧に飛び地になって分散したゲルマン人を糾合する民族主義を打ち出していたから、国家ではなく民族に対して帰属意識を持っているユダヤ人の種族的ナショナリズムと対立した。ナチスはこの「内」と「外」の敵を国民共通の課題とすることにより、国民の間に蔓延している漠然とした不安を解消させるというレトリックを使うことに成功したのである。
 小泉内閣の場合、仮想敵の外側にいるのは北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国で、内側にいる敵は抵抗勢力=郵政民営化反対論者であった。北朝鮮については、拉致と核問題など金正日独裁政権の持つおよそ自己制御不能な恐ろしさを内外に知らしめることによって国民の国防意識をあおり、憲法改正論議の途を開くことに成功した。
 一方、郵政民営化は国会論戦のとき、国民の関心はほとんどなかったにもかかわらず、小泉首相は解散総選挙の争点を「郵政民営化・イエスかノーか」という単純化した二者択一に落とし込むことによって、国民の政治意識を引きつけた。しかも郵政民営化に反対した議員に対しては「刺客」を送り込むというワイドショー化したテレビが最も好む手法を提示することによって小泉劇場を面白おかしく演出することに成功したのである。
 さらに小泉首相は「改革を止めるな」という総選挙のスローガンを掲げることで、4年前の「自民党をぶっ壊す」という総裁選の時の小泉人気を呼び覚ますことにも成功した。「改革」の反対語は「守旧」である。この「改革」という言葉には「進歩・前進」あるいは「歴史的な政治体制の転換」という意味が含まれていて、小泉首相はここでも改革=善、守旧=悪というステレオタイプで二者択一的な言葉を用いることによって、国民の勝ち馬に乗りたいという意識を増幅させ、抵抗勢力をバッシングすることで弱者と呼ばれるテレビ視聴者の優越感と自己愛をくすぐることに成功したのである。

 勝ち馬に乗りたい
 冷静に考えると、この国民の勝ち馬に乗りたいという意識は、ほとんど国民の勝手な思いこみであることがわかる。弱肉強食の市場経済では大多数が勝つわけではない。優勝劣敗の社会では2割の原則が働くといわれている。すなわち2割が優れており、6割がどっちつかず、残りの2割が困った存在になるという図式が形成されるのである。この状況は経済においてはいっそう顕著に現れ、こうした状況が進んだアメリカでは同一業種が1社あるいは数社に淘汰されていったということを考えるとより明らかになる。すなわち2割の勝ち組と8割の負け組という格差社会の到来で、グローバル化が進む日本でも近年、金融や大企業の合併、合従連衡の繰り返しによってそうした傾向がみられる。従って、国民の勝ち馬に乗りたいという意識は、負け組になりたくない、あるいは負け組を認めたくないという反動から生まれてくるのである。
 長引くデフレ不況により所得上昇に期待が持てない不安、年金制度の崩壊による老後への不安、企業リストラと成果主義の導入による若者が抱く将来への不安、そしてマスメディアやインターネットなど社会に氾濫する過剰な情報を消化しきれない不安が、貧しい判断力や想像力しか持てなくなった国民を、一気に小泉劇場の観衆へと押し出した。
 江戸川大学社会学部の市川昌(あきら)教授(マスコミュニケーション)は、「コミュニケーションと文化1」の中で、現代の語り部である「テレビ文化」には、7つの大きな特徴があると指摘している。1つは社会の最大多数によってすでに承認された文化的価値を際だたせること。2つ目は社会現象を芸術的技法によってニュースを「神話化」することである。
 3つ目はホリエモンに象徴されるように、テレビで取り上げた人物を英雄視する風潮を育てることだ。4つ目は予測のつかない問題を取り上げず、社会の動きを追認すること。5つ目は人格的なスキャンダルを好み、特に有名人のゴシップ捜しに熱中し、視聴者相互の嫉妬心をあおることである。
 そして、6つ目はささいな問題を大きく報道し、真に重要な問題の所在をぼかして曖昧にすることで、7つ目は、視聴者にみんなが同じだという共同体意識を高め、安心させることである。特にみんなが同じだという共同体意識は、自分は脱落していないと錯覚させることによって安心感を与え、いつか勝ち馬に乗れるかもしれないという淡い期待感のみを抱かせているのである。
