今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO49(2003.02.01)       手古舞28年ぶりに復活
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復活した手古舞と元町の山車(昭和61年
  昭和60年(1985)7月、厚木神社祭礼の御輿渡御には、「手古舞(てこまい)」が復活して花を添えた。「手古舞」とは江戸時代の祭礼の余興に出た舞のことで、「梃前(てこまえ)」の当字であるともいわれている。もとは氏子の娘がこれに扮したが、後には芸妓が男髷(おとこまげ)」を結い、右肌ぬぎで伊勢袴に手甲・脚絆、足袋にわらじをつけた姿で祭礼に出るようになった。背には花笠を掛け、鉄棒(かなぼう)を左手に、右には牡丹の花を描いた扇を持って、あおぎながら「きやり」をうたって歩く。前述した「梃前」は、木遣(きやり)などで、梃子(てこ)を操作する役の意である(『広辞苑』)。
 昔の厚木神社祭礼では、鳶職も「手古舞」として山車(だし)の先頭に立って「きやり」「をうたった。
 昭和60年(1985)7月、厚木神社祭礼の御輿渡御には、「手古舞(てこまい)」が復活して花を添えた。「手古舞」とは江戸時代の祭礼の余興に出た舞のことで、「梃前(てこまえ)」の当字であるともいわれている。もとは氏子の娘がこれに扮したが、後には芸妓が男髷(おとこまげ)」を結い、右肌ぬぎで伊勢袴に手甲・脚絆、足袋にわらじをつけた姿で祭礼に出るようになった。背には花笠を掛け、鉄棒(かなぼう)を左手に、右には牡丹の花を描いた扇を持って、あおぎながら「きやり」をうたって歩く。前述した「梃前」は、木遣(きやり)などで、梃子(てこ)を操作する役の意である(『広辞苑』)。
 昔の厚木神社祭礼では、鳶職も「手古舞」として山車(だし)の先頭に立って「きやり」「をうたった。
 『あつぎの古謡』によれば、各町内で出した揃いのはんてんに、股引・腹掛、草履ばきで花笠をかぶり、扇子を持って木遣をうたいながらねり歩いた。行列が揃うと頭(かしら)の打つ拍子木を合図に木遣がはじまる。山車の人形がゆれて祭り囃子もにぎやかに各町内をねり歩くのである。やがてまた拍子木が鳴ると、それを合図にひと休みとなる。山車をひく時には「ひくぞろい」といって、
 品川沖ではてんまぶねで網をひく
 宿では芸者衆が三味をひく
などという木遣がうたわれたという。
 昭和60年1月の「”手古舞“復活に係る趣意書」によれば、発起人は大岩真、内田安治、篠田道子の3名。「時あたかも、市制施行30周年の記念すべき年にあたり、御輿渡御の古式にのっとった天狗、白丁とともに先駆をなす”手古舞“を復活し、華やかな渡御を再現すべく、『手古舞保存会』を発足致すことになりました」と述べられている。
 昭和60年5月には「厚木花柳界の灯を消すな」と、厚木三業クラブが結成され「市民かわら版第194号)、大島屋での発会式には、厚木商工会議所会頭ほか多くの来賓が出席した。手古舞保存会は、この厚木三業クラブ結成に参加した8人が中心となった。
 では、厚木芸妓の手古舞
はいつから始まったのであろうか。大正11年(1923)頃の大手町(現寿町と中町の一部)の山車の写真には「松奴」「勝代」「勝利」の名入りの大うちわが見え、3人の手古舞姿の芸妓が並び(「今昔あつぎの花街」22)、昭和初期の手古舞の写真を見ると、大きな拍子木を持った鳶職の人と共に「小奴」「竹千代」の名入れはんてんを着た手古舞の芸妓が写っている(『あつぎの古謡』)。
 また、昭和初期の弁天町(現寿町)の山車の写真にも手古舞の芸妓姿があり(『写真集厚木市の昭和史』)、「松奴」の手古舞姿の写真も残っている(角田浩一氏蔵)。
 大正時代から昭和初期の写真を見ると、手古舞の芸妓は、いずれも男髷であるが、着ているのは衿(えり)に芸妓名を染めぬいたはんてんに、腹掛、股引姿の場合と、『広辞苑』が言う「伊勢袴」をつけた姿とが見られることがわかる。
 ともあれ、あつぎ芸妓の手古舞は、百年近い歴史を持つことになり、あつぎ神社祭礼の一点景として華やかさを添えていたのである。あつぎ手古舞の復活を報じた「サンケイ新聞」によれば、ミコシを先導しながら舞い、まつりを盛り上げる手古舞復活に集まったのは芸者衆8人。かつて手古舞に参加したことのある篠田さんを中心に「あつぎ手古舞保存会」が結成された。
 芸者衆の意気に、商工会議所が保存会事務所を提供するなど、全面的にバックアップ。市民の有志180人からは350万円にものぼる賛助金が寄せられ、これをもとに衣装も整った。保存会のメンバーは「神田まつり」舞の練習も万全で、7月20、21日の「あつぎふるさとまつり」の本番に備えているという。
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