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NO33(2002.06.01) 厚木町芸妓屋組合と料理屋組合 |
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昭和4年(1929)2月、厚木芸妓屋組合と厚木料理屋組合は、双方全員が「取替書」に捺印して、5か条からなる契約書を締結した(『料理屋組合・芸妓屋組合協定ニ関スル書類』)。 第1条では、鮎漁遊船会などで、多数の芸妓が必要となる時を除き、通常は厚木芸妓組合員の抱芸妓以外を料理屋に招くことを禁じ、第2条では、芸妓が厚木料理屋組合加入料理屋以外のお座敷へ出ることを禁じている。第3条は他のお客から別のお座敷がかかった時のことであり、第4条ではお客と厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)以外へ遠出する時の承諾協議内容を定めている。また、第5条では「玉価・祝儀ハ現在履行通リニシテ」、「時勢」の変化によって双方が協議することとしている。 厚木芸妓屋組合・厚木料理屋組合がこのような契約書を改めて結んだのは、逆にいえば、右の5か条の内容に関するいざこざが生じていたからであろう。昭和4年2月の「取替書」に捺印したのは、左記の37名(内1名は休業)であった。 |
溝呂木琴治、秦タケ、本多トラ、伊藤兵蔵、小川幹、溝呂木専吉、榎本トヨ、會田丑之助、清水荘、木村初枝、内田エイ、金子匡、市場簾次郎、岩崎初太郎、鷲津トメ、川合金太郎、大澤テツ、大澤ナカ、飯田イソ、丸田佐傳次、沼田國枝、小林良治、石井ツル、木村ツマ、岩隈ヤス、溝呂木禮助、杉山忠次、二見タキ、石井荘吉、関屋キク、新倉ヒサ、岸源太郎、高橋カネ、山崎金十郎、斎藤喜三郎、井上カツ、玉川栄吉(休業)。 厚木芸妓屋組合と厚木料理屋組合は、昭和4年2月の「取替書」締結以降、昭和16年(1941)4月の「誓約書」に至る間、合せて6通の契約書を結んでおり(『料理屋組合、芸妓屋組合協定ニ関スル書類』)、昭和6年8月には厚木芸妓屋組合の『決議書』が、臨時総会の席上、出席21名全員によって議決された。 昭和6年(1931)11月の「相互契約証」では、芸妓の「祝儀」「玉価」を、5日以内に料理屋側が支払う「現金制度トシ、之ヲ実行スルコト」が定められ、「万一、一日タリトモ延引シタル場合ハ、芸妓ノ出席ヲ箱止メナスコト」とされた。 また、昭和6年11月以前の未払金は、以後8か月間の月賦償還とし、毎月25日を期日として料理屋側が支払い、さらに大正12年(1924)9月1日に起きた関東大震災以前の未払金は、8か月の月賦償還後に改めて両者で協議することで合意が成立した。関東大震災によって、厚木市町商店の大部分が倒壊焼失するという大被害が生じたとはいえ、それから8年後の昭和6年11月の時点でもなお、大正12年9月以前の未払金が残っていたことに驚かされる。 昭和7年(1932)2月の「双互契約書」は、芸妓玉代に関する内容であり、料理屋の歩合が「2割3歩」に改められ、同年6月1日の鮎漁期からは玉代を1時間10銭値上げすることが決められた。 昭和7年(1936)7月の「料理屋組合、芸妓屋組合相互契約之証」は、見番設置の電話使用に関する内容であり、昭和13年(1938)5月の「相互契約之証」は、昭和7年2月の「双互契約書」を解除し、左記の内容に変更するというものであった。 1.芸妓料金に対する料理屋の歩合を、旧来の2割3分から2割4分とすること。 2.芸妓の玉代を、1時間40銭から50銭とすること。 3.料理屋組合が2割5分の歩合を要求してきた場合は、1時間の玉代を60銭以上に値上げすること。 昭和16年(1941)4月の「誓約書」は、「一部ニ稍モスレハ、馳緩ノ傾キナキヲ保シ難ク」あるため両組合員は「相互ノ持分ヲ明朗ニ支持更正セシムベク、左記条項ヲ列記シ」誓約規定したものであった。 1.風紀に関する其筋よりの通告は固く遵守する事。 1.客同伴にて厚木以外の地に遠出又は宿泊せざる事。 以下、芸妓が「秘密」に「出産又ハ宿泊」することや、芸妓置屋に客を呼ぶ事、見番に届出をせずに客から「玉・祝」を受取ることの禁止などの遵守が定められ、違背者は「一週間以内ノ箱止メ」とされた。 戦争の足音が次第に高まろうとしている時代、厚木花柳界はなお健在であった。 |
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