今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO18 (2001.10.15)       ドンドン節の流行

「大正新歌ドンドン節」(大正2年発行)飯田孝蔵
 ドンドン節は、明治末期頃、三河屋円車の浪曲から生まれたもので、円車が一席うなったあとの一節にドンドンと太鼓を2つ打ったことにその名が由来する。この円車調をもとにしてできたのが「ドンドン節」で、演歌の後藤紫雲がそれに少し手を加え、添田唖蝉坊との共作で、「新どんどん節」を世に出して全国的に広まった(『日本流行歌史』)。
  駕籠で行くのはお軽じゃないか
    わたしゃ売られて行くわいな
  父さん御無事で又かかさんも
    お前も御無事で折々は
  たより聞いたり 聞かせたり
    ドンドン
という「新どんどん節」は、昭和30年代まで厚木の花柳界でも三味線の伴奏で唄われていた。ドンドン節は大正時代に入ると大流行し、さまざまな替歌がつくられ、三味線の伴奏にのせて、お座敷の宴会唄としても唄われるようになった。
  蒸気波の上 汽車鉄の上 かみなりさんは雲の上 
   (以下略)
などは、花柳界ではおなじみのドンドン節の替歌であり、文句に合った振りをつけてにぎやかに唄われた。

 大正14年(1925)刊『愛甲郡制誌』は、「名勝相模川の鮎漁」について次のように記している。
 「東海道平塚駅から平坦な道路を三里半余厚木町に入る。県道から東に護岸堤に出で東北が鮎漁で有名な厚木河岸である。相模の本流支流の中津・小鮎の三川が此処に合して河幅も相当に広い、横一文字に架けられた相模橋(現あゆみ橋)、小松原を背景に白く浮んだ帆かけ舟、さては鮎漁の屋形舟が陽炎に揺れて蜃気楼の様に淡く浮んでゐる、水は飽くまでも清く底の小石も数へられるやう、淡黒い石の間を白い腹を反して泳ぐ香魚の影も小波ごしに見える。(中略)、今では船の設備宿舎の設備なども相当に出来て居るので、一日の行楽に百年の精気を養ふのも面白い事であらう。」
 そして、「情緒豊かに調子よく謳はるゝ俗謡の一つ二つも、籠に溢るゝ香魚に添へての家苞(家へ持ち帰るみやげ)ともならうか。」として、 
   鮎は厚木のあの相模川  清き流れに舟泛べ
   竿で釣ったり又網を打ち  漁る鮮魚の其の中で
   ギョデン、塩焼、酢の物、フライ  之を肴に飲む酒は
   浮世の苦労も流すなり
という俗謡を紹介している。

 『愛甲郡制誌』は、この俗謡の題名については特に触れていないが、昭和10年(1935)稿『あつぎ町史第九輯』には、中間の「漁る鮮魚の其の中で」の部分を「すなどる鮮魚を其の船で」とする以外は同文句の、「ドンドン節」が収録されているのである。
 また、昭和初期の若松屋パンフレット『相模川情緒』を見ると、やはり、「ドンドン節の一節」としてこの俗謡が紹介されているので、当時の厚木花柳界では幅広く唄われていたことが知れる。
 『愛甲郡制誌』の編さんが大正12年(1923)6月に始まったことを考えれば、このドンドン節の文句が厚木で唄われ始めたのはこれより以前、大正初期か、あるいは中期のことと思われる。そして『愛甲郡制誌』編さんの頃には編者も耳にし、あるいは自らも唄ったかも知れないほど流行していたのであろう。
 『愛甲郡制誌』に収録された俗謡が誰によって作られたかは不明であるが、その文句からしても花柳界で唄われ始めたものと見て間違いあるまい。
 大正時代から厚木の芸者としてお座敷に出ていた力弥さん(故人)も、このドンドン節は調子がいいので唄うことが多かったという。
 テレビもラジオも無かった大正時代、それも「新どんどん節」が 出て間もない頃、御当地ソングとしてドンドン節の替歌さえ作ってはやらせた、厚木花柳界の流行情報に対する敏感さには驚かされる。

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