NO116
(2001.09.15) 大正4年の鮎漁紀行『湘南銷夏録』 |
『湘南銷夏録』は、大正4年(1915)11月に発行された紀行文集であり、大正5年6月にも再販された。
著者は印刷会社を主宰する河合辰太郎。旅行を好む著者であったが、大正四年の夏は、珍しくも遠行を試みず、近く相州茅ヶ崎海岸の一茅屋に、7月24日より8月29日に至る月餘、家族挙げて此處に暑を避けしむる事としたのである。
そしてこの間、念願の相模川「鮎狩に出懸けばやと」、印刷会社分工場長平井登氏に斡旋方を依頼し、厚木の方へ交渉し、日を定めて行くことに決した。
『湘南銷夏録』の表紙 |
『湘南銷夏録』の「厚木の夜行」によれば、期日の前夕、河合辰太郎は茅ヶ崎より単独先ず汽車にて平塚に向い、平塚駅前で東京を出発した社友伊藤貴志、細見為次郎、保坂京三郎、佐藤安蔵の四氏、および斡旋を依頼した平井登氏と落合い、乗合馬車一台を買切って厚木へと駆けさせた。
「日は已に蒼れ、山川模糊として弁ずべからざるも、途上涼風颯々に吹来り、頓に日中の苦熱を忘れ、談笑の裡何時の間にか、行程四里の処を、一時間半で厚木町に達し、内田正吉君の邸に入った。」
内田正吉家は厚木神社前、矢倉沢往還(青山街道)の西側に店舗を構える旧家。案内者となった平井登は内田正吉の老父正治翁の弟であった。
当日は内田家に一泊。一行は、正治翁が若年であった頃、渡辺崋山が厚木を訪れたときの話や、東海道開通以前は秦野(現秦野市)の煙草葉も馬で厚木まで運ばれ、厚木から舟積にし、相模川を下って東京へ輸送されたことなど、種々今昔の面白い話に時を移したという。 |
以下、「相模川の鮎漁」(『湘南銷夏録』)から翌日の鮎漁の情景を引用しておこう。
「翌早朝内田正吉君の許を辞し、其令弟内田幸次郎君(薬舗)を訪ひ、茶菓の饗を享け、旅館若松屋に到り、一同揃ひの浴衣に更め、後庭より相模川原に出で、已に準備せられた艤舟に乗った。(中略)
吾等一行は、先ず上流に遡り、架橋の下を過ぎ、三川の合する処まで行った。此の辺河幅頗る広濶、急湍の奔騰目覚しく、四顧の風景実に佳絶である。転じて流れを下ること五六丁にして、舟を岸に寄せ、河原を歩むこと数十歩、小川の畦に出た。即ち昨日来上下流を堰き群魚を遂ひ込め置いた処である、此時恰も余が豚兒勝夫・勇・克巳の三人も茅ヶ崎から馳せ参じた。一同は大喜で、或はすくひ網、或は投網を手にし、驚く魚を逐うひ廻はし、かづき上げすくひあげ、隙なく魚を捕る時は、罪も報も後の世も忘れはてゝ面白やの謡曲の文句さながらの佳境に入った。(中略)
鮎狩に二時間余を費し、舟に帰へれば、朝来大川に於ける漁師の別働隊も帰り来り、それが獲物は何れも大物で而かも多漁で流石本職だけあった。其獲物を賄方で塩焼に、雲丹焼に、天麩羅に、田楽に、洗ひに、酢の物にと種々様々に調理して提出せられた。新鮮なる魚を、山光水色の幽雅なる境で食するのだから、唯一人美味を感じ舌鼓を鳴らさぬ者とてはなかった。
やがて網を引き、舟を上流に戻し、橋下で上陸、再び若松屋に到れば、更に晩餐の饗応があり、歓待実に至れり尽せりと謂ふべしである。(中略)
帰路は相模川を下るべく、再び乗船した。此の舟行は西岸山谿の趣を缺き、今春試みた、保津川の絶景にはとうてい及ばざるも、川流大にして眼界広く、急湍奔流、亦壮快を覚えた。僅々一時半を費し、鉄橋の許で上陸し、長橋を渡り歩すること七八町許、薄暮平塚町に著いた。当夜恰も祭礼とて、市中甚だ賑ふてゐた。」
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