今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO39(2002.09.01)         厚木市誕生前後の花柳界
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「愛甲新聞」掲載の芸妓人気投票用紙(飯田孝蔵)
 昭和30年(1955)2月1日、愛甲郡厚木町と同郡、南毛利村・睦合村・小鮎村・玉川村の1町4か村が合併、新たに「厚木市」が誕生した。また、同年7月には中郡相川村と愛甲郡依知村が厚木市に合併、さらに昭和31年9月、愛甲郡荻野村が合併して現在の厚木市が域が確定した(『写真集 厚木市の昭和史』)。
 昭和31年の『経済白書』が、「もはや戦後ではない」と記したように、経済発展の波は都市近郊の農村地帯にも次第に影響を及ぼし始めた。変容しつつある市域農村に暮らす家族の苦悩と生きざまを描いた和田傳の小説『鰯雲』の連載が『農業朝日』に始まるのは、昭和31年1月号からであった(『和田傳\相模平野に生きた農民文学作家x)。
 昭和31年3月13日、東京日本橋の三越では、「神奈川県貼るの観光展」が5日間の日程で開催されることとなった。
 この観光展では、神奈川県下芸妓園芸大会も計画されているので、「厚木の芸妓を送ろうという相談」がまとまり次第、「優秀メンバーを拾って「、唄や三味線、踊りの猛練習を始める予定であるという。
 「愛甲新聞」によれば、「そもそも厚木の名物は献上鮎に始まり芸妓につきると言っても過言ではない」、この有名を馳せた名物の姉さん達は現在厚木にどれ位居るかというとざっと五十人」。観光手展出演候補芸妓は左記の通りであった。
 三味線 秀弥、芳香、えくぼ、文弥、染丸、政子、みち奴、鈴丸、早苗
 踊り  みち奴、国香、素鈴菊、豆千代、豊子
 また、昭和31年4月には、「愛甲新聞」発刊3周年を記念して、「芸妓人気投票」が行われ、5名の入賞が決定した。
 1等 452票 小つた
 2等 390票 国香
 3等 350票 秀弥 
 4等 348票 みち奴
 5等 345票 小由美
 投票所は中学通り(現中央通り)の森久保薬局・川田薬局、天王町(現東町)の内田薬局と、芸妓見番及び愛甲新聞社事務所。賞品授与式は6月1日の川開き当日に行う予定であるという。
 花柳界は、文字通り「もはや戦後ではない」繁栄の時代を迎えることになるのである。厚木市誕生前後の厚木花柳界事情に付いて、「愛甲新聞」の記事から追ってみよう。
 昭和29年(1954)5月に起きた「花代整理問題」をめぐるいざこざは、二業組合を解散し、芸妓・料亭両組合の役員を更迭して解決したかに見えた。
 ところが、同年9月に入ると、料亭組合側は芸妓組合長に「内容証明をつきつけて」花代を4月以前のRちょうきん(1時間200円)に戻すよう申し入れ、9月31日からは「箱入れ」を停止するという挙に出て争いが再燃した。「箱入れ」の「箱」は三味線のことである。
 芸後組合では厚木町長や厚木警察署長・地方事務所長等に斡旋を依頼、さらに西湘地区三業組合代表も加わって話し合いがもたれ、新たに「三業組合」を結成することで和解が成立した。
 昭和29年9月13日、芸妓・置屋・料亭の3組合長が協議した結果、花代は1時間225円、また結成事務所を芸妓斡旋所内に置くこととし、新役員は料亭組合より8名、置屋組合より5名、芸妓組合より3名の合計16名を選出することが決定した。
 この時、三業組合長に内定したのは川鍋平次郎(三楽)、副組合長は後に厚木商工会議所会頭となる飯島策司と小林良治(丸花)の2名、会計は榎本藤平(みやこ)、遠藤勇作。監査は山口祥二(松家)、遠藤勇作の2名。理事には山口嘉一(吉金)、溝呂木琴次(三浦家)、丸田トメ(丸田)のほか、照の家・照福の家・分万千(わけまんせん)及び芸妓代表3名の9名が就任することとなった。
 ところが、昭和30年7月には、早くも平塚市で発行されている新聞「新経済」に「厚木料亭組合紛争談」なる記事が掲載され、名誉毀損で告訴するしないのゴタゴタも生じている。
 昭和31年5月24日には「売春防止法」が制定公布されて、公娼廃止が決定する。遊郭の無かった厚木花柳界は、これがかえって追い風となって、間もなく最大の繁栄時代を迎えるのである。

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