 テレビは「沈黙の螺旋」を蔓延させるには格好の媒体である。その結果、情報垂れ流しのテレビの特性にすっぽり浸って慣れさせられた国民は、「テレビの言うことは正しい」と鵜呑みにする癖がついてしまったのである。
 こうした「大衆扇動的な全体主義的政治手法」の歯牙に侵され、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった国民意識は、小泉内閣になって急に出てきたものであろうか。いやそうではない。それまでの自民党の歴代総理の政策やパフォーマンスが無味乾燥で退屈であったという反動もあるが、格好良く清新さや変化の兆しを感じさせる小泉首相が登場したことによって顕著に表出したというだけの話であって、潜在的には相当以前から渦巻いていたといえるのである。

 商業主義的疑似文化に毒された社会
 この渦巻きは、ミクロ的には規制緩和による市場経済の失敗と情報化、携帯化、IT技術下における国民意識の変化=不安によるところが大きい。80年以降の日本のグローバル市場経済は、民間銀行による無節操な融資、不動産会社による無鉄砲な投資をさそい、バブル崩壊を招いた。その後、勝ち組み・負け組みの二極分化を招き、団塊ジュニア世代の下流化、400万人を超すフリーターと80万人ともいわれるニート、パラサイトシングル、高齢化による介護者の増大、年間3万人を超える自殺者を生み出した。特に小泉構造改革は弱肉強食の市場経済を一段と加速させ、希望なき格差社会を生みだしたのである。
 こうした現象は、マクロ的には戦後の資本主義経済のもとで日本人がたどってきた精神の意識構造と大きなかかわりを持っている。
 第2次大戦後、多くの資本主義国は貧困と不平等と不況という古典的な病を克服するため、ケインズ主義的改良を加え、豊かな社会を築き上げた。特に戦後の資本主義経済は物的生産を至上のものとする観念にとりつかれてきたため、富みの生産だけはやたらと増え、欲望に応じて生産が行われていた旧時代とは違って、大量生産であふれる商品を売るため、大規模な宣伝を通じて欲望の創造を行ってきたのである。ジョン・ケネス・ガルブレイスが「dependence effect」(依存効果)と指摘した資本主義の新たな病の出現である。
 こうした消費者の欲望が自律的でなく、企業の働きかけによって喚起される現象は、産業主義や商業主義と呼ばれ、消費者にはかりしれない影響を及ぼしてきた。欲求の刺激と操作は、消費を肥大化させて資源の浪費と環境破壊を促進させているにもかかわらず、企業の経営者や販売担当者は、必需性の低い財貨やサービスの販売量を増加させるために、流行語大賞を生み出す様々なコピーを創り出し、人々の欲望の刺激と操作に成功したのである。
 こうしてほんものの文化とは呼べない「商業主義的疑似文化」が蔓延する社会が構築されてしまった。
 専修大学の正村公宏名誉教授は、「便利でさえあれば、楽しくさえあれば、という宣伝・広告の猛烈なシャワーを浴びているうちに、多くの人間が、社会を維持するために必要な倫理・道義・節度の価値を見失い、刹那主義的になり、損得勘定だけで生きるようになったのである」と指摘している(『日本をどう変えるのか\ナショナルゴールの転換』NHKブックス・99年10月)。

 行き過ぎた中央集権化と文化的画一性
 かつて、徳川幕府は中央政府として権力を掌握してはいたが、各藩の統治は幕府に服属している藩主に委ねていた。日本は幕末にいたるまでに、地方の風土や文化の多様性を維持しながら、モノとヒトと情報の交流=生産力を発展させ、共通の言語を作りあげることに成功した。それがその後の日本の近代化の土台となったことはいうまでもない。
 正村名誉教授は「明治以降の日本は、そうした多様な背景のもとで育った人々を、東京に集めることによって大きなエネルギーを生み出した。しかし、行き過ぎた中央集権性と交通・通信手段およびマス・メディアの発達による文化的画一化の進行は、そうしたエネルギーの源泉を枯渇させる作用を促した」と指摘している。(『改革とは何か』ちくま新書・97年7月)
 つまり、明治以降の近現代の日本は、過度の中央集権性と商業主義のために、文化の地方的多様性を破壊し、民族のエネルギー基盤を風化させてしまった。その結果、個性が埋没して金太郎飴のようなヒトやモノをつくり出したばかりでなく、偽物や紛い物までが大手を振って市場を罷り通るようになってしまったのである。政治的中央集権化と中央から地方への文化の発信は、日本国中どこへ行っても茶色いレンガを重ねた同じような文化的なホールや施設をつくり、北海道から沖縄まで同じファッションに身を包み、流行を追う人たちであふれてしまった。
