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NO41(2002.10.01) 厚木の芸妓130人に |
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厚木芸妓 昭和30年代後半から昭和40年代にかけて、厚木花柳界は最大の繁栄期を迎える。明治時代以降、発展の道を歩み続けた厚木花柳界の歴史は、裏を返すと組織の内紛と改変の歴史でもあった。 第2次世界大戦後の経済復興の波にのって繁栄を取り戻した厚木花柳界は、昭和29年(1954)9月、料亭・芸妓置屋、芸妓の各組合は、「厚木三業組合」を結成、昭和34年(1959)11月には、「厚木鮎街おどり」がはなやかに開催された(「今昔あつぎの花街」39・40)。 しかし、料亭10軒と芸妓置屋13軒(芸妓36人)が、三業組合から脱退、新たに「厚木二業組合」を結成して対立した(「経済航路161花柳界の新勢力)。 三業組合・二業組合分裂当時の厚木花柳界について、新聞に連載された「経済航路160」は次のように述べている。 「厚木の繁華街は花柳界を除いたら残るものはないといわれるほどのお色けのある町である。いまも三十軒の料亭と三十六軒の芸者置屋に 八十四人の芸者がいて小田急線随一の花柳界を誇っている。また、花柳界の浮き沈みが同市の経済界のバロメーターとなっている。 ところが、この花柳界がさる三月、うちわもめから三業組合と二業組合に分裂してしまった。そしていまもなお統一のきざしもみえぬまま 互いに激しい商戦をくり広げている始末である」 旧来の三業組合に残ったのは、19軒の料亭と23軒の芸妓置屋(芸妓48人)であった。 |
この組合分裂のさわぎによって、三業組合加入の芸者は二業組合加入の料亭に行くことはできず、二業組合加入の芸者は三業組合加入の料亭へ出入りすることができなくなったため、「好みの芸者を呼ぶにはその芸者がどちらの組合に加入しているかを確かめてから、料亭を選ばねばならないという不便なことになった」(「経済航路」161)。 昭和41年(1966)発刊の『厚木市躍進の十年と現勢』によれば、二業組合・三業組合を合わせた組合加入料亭は27軒、芸妓置屋は53軒、芸妓数は112人であり、厚木花柳界は「日夜絃歌さんざめく盛況」を呈しているという。 その『厚木市躍進の十年と現勢』から、昭和41年当時の両組合の役員をあげておこう。 厚木三業組合=組合長三淙園(桜井雄吉)、副組合長豊の家(井上豊一)・亀屋(高橋正純)、会計大坂家(小川菊太郎)、理事大和家(内田安治)・吉金(山口嘉一)・大島屋(篠崎由起栄)・丸田(丸田トメ)・勢喜家・照の家・鈴の家・勢喜花の家・照福の家・新勢喜屋、会計監査静本(溝呂木まさ)・分勢喜家。 厚木二業組合=組合長三楽(川鍋平次郎)、副組合長銀鱗閣・丸花(小林良治)、会計みやこ(榎本藤平)、理事松家(山口祥二)、監事高松(矢部徹)。 三業組合・二業組合が対立しつつも、なお発展を続ける厚木花柳界は、昭和45年(1970)には130人の芸妓をかかえるまでにいたるのである。 当時の新聞に連載された「厚木異聞6」によれば、「厚木市の芸者の数は県内で一番多い。その数百三十人。平地(ひらち)の花柳界はどこでも衰退しつつある。その中にあって “厚木芸者 ”は戦前・戦後を通じて “繁栄 ”しているのである」と紹介され、その背景を次のように述べている。 江戸時代から交通の要衝として栄えた厚木の花町の客筋は、古くは商人や問屋のダンナ衆であった。その後は愛川町の生糸成金、軍隊。戦後は基地を中心とした駐留米軍、そして東京オリンピックの建設ブームによる相模川の砂利成金。現在は東名高速道路の開通で起こった工場の進出による社用族、土地成金が座敷を占領する。 「芸者ブームがまるで川の流れのようによどみなく続いたため、芸者の数も戦前戦後を通じて、あまり大きな変動がなかったのだ」 厚木花柳界がもっとも繁栄した時代であった。 |
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