今昔あつぎの花街   飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO28(2002.03.15) 昭和初期の電話帳から

電話を引いていた料理屋「萬千」(大正12年9月撮影)萬千の屋号は創業者夫妻の主家が千年屋と萬年屋であったことに由来する。

  昭和5年(1930)の電話帳には、229名の「厚木局電話加入者及番号」が掲載されている。
 明治43年(1910)5月の「厚木発展の燭光」(「横浜貿易新報」)によれば、厚木町(市制施行以前の愛甲郡厚木町)では、公衆電話・特設電話の設置に加え、模範屠場や県立蚕病予防事務所開設を請願しているという。
 この結果、明治43年12月26日から厚木郵便局が電話の交換を開始、「一般加入者ノ便」が開かれたことによって、明治45年(1912)には、神奈川県第3中学校(現厚木高等学校)は電話架設事業予算を要求している(厚木高等学校蔵「統計其他取調書類」)。
 大正2年(1913)2月の相模橋開通祝広告を見ると、鮎漁案内旅館の若松屋(電話19蕃)・高島亭(電話16蕃)・古久屋(電話3番)が特設電話をひいており、さらに大正6年(1917)発行の『霊岳大山』に紹介された「厚木の鮎漁」では、鮎問屋の浜屋(電話22番)・千年屋(電話7番)でも電話があったことがわかる。
 とはいえ、大正2年の電話加入者は、わずか21であり(『厚木郷土史』二巻)、200から257番までの電話は昭和3年(1928)に増設されたものであった(飯田孝蔵『昭和三年度厚木局特設電話架設精算書」)。
 当時の電話は郵便局の交換手が手作業で通話をつなぐ方法で、昭和24年(1949)、蚕業取締所の跡地に新築された電報電話局(現NTT)に引き継がれる以前は、天王町(現東町)の厚木郵便局二階に電話交換台と電話事務室があった(『厚木郵便局戦後史話』)。
 昭和5年当時の厚木郵便局内電話加入者229名の地域別内訳は、旧愛甲郡厚木町210、旧厚木町を除いた愛甲郡内4、現在の海老名市域15であり、旧厚木町の普及率がすばぬけて大きなものであったことを示している。
 旧厚木町の電話加入者を、さらに職業別に分類すると、料理旅館業25、芸妓屋9、繭絲関係15、貨物・自動車業13となり、これらの合計62は旧厚木町全体の電話加入者数の約30%を占め、「厚木音頭」に「繭の山から厚木が明けりゃ銀のうろこの鮎おどる」と唄われ、『日本地理風俗体系』に「厚木に遊ぶ人は各地から織るがごとく出入する乗合自動車、貨物自動車数の多いのに驚くであろう」と記された昭和初期の情景が伝わってくる。
 また、海老名市域では河原口が12と多く、かつ運送業と桔梗屋ほかの旅館料理業の合計が6となっているのは、厚木駅が物資輸送の拠点となっていたからだろう。昭和9年(1920)の『よみもの相武』には、河原口の三好屋・近江屋・厚木園・喜楽・田中屋の飲食店が広告を出しているが、これに「東厚木河原口」の記載があることは興味深い。
 昭和5年の電話帳に掲載された厚木の芸妓屋、料理屋、旅館を各町内ごとにあげると次のようになる。
 元町(現元町) 三浦屋(芸妓屋)、朝日屋(料理業)
 本町(現東町) 吾妻屋(芸妓屋)、大阪屋・魚専・丸花・会田丑之助(以上料理業)、篠崎傳蔵(大島屋。但し繭糸商として掲載されている)
 天王町(現東町) 若松屋(旅館料理業)、大和屋(料理業)、海洋軒(西洋料理業)
 仲町(現厚木町) 大沢屋・吉河家(以上料理業)
 弁天町(現寿町1丁目) 寿和乃や(料理兼芸妓屋)
 大手町(現寿町1丁目・中町1丁目) 末吉・春本・喜久乃屋・〆の家・鈴廼屋(以上芸妓屋)、芸妓屋見番、有田屋・石多屋(高梨歩積)・石田屋(石井邦三)・萬八十・萬千・関屋・叶屋・静本(以上料理業)、新倉・溝呂木キク(以上旅館料理業)、楽養軒・養心軒(以上西洋料理業)
 中溝(現中町2丁目) 駅前丸花・吾妻屋支店(以上料理業)
 昭和時代の初期は、絲繭商・運送業者とともに、料理屋と花柳界が厚木の商業活動を支える大きな柱となっていたのである。

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