今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO32(2002.05.15)          よみもの相武

「よみもの相武」創刊号(飯田孝蔵)
 昭和9年(1934)2月に、「相武裏面観察・演芸・娯楽・文芸」雑誌である『よみもの相武」が創刊され、同年夏には新しい「厚木音頭」が発表された。このような状況の背景には、軍需景気下での人々の享楽への強い志向があったからであろう。また、昭和3年(1928)には、大相模新聞社から「厚木芸妓おつとめ番付」が出され、(『厚木の商人』)、昭和12年(1937)8月には、21名全員の出席によって、「厚木町芸妓組合」の「決議書」が採決されていて、昭和時代初期における厚木花柳界発展の流れがうかがい知れる。
 『よみもの相武』の編集発行人は高橋半五郎。『厚木市躍進の十年と現勢』によれば、高橋半五郎はのちに厚木三業組合長・厚木飲食店組合長をつとめ、鮎漁遊船会にも力を入れる亀屋の創業者であった。
 『よみもの相武』創刊号の「ご挨拶」には、「本誌は茲に時運の要求に応じ、花柳界の機関雑誌として生まれたのであります」。 「またデカダンの人達の集まりです。趣味に生きんとする人達です。営利を念とせず、世上有り触れたる低唱野卑の情話を集めた雑誌を作り、強制的な購読賛成を求むるるが如き堕落的なものではありません。真面目に我が花柳界の発展を計る上に献身的に努力せんとするものであります」と述べられている。
 『よみもの相武』巻末にある「原稿募集」欄には、花柳界、カフェー・バーの情話や噂、評判、事実物語、芸妓女給裏話に加え、小説、詩歌、民謡、小唄、俳句、川柳、都都逸、また芸妓.町のスケッチの写真等「花柳界の事なら何でも大歓迎」である旨が記されている。

 『よみもの相武』に広告を載せた厚木の商人を見ると、「呉服物を常に安価に売る」内山呉服店、「花柳界向の便箋と封筒」竹村書店、「御酒でしたら」新志屋、「皆様の食堂」楽養軒、「公債株式有価証券賣買」広沢録太郎商店、「各社レコード蓄音器」紺野時計店、「報徳治淋薬」内田薬局ほか、飯田呉服店、関野治兵衛商店、大むら、波多野商店、柏木屋、大橋タクシー、結髪井上リツ、丸政、水明楼などであり、厚木の商業活動と花柳界が密接な関係にあったことを示している。
 また、『よみもの相武』創刊号には、秦野町(現秦野市)のカフェー・料理屋6店、伊勢原(伊勢原市)芸妓屋案内(3軒)、伊勢原料理店案内(4店)、伊勢原カフェー案内(8店)、田名、麻溝・八景の棚(以上相模原市)料理屋各1店に加え、江ノ島や横浜の料理屋、カフェーなどの広告も掲載されており、広範範な花柳界情報誌を目ざしていたことが伺える。と同時に、左記に上げる旧愛甲郡(相川地区を除いた厚木市域と愛川町・清川村を合わせた区域)内の各店広告によって、さまざまな女性が出入りする料理屋のあったことがわかる。
 相州半原(愛川町) 御料理屋二見屋(かず江・ゆき子、ゆきよ)御料理佐川
 相州田代(愛川町) 和洋料理千代の家(春子・秋子・せつ子)御料理登喜和(美津子・登喜子、千代)御料理ことぶき(なつ子)和洋料理           開田軒
 相州荻野(厚木市) 御料理つるや(きよ子)御料理やよひ軒(春枝・好子)御料理堺屋(ちか子・させ子)
 半原、田代、荻野地区についての詳細は未調査であるが、昭和14年(1939)の「相模川化粧廻披露大相撲」チラシには、「愛北二業」組合が後援団体の一つとして名を連ねている(『写真集厚木市の昭和史』)。「愛北二業」は「愛甲郡北部二業組合」のことであろう。
 『よみもの相武』に掲載された「厚木見番芸妓」は47名を数える。前掲の「相模川化粧廻披露大相撲」チラシには、「厚木町料理芸妓業組合の総見を始め」、麻溝二業、田名三業、愛北二業、伊勢原、秦野町各二業組合が名を連ねており、厚木周辺の各地にも花柳界の灯がともっていたことを物語っている。

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