 メディアの商業主義化の中で最も疑似文化を生んだのはフリーペーパーと呼ばれるものである。その多くはショッピングやグルメ、レジャー、カルチャー情報などを記事風に仕立てて、読者に届けるいわゆる「パブリシティ」と呼ばれるものだ。これらは記事というスタイルをとってはいるが、中味は広告宣伝と同じで、申し訳程度に公共性と呼ばれるニュースをちりばめている。この種のフリーペーパーの中には、報道という世界に軸足を置き、もっともらしいネーミングをつけて発行しているものもあり、読者の正常な判断を著しく低下させる作用を促した。
 いわゆるニュースもどき、記事もどきがメディアの世界に氾濫したのである。ところが読者はこうした情報に慣れ親しんでくると、どれが記事で広告かの判断ができなくなってくるばかりか、紛い物を本物として受け入れていくことに何の疑問も持たなくなる。そして「悪貨が良貨を駆逐」(グレシャムの法則)し、紛い物が大手をふってのし歩くという世の中が形成されていくのである。

 問題発見能力と解決能力
 教育の分野でいえば、戦後、日本の社会は多くの人々が、一流企業と一流大学志向という偏った目標をもったために、受験戦争を生み、激しい競争社会の中でいつしか教育の荒廃が進んだ。受験戦争を背景にして、日本の学校教育は、子どもたちの個性や潜在能力を引き出すことに成功しなかったばかりか、むしろ逆にそれを殺すようなほとんど無意味な詰め込み教育に終始してきたのである。
 正村名誉教授は、こうした結果、「問題発見能力と問題解決能力のない、子どもたちが育ってしまった」と指摘している。しかも、こうした傾向は少子化によってますます拍車がかかった。少子化は子どもに対する過剰な保護や管理の傾向を強め、兄弟姉妹が切磋琢磨して育つという環境を滅ぼしてしまったのである。そして同時に核家族化が、親から子へ、子から孫へ伝えるという日本の伝統や文化の伝達システムを崩壊させてしまったのである。
 このように家庭教育と学校教育の機能不全は、子どもたちの問題発見能力と問題解決能力を著しく低下させ、社会的規範を緩めてしまったのである。社会のルールに適応できない子、我慢の出来ない子、すぐキレてしまう子がたくさん出来上がってしまった。
 こうした政治的な中央集権化、マスメディアの文化的画一性、詰め込み教育は、子どもたちばかりでなく大人自身の機能をも失わせ、何が本物で何が偽物かを識別できる能力を完全に奪ってしまったのである。そうした日本人の意識構造が、新たな「象徴的貧困」を生み出したのは、むしろ当然の帰結であったといえるのである。
 情報やイメージ、映像があふれる現代社会の中で、人々の関心や話題が、ひとつの極に向かって進んでいくという奇妙な現象、社会が一色になるという現象、個人の意見が少数意見であることを知ると誰でも沈黙を守るようになるという現象はやはりどこかおかしい気がする。反対意見や少数意見があって健全なのであり、どのような状況下にあっても声を出せるという社会が正常なのである。

 教育の力に待つべきしかない
 私たちはどうしたら、健全で正常な社会を取り戻せることが出来るだろうか。
 自民党の「新憲法草案」が発表されてから、改憲論議がかまびすしくなってきたが、憲法第9条の第1項に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とあり、これを受けた「教育基本法」前文には「日本国憲法を確定し、その理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである」として「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」と定めている。憲法は時間がかかっても愚直に教育から始めるしかないことを説いているのである。
 この憲法9条と教育基本法は「希求(ねがい求めること)」という言葉で結ばれていると言ったのは大江健三郎さんだが、この「希求」という言葉を用いることによって、憲法と教育基本法は、これ以上ないというほどにゆたかに結びつき、連帯感を深めたものとなっている。教育基本法は「国が定めた理想の国家の実現には、教育の力に待つべきしかない」とはっきりうたっているのである。それはただひたすら真理と平和を希求することにある。
