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NO53(2003.04.01) 半玉・玉代・ご祝儀 |
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「半玉(はんぎょく)」とは、「まだ一人前でない玉代(ぎょくだい)が半分の芸妓。おしゃく。雛妓」のことである。(『広辞苑』)。 第二次大戦以前、芸妓にはいわゆる一本(いっぽん。一人前)の芸妓と、玉代が半分のお酌(半玉)とがあった。 明治時代のお酌(半玉)について、東京新橋の芸妓置屋、京屋主人の体験談が『女芸者の時代』に語られている。 京屋の主人は明治20年(1887)生まれ。9歳の時京屋に貰われ、小学校に通いながら芸事の稽古にはげみ、11歳でお酌(半玉)としてお座敷にでた。当時は何歳からでも芸者にでることが許された時代だったからである。お酌が一本になるのは17歳くらいであった。 明治30年頃の新橋芸者の玉代は、1時間3本で、1本が10銭、お酌は半玉で1本の半分。ご祝儀が1円でお酌は同じく半分の50銭。お約束(前約束)が倍額になって、2時間12本で、ご祝儀が2円。お酌はすべてその半額であった。 |
現在では、芸者の揚げ代を一括して花代とか玉代とかいうが、第二次大戦以前には、玉代と花代(ご祝儀)とは別であった。玉代は線香が1本たち消えるまでを単位として1本いくらと決めて、お線香1本とか2本とか数えていた。それが線香の立ち消える時間などに関係なく、線香といえば揚げ代の代名詞となり、1本が揚げ代の一単位となって、土地によって1本の時間や代金が異なるようになった。厚木花柳界で使われていたお線香を立てた台については「今昔あつぎの花街21」で紹介したので、参照していただきたい。 ご祝儀は纏頭(てんとう)・纏代ともいわれていた。明治20年代の小田原、平塚芸妓の線香代・祝儀(纏頭)については、「今昔あつぎの花街21」で紹介したが、昭和3年(1928)6月、神奈川県は「税収入の増加を計るべく」「芸妓の香代・纏代を」「遊興税の課税標準」として再検討をはじめた(「横浜貿易新報」)。いうまでもなく「香代」は線香代(玉代)のことである。「横浜貿易新報」の「纏代」には、「はなだい」のふり仮名がつけられている。 では、はじめに述べた「半玉(お酌)」は、厚木花柳界には何人位いたのだろうか。 明治15年(1882)の『神奈川県統計表』によれば、当時の厚木花柳界には9人の芸妓と、5人の「酌人」がいた。「酌人」はお酌、すなわち半玉のことである。大正11年(1932)、厚木警察署から「芸妓免許鑑札」をうけた鶴丸は13歳、さかえは14歳という年齢であった(「今昔あつぎの花街7)。 昭和3年(1928)1月1日の「厚木芸妓組合見番」広告には、「半玉」として、三浦家内茶目子、栗原屋内奴、春本内おもちゃの名前が見える(「横浜貿易新報」)。 では、「半玉」という慣習は、いつ頃から始まったのであろうか。『女芸者の時代』の「花柳用語」解説では、、「江戸時代には少ない。明治になってから、玉代が半分なので半玉という。酒の酌を主にするのでお酌ともいう。襦袢の襟に緋縮緬をかけているので赤襟と呼ぶ人もいた。髪は唐人髷か、一時は桃割れを結った時代もある」と述べている。 江戸時代末期、弘化3年(1846)の布達では、「町芸者と唱え、親兄弟などの為」、「芸一通り」にて「芸者にでることは認められたが、置屋は養女の名目で一人の芸者を抱えることとなり、養母と養女二人の場合が多くなった。その後、明治6年(1873)、「芸妓規則」が制定されると、鑑札を受ければ割合簡単に芸者になれるようになって、全国各地に花柳界が出現するのである」(『国史大辞典』)。このような時代背景をうけて、各地の花柳界に「半玉」の慣習が生まれたのであろう。 次回は厚木花柳界の「半玉さん日記」を紹介する。 |
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