自分史原稿のお願い
二見 恭次
粛啓 新緑の色増す季節となりました。皆様方にはお元気でお過ごしのことと存じ上げます。日頃はあたたかいご交誼にあずかり心よりお礼申し上げます。
さて、月日のたつのは早いもので、現役(社長)を退いてから早10年が経過いたしました。この間、会長職として微力ながらのお手伝いをいたしておりますが、寄る年波には勝てず、腰痛の手術で入院するという療養生活を体験いたしました。お陰さまで痛みからはどうにか解放されはしたものの、足腰がめっきり衰えてまいりまして、最近は杖を片手に家族の介護を受けるという毎日です。
しかしながら、口舌の方は衰えを知らず、相変わらず昔の如く「言いたい放題」を繰り返しており、これも、天与の才と勝手な妄想をいたしております。
昔は「人生50年」と申しましたが、昨今は「人生80年」といわれる時代です。幸いにも戦中戦後の激しい混乱苦闘の歳月を、神仏の加護と祖先の遺徳の余慶を得て、今日まで無事に切り抜けることが出来ました。今年の12月8日には、喜寿(77歳)の齢に達しますが、これまで生き続けてこられたことに感謝しつつ、その足跡を「自分史」に残してみたいと考えております。しかし、己のしたためる自分史では自画自賛ともなり、私にはとうてい似合いません。
つきましては、皆様方に「人間・二見恭次(本名・与作)」を率直に語っていただき、それをもって私の「自分史」といたす所存です。甚だ勝手なお願いではありますが、拙者の意をお汲みとりいただきどうか忌憚のない二見評をお寄せくださいますようお願い申し上げます。
誠に恐れ入りますが、出来うれば喜寿に間に合わせたく存じますので、原稿〆切日に間に合いますようご高配をたまわりますれば幸いです。 謹白
平成8年5月30日
あとがき
山本 忠則(市民かわら版編集長)
5月のゴールデンウィーク明けであったと思います。二見さんから「自分史」をつくりたい旨のご相談を受けました。
「12月8日(開戦記念日)に喜寿を迎えるので、それまでにまとめたい。ただし、自分で書くのは自画自賛になる。それでは誰も読んでくれないし、第1そんなやり方は自分には似合わないので、友人や知人に書いてもらおうと思っている」
つまり、二見恭次(本名与作)なる人物評を他人に書いてもらい、それをもって「自分史」にしたいというのです。
私はこれまで、多くの方の自分史づくりのお手伝いをさせていただきましたが、自分のことを他人に語ってもらうという形で自分史をまとめるのは初めてのケースでした。
二見さんは「頑固一徹」ですが、「頑迷固陋(がんめいころう)」ではありません。昔気質で筋道の通らないことは片意地なまでに頑固です。だが、考え方には柔軟さがあり、物事の道理が分からない人ではなく、むしろ、物事の道理を諭すために頑固一徹だと言った方が正確だと思います。加えて、二見さんはとてもシャイなところがあり、知的ユーモアに満ちあふれた人でもありました。そうした気概を持った二見さんは、自分や家族のためよりも、「人のため、世のため」に生涯を投げうった稀有な人でもあります。男の本分は社会に有形無形のものを残すことだとしたなら、二見さんはまさにそれを見事に実践された方でもありましょう。
その二見さんを、いろいろな方が批評するというのですから、これはほんとうに二見さんらしいユニークな自分史が出来上がると歓迎したものです。
私が「原稿はお願いしてありますか」とお尋ねすると、「まだだ。これから頼むので依頼文をまとめてもらえないか」ということでしたので、早速、作成してお届けをいたしました。
しばらくして、二見さんから「会長職を退いて相談役におさまった。これから自分史づくりに専念できる」というお電話をいただきました。原稿も大分集まってきたというので、私は編集の段取りや装丁などに思いを巡らせながら、原稿が届く日を楽しみしておりました。
九月も後半に近づき、そろそろ編集の作業に入らなければと思っていた矢先です。二見さんが突然逝去されたのです。私は訃報を受け、驚くと同時に愕然といたしました。これまで準備を重ね、発刊を心待ちにしていたことを思うと、思い半ばで亡くなられたことはさぞかし心残りであり、無念でもあり、返す返すも残念の一語に尽きるものでした。
その後、二見さんの奥様をはじめご家族の方から、「故人の意思を出来るだけ早く形にしてあげたい」というお言葉をちょうだいしたので、早速、集まった原稿を拝読いたしました。
原稿は学生時代の同窓、戦友、職場の同僚や部下、商工会議所、経済人クラブでともに活躍した経営者、そして知人、友人からで約60通にものぼっていました。そのいずれもが二見さんの喜寿を喜び、今後ますますの活躍に期待を寄せるもので、行間の端々に「人間二見恭次像」があますところなく写し出されており、私は読みながら深い感動と羨望の念を禁じえませんでした。まさに、「他人史をもって自分史となす」という二見さんの目論見どおり、見事なアイディアの結実であったと思います。
原稿の大部分は、二見さんの生前にお寄せいただいたものです。従って、そのほとんどは故人に対する追悼文ではありません。その後、亡くなられた後にお寄せいただいたものもあり、ご家族の皆様とご相談の結果、これを『追悼集』とはせず、当初の計画どおり喜寿を記念した『自分史』としてまとめることにいたしました。そうすることが、二見さんの意思に叶い、また原稿を寄せられた皆様のお気持ちにも酬いることが出きると考えたからです。
題名の『らしくあれ』は、二見さんの人生訓をそのままお付けしたものです。この「らしくあれ」は「人間、常に本分を忘れるな」という二見さんの日ごろの教えでもあり、自分史の題名としてこれに優るものはありません。題字は生前に二見さんが書家の故渋谷竹径様よりいただいたもので、本人がたいそう気にいっていたことから、渋谷家のご了解をいただきまして、表紙を飾ることが出来ました。
二見さんは菩提寺である法雲寺のご住職様より、「透雲院恭誉理岳明照居士」という大変ご立派な戒名を拝受されました。ところが、生前にご自分で戒名をつけられ、私に「頑骨院直線大居士」であると笑いながら語っていたことがあります。その時は、冗談半分に聞き流していましたが、いま考えてみるとこれも二見さんらしいユーモアで、これほどご自身の性格を直截に表現した言葉もありません。故人の気持ちの一端をご紹介するという意味で、本書の扉に挿入することにいたしました。
本書を12月8日の誕生日の発刊としなかったのは、ご家族の皆様とご相談の結果、故人の百ケ日に合わせて刊行した方が時宜を得たものであり、せめてものご供養になると考えたからにほかなりません。原稿をお寄せくださった皆様には心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。なお、故人の意思をお汲みして執筆者の肩書は省略、掲載順は不同にさせていただきましたので、ご容赦をたまわりたいと存じます。
平成8年12月
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