今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO21 (2001.12.0115) 線香代

昔の形式を伝える線香台(厚木郷土資料館寄託)

 

線香台に置かれた芸妓の名札

 現在ではほとんど聞くことができないが、かつては芸妓の花代を俗に「線香代」とか単に「線香」と言っていた時代があった。『広辞苑』によれば、「線香代」は、「芸娼妓などの揚代。上方では花代。もと線香一本のともる間を単位に時間を計算したことからいう」とある。
 明治20年(1878)7月、東京神田淡路町の医師上田玄白らの一行が、暑中休暇を箱根に過ごした時の『箱根温泉日記』には、箱根・小田原の花柳界の様子が次のように述べられている。
 8月1日の「箱根霊廟ノ祭リ」では、「元箱根ヨリ山車ト舞屋台ヲ飾リ出シ」、屋台では「小田原芸妓」の歌舞がはなやかに演じられた。小田原芸妓が箱根神社祭礼の屋台で踊っていることからすると、この頃の箱根には芸者衆がいなかったのであろうか。
 八月四日、小田原の料理屋山岡楼に投楼した時には、夜に入って「此家抱ヒノ歌妓」桃太郎と喜多八を呼んだ。喜多八は「愛嬌多キ美妓ニシテ、小田原一等ト聞ユ」とあり、芸妓の花代については、「此地ハ東京トハ違ヒ、線香ニテ売ル。一本十銭ニシテ、二時間三本ノ平均ナリト云フ、此外纏頭(てんとう。当座の祝儀)トシテ最下三十銭ヲ度トシテ与ヘル習慣ナリト」と記されている。
 また、明治29年(1896)に発行された『平塚繁昌記』の「花柳案内」には次のようにある。
 「当駅(平塚のこと)ノ貸座敷ハ総計十二軒ニシテ中四ハ揚屋ナリ。芸妓ハ大抵東京種ニシテ、線香ハ一本七銭ノ割ニテ一時間三本ト極レリ。修儀(祝儀)ハ並三十銭ヨリ中等五十銭、円助(円単位)ヲ出スハ上客ナリ」。
 では厚木花柳界の場合は、どうだったのであろうか。
 明治43年(1910)1月の厚木町料理営業者組合新年祝賀会では、「十数名の芸妓全部無線香にて」、絃歌の声湧くが如くの宴会となったと報じられている(「横浜貿易新報」)。明治時代の線香代は不詳であるが、昭和年代の初期には2時間2円20銭(1時間1円95銭とも記されている)であった(「花柳界とカフェー」『厚木町史』第十五輯)。
 参考として大正15年(1926)8月の「横浜貿易新報」によって、神奈川県内各地の線香代(2時間)を上げておこう。
  磯子3円60銭 屏風浦3円30銭 日下3円35銭 程ケ谷3円30銭    
  戸塚2円60銭 伊勢原3円 秦野3円40銭
 厚木の見番が呉服店飯田屋裏手(現東町スポーツセンターの位置)にあった、大正12年(1923)以前の花柳界を知る力弥さん(故人)は、線香を立ててお座敷に出た当時の様子を次のように語ってくれた(昭和52年聞き取り録音テープ)。
 電話が無い時代だったから、料理屋からお座敷がかかると、女中さんが歩いて見番へ芸者の名前と時刻を告げに来る。見番には「箱屋さん」が居て、これを置屋に知らせる。箱屋とはお座敷に出る芸妓に従って、三味線を入れた箱を持って行く男衆のことであり、帯をしめるなどお座敷へ出る芸者の支度もしてくれた。
 箱屋さんはお座敷がかかった料理屋や旅館へ芸者を送り込むと、見番に帰って「お帳場さん」にこのことを告げる。すると、お帳場さんはすぐにお線香を立てて火をつけた。
 見番にはお線香を立てる台があって、これにお線香を立てた。この台には小さな穴が幾列も並んでいて、横に並んだ各列の小穴の下に芸妓の名札を置くようになっていた。つまり、芸妓の名札がある上部の小穴には、何本の線香が立ち、これが灰になったかが分かる仕組となっていたのである。お線香は1回目には2本を立てるのが決まりで、2本目が灰になると見番ではお座敷へ知らせる。ここでお客がもう1本と言えば、見番では3本目のお線香を立てる。従って、いそがしい時には、見番はお線香の煙でもうもうとしていたという。
 また、力弥さんは、今日は嫌なお客だなと思う時には、箱屋さんになにがしかのお金を包んで、お線香の下部を少し折ってから立ててもらうことも覚えたという。
 線香を立てた昔の線香台の形を伝える長細い台は、現在、厚木史郷土資料館に保管されている。

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