 いうまでもなく教育の基本は、個々の子どもの潜在能力を発見し、伸ばすことであり、子どもの自己開発能力を育てることである。そして自分の頭で考え、自分の言葉でほかの人間と議論することができる子どもを育てることである。
 重要なのは彼らの内発的動機を養うことであるが、戦後、日本の学校教育はほとんど意味のない詰め込み教育を行うことによって、子どもたちの内発的動機を殺してきた。多くのこまごまとした知識の詰め込みが重視され、「なぜ」「どうして」という問いを発することの重要性を学ばされる教育をしてこなかったのである。実はこれは、子どもたちだけの問題ではなく今の大人たちを含めた、日本人全体に共通した課題でもある。
 経済評論家の内橋克人さんは「何事につけても複眼的で冷徹な洞察力をもって絶えざるチェックを怠ってはならない」(『前掲書』)と指摘しているが、商業主義的疑似文化にならされてきた私たちにとって、冷徹な洞察力を持つというのはそう簡単なことではない。
 情報空間が広がり通信回線を通してコンピュータで加工された情報の交換が増加すればするほど、自然や生身の人間と直接にふれあう機会が減ってくるし、コンピュータを利用した精密なゲーム機器が普及すればするほど、子どもたちが「バーチャル・リアリティ」(仮想現実)の世界に逃げ込む危険性が大きくなる。この架空体験は、社会の中で現実に生きていく体験を代替するものではなく、むしろ、人間としての総合的能力の形成を著しく疎外する恐れがある。子どもたちがプログラムの中にあらかじめ組み込まれている問題を発見して、手際よく解決していく驚くほどの能力とスピードは、複雑な現実の中から問題を発見し、ねばり強い取り組みを通じて解決していく能力とは本質的に異なるものである。

 知ることは感じることの半分も重要ではない
 1991年、日本に『センス・オブ・ワンダー』(佑学社・新潮社版は96年7月)という本が紹介された。著者は歴史を変えたといわれる20世紀のベストセラー『沈黙の春』を著したレイチェル・カーソン女史である。『沈黙の春』は自然破壊に警告を発した先駆書としてあまりにも有名だが、ここに紹介する『センス・オブ・ワンダー』は、子どもたちに自然をどのように感じ取らせたらよいか悩む人々へのおだやかで説得力のあるメッセージを送り続けている。彼女の最後となった作品である。
 カーソンは、その中で、子どもにとっても親にとっても「知ることは感じることの半分も重要ではない」と述べている。これは詰め込み教育一辺倒できた大人にとっては衝撃的な言葉である。もちろん、カーソンは知ることを否定しているわけではない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感を研ぎ澄ませて大地や生き物と対峙することによって、自然の息吹や生物の神秘、未知のものと出逢う恐ろしさや喜びを感じ取ることが、やがては知識や智恵を生み出す種子になるのだと説明しているのである。
 さまざまな情緒やゆたかな感受性は、その種子をはぐくむ肥沃な土壌である。幼い子ども時代はこの土壌を耕す時で、消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切り開いてやることのほうがはるかに重要なのだ。
 カーソンは「もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」(『センス・オブ・ワンダー』(新潮社・96年7月)と述べている。
 カーソンの言葉から、私たちは「知ることは感じることの半分も重要ではない」が、「感じることは知ることを何倍も増幅させる」ということを学ぶのである。内橋さんが言う「複眼的で冷徹な洞察力」というのは、情報化やゲーム機器の上に構築されたバーチャルな世界を体験させる技術から生まれて来るものではなく、センス・オブ・ワンダーが幾層にも重なり合った土壌の中から生まれてくるものであろう。
 私たちは大人は、子どもたちの精神形成の重要な時期に、こうした環境をどの程度用意できるであろうか。それは大人自身が神秘さや不思議さをどれほどピュア(純粋)に持てるかという意識にかかっている。
 しかし、それはそんなに難しいことではない。カーソンは「子どもといっしょに自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性に磨きをかけるということです。それはしばらくつかっていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、指先の使い方をもう一度学び直すことなのです」と説いている。

