今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO46(2002.12.15)         厚木から飯山へ移る花柳界
.

厚木神社祭礼でパレードする厚木二業組合の芸妓連<昭和35年>(篠田道子氏蔵)
 厚木の花柳界は、昭和40年代の末から50年代にかけて、その中心が飯山温泉へと次第に移っていった。
 昭和41年(1970)12月刊の『厚木市躍進の十年と現勢』によれば、厚木三業組合員の料亭は19軒、芸妓置屋は31軒、厚木2業組合の料亭は9軒、芸妓置屋は23軒、芸妓合計は112人を数えた。当時の厚木三業組合・二業組合加入料亭は左記の通りであった。
 厚木三業組合
 厚木園、大坂屋、大島家、亀屋、玉水、三淙園、静本、水明楼、聖林、千万亀、つる  や、豊由喜、一二三、丸太、むらさき、八百本、大和家、吉金、吉河家
 厚木二業組合
 おかめ、銀鱗閣、三楽、高松、とゝ一、松家、満美家、丸花、みやこ
 昭和41年における厚木三業組合・厚木二業組合両組合参加料亭数の合計は28軒となるが、これを現在(平成14年末)に対比させてみると、料亭地図が大きく塗り代わった様子がわかる。
 また、両組合の芸妓置屋数の合計は54軒であるが、現在営業している置屋は1軒もない。
 昭和45年(1970)には、神奈川県下花柳界では一番多い130人の芸妓をかかえて繁盛した厚木花柳界が(「今昔あつぎの花街41」)、わずか10年余で急激に斜陽化する原因はどこにあったのだろうか。
 まず第一に上げなければならないのが、相模川鮎漁遊船会の衰退であろう。昭和40年(1965)に完成した城山ダムは道志川の清流を津久井湖に呑み込み、城山ダム下流の相模川の水量は激減した(『城山ダム建設工事誌』)。ダム建設によって川砂利が下流に運ばれなくなり、建設資材の需要にこたえる砂利採掘が重なって、相模川は旧来の姿を次第に失い、高度経済成長の波に乗って進行する地域開発も加わって川の水質も悪化した。
 相模川の清流に屋形船を浮かべ、自然の中で鮎漁遊船会を楽しむという、厚木花柳界を支えた大きな柱は、急速にその姿を消して行かざるを得なかったのである。
 次に考えられるのは、宴会形式の変容であろう。「いきなはなれの四畳半」という言葉があるように、いわゆる「お座敷芸」を中心とした個人的な宴会から、団体客の宴会が次第に多くなり、冠婚葬祭の集まりも個人の家で行わず、会館や料理屋などの利用が増すのもこの頃からであった。
 このような宴会形態の変化に対応すべく、旧厚木町郊外に開業したのが、銀鱗閣、三淙園、八百萬会館、三楽会館などであった。厚木花柳界の中心であった寿町1丁目は、入りくんだ細い道路に面して料亭や芸妓置屋が多く、駐車場のスペースもなく、大宴会場の建築は不可能であった。
 これに対し、飯山温泉では、厚木花柳界が失った「川の自然」に対し、「山の自然」を売り物に積極的に団体客を誘致。各旅館が次々と舞台付の宴会場や大広間を建築した。駐車場も広く、温泉に身をいやし、一泊して宴会、あるいはゴルフをセットにしたコースも人気を呼んで、芸妓衆が盛り上げる宴会は華やかさを増して行ったのである。
 昭和57年(1982)3月、厚木三業組合はついに解散を決議する。
 厚木三業組合が解散した年、昭和57年9月8日、飯山芸妓置屋組合は、おどりの勉強会を開催している。その時の「昭和57年度勉強会」プログラムから、出演芸妓名を上げておこう。
 小鶴、笑、忍、綾、政江、竜菊、若菊、志乃、くるみ、小染、千恵、八千代、秀菊、よし子、みほ、ひろ子、小波、ひな菊、節子、手まり、つや子、玉緒、もも、久美、ゆか、小りん、渚、えり子、夢、ねね、梢、琴、直美、なな、小菊。  
.

.