連載「今昔あつぎの花街」
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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)
「日露戦役凱旋記念数語録」は、明治40年(1907)1月1日、「厚木町聯合広告」として東海新報社から発行されたものである。 振り出しは煙草元売捌所の厚木煙草合資会社。上りは株式会社八王子第七十八銀行厚木支店と株式会社厚木銀行となっており、合計55店が記載されている。この55店の内訳を見ると、 旅館・料理屋・ 13 酒類醸造・販売・5 であり、その他は煙草合名会社、洋物洋服商、時計商、印判商、請負業、雑貨商、牛乳店、金物商、荒物商、醤油醸造業、薬種商、書籍文具商、呉服商、写真館、菓子商、靴店、石材商、葬具屋、染物店、瀬戸物店、乾物屋、公債株券買入所、銀行等となっており、旅館、料理屋の数がずばぬけて多く、約23.6%の高率を占めている。 もちろん、これが当時の厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)における営業種別比率と一致するとは言えないまでも、大正元年(1912)の全戸数722戸という町でありながら(『厚木郷土史』)、数多くの料理屋の営業が成り立つだけの客足があったことを示している。 「日露戦役凱旋記念数語録」に広告を出した旅館・料理屋をあげておこう。
上のうち、八店が「御料理仕出し・御料理出前」をうたっているのは、お茶屋や芸妓屋などで客用の料理を取り寄せる注文もあったからであろう。 旭屋、新三浦屋、高橋屋は、厚木渡船場(相模川・中津川・小鮎川の合流地点付近)近くの土手際にあった旅館、料理屋である。 海老屋は上町(かみちょう・現東町)の矢倉沢往還西側にあり、安政5年(1857)に烏山藩が命じた御用金では「海老や庄五郎」が金50両を上納している(『厚木市史』近世資料編(2)村落1)。 大沢屋、寿留賀屋、高嶋亭は仲町(現厚木町)にあり、寿留賀屋は現在吉河屋の屋号で営業している。寿留賀屋(するがや)が吉河屋(よしかわや)と屋号を改めたのは、「する」という言葉は縁起よくないので、「する」を「よし」に変えて、吉河屋としたといわれ、「明治一代女」の主人公花井お梅が来たこともあったと伝えている。 「明治一代女」は、鹿児島芸妓連からスカウトされた喜代三が唄ってヒットした映画主題歌で、作曲者は大村能章であった。「浮いた浮いたと、浜町河岸に、浮かれ柳のはずかしさ…」とはじまる「明治一代女」がヒットするのは昭和十年。大村能章が「厚木音頭」を作曲したのはこの前年の昭和9年(1934)のことであった。 大沢屋、高嶋亭は、明治44年(1911)1月の厚木芸芸屋合名事務所の恭賀新年広告を見ると、正取締役が大沢彦造(大沢屋)、副取締は平本綱五郎(高嶋亭)となっている。 勢勝亭、新倉屋、萬八十は明治末期頃から鮎漁遊船会にも参入する。萬八十(まんやそ)の屋号は、天王町(現厚木町)の旅館萬年屋の料理人が独立して営業をはじめたことから、主家萬年屋の「萬」と自分の名前の一部「八十」を合わせて名付けたものであるという。 立花屋、若松(若松屋)は天王町(現厚木町)の厚木神社北側で営業していた。 若松屋は上町から天王町に移転した旅館、料理屋で、明治44年(1911)1月の広告によれば松次、小龍、かるたという3人の芸妓をかかえていた(「横浜貿易新報」)。 いとや旅館の位置は明確にし得ないが、下宿(現幸町・旭町3丁目の一部)で、「旅人宿兼料理屋」であり、酒ぐせは悪いが客には人気のあったナオという女性がいた店であろう(前同紙)。 |
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