 旧型社会を変えるネットワーキング
 どのような時代にあっても問題を発見し、社会に向かって提起することが出来る人間は、きわめて少数である。改革派が最初から多数派であることはありえない。しかし、改革派がいつまでも少数派に止まるとしたら、民主主義が確立している国家の社会経済システムの改革は不可能である。
 従って、国民の多数が「強い個人」『賢い個人」になる必要はない。国民の多数がせめてもう少し、長い時間の軸の中で、自分と自分の子や孫との利害を考えることができるようになり、もう少し広い視野に立って自分と自分の子や孫の生活の安全を考えることができるようになることが重要なのである。そしてそうした人たちがリンクできる緩やかな「ネットワーキング」を発展させることが求められているのである。
 1985年、アメリカの社会学者J・リップナックとJ・スタンプ夫妻は、『ネットワーキング』(日本語版監修正村公宏・プレジデント社)という本を著した。その中で彼らは「会社や職業を異にする人達が、共通の目標や価値観によって結ばれ、情報や資源を分かち合う組織が、いま全米に広がりつつある」と述べている。
 アメリカのネットワーキングは、健康とライフサイクル、コミュニティと協同組合、エコロジーとエネルギー、政治と経済、教育とコミュニケーションなど幅広い分野で驚くほどの広がりを見せている。その特質は、(1)全体と部分の適切な統合、(2)ヒエラルキーを否定しつつ多様なレベルの活動を連携させている、(3)集権的官僚組織とは対照的な分権的な運営、(4)複眼的なものの見方、(5)多頭的なリーダーシップにあり、(6)ダイナミックに変動する多様な関係によって維持される、(7)境界が不明確である、(8)一人ひとりの人間が結節点であり、リンクである、(9)自立的な個人を基礎としつつ全体を発展させている、(10)新しい価値観が結合をつくりあげる要因だという。これが強いアメリカとは別なもう一つのアメリカを形作っているのである。
 このネットワーキングという考え方が日本に紹介されて以来、それによる住民参加、市民運動、ボランティア活動が大きく注目されてきている。このネットワーキングの最大の利点は、機関や組織にしばられるのではなく、「その都度自由に自主的にアクセス出来るチャンネルとしてそれがある」という点である。原発反対の市民運動から食品公害、ボランティア、水や環境問題、学校給食、そしてスポーツや趣味の仲間づくり、イベントなどいまや私たちの身近なところにまで、インターネットや手作りの情報誌を介してネットワーキングが浸透してきている。
 今日では、誰でも望むなら、インターネットを介して、ネットワーカーになれるのである。正村名誉教授は「多用なネットワーキングによってひとびとをさまざまな共同体に結びつけることができれば、私たちの社会構造を企業や組合、官公庁、業界団体、自治会という古い組織に代表される個別利害型、バラマキ型、あるいはまるがかえ型による共同体への帰属意識を、ひとびとが生活のさまざまな次元ごとにそれぞれの複数の多用な組織に同時にかかわることができる多次元型の共同体へとつくりかえることが出来るかも知れない」と述べている。私はこれを「マルチ・チョイス型ゲゼルシャフト」(筆者の造語)と呼んでいる。
 これまでまるがかえ型、個別利害型による共同体への帰属意識は、社会全体の問題に対する人々の関心を著しく弱める作用を促してきたと同時に、個別組織へのひとびとの過度の帰属と従属がたえず再生産されてきたのである。多くの国民が、仕事のための組織が自分の所属するたった一つの共同体であるという状態から、ほかのさまざまな共同体に自由に移り同時に所属する可能性を持つようになれば、国民の生活洋式も精神構造も大きく変化していくに違いない。
 地方分権と自治の確立というのは、制度的改革もさることながら、正村名誉教授の言葉を借りるなら、つまるところは日本人の問題発見能力と問題解決能力を高めることなのである。私たちが「象徴的貧困」からいかに脱出できるかは、究極のところは日本人の自己統治能力と自己改革能力を高めること以外に方法がないように思われる。(2006・4・30)

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