|
NO55(2003.05.01) 昭和37年の全国芸妓屋名簿から |
|
『全国芸妓屋名簿』は、花柳界の情報交換機関紙である「華街新聞」を発刊する、全国芸妓芸妓屋同盟会が発行する名簿であり、昭和37年(1962)の名簿には、厚木三業組合29軒の芸妓置屋が掲載されている。 その29軒をあげると次の通りである。 豊乃家、勢喜家、鈴乃家、分勢喜家、豊由喜、喜久の家、万寿本、照の家、芳本、文の家、鶴の家、勢喜蔦の家、万早野家、寿津花、鈴本、貴久茜、照和の家、喜久よろ寿、分鈴の家、鯉本、分豊由喜、照福の家、喜久本、照初の家、新鈴の家、稲本、分寿津花、春よし、勢喜花の家 昭和37年といえば、厚木花柳界を組織する料亭と芸妓置屋・芸妓が厚木三業組合と厚木二業組合の二派に分裂したわずか2年後にあたる。昭和35年(1960)3月、二派に分かれた厚木花柳界では、両組合が別個に見番を構えて競い合っていたのである。 |
昭和37年の「全国芸妓屋名簿」には、厚木三業組合だけが記述され、厚木二業組合の名簿が掲載されていない。このような状況からは、その背景に両組合をめぐる複雑な事情があったことがうかがえる。 厚木市内最大の祭礼であり、多くの人出で賑わった「お天王さん(厚木神社祭典)」には、厚木三業組合が芸妓連のたるみこしをくり出せば、厚木二業組合は出入先の料亭名をプラカードにかかげた芸妓パレードで対応した。 これより前、昭和30年(1955)に発行の『全国芸妓屋名簿』には、厚木花柳界の記載がなく、両組合に分かれた後の名簿に、厚木三業組合だけが名を連ねているのも、両派の対抗意識があったからだろう。 参考として、昭和37年の『全国芸妓屋名簿』から、神奈川県内の芸妓屋組合と置屋数を紹介しておこう。 横浜日本橋芸妓屋組合 五二軒 綱島温泉芸妓組合 十九軒 掃部山芸妓芸妓屋組合 十二軒 大久保芸妓屋組合 十軒 磯子芸妓置屋芸妓組合 十軒 鶴見芸妓屋組合 十九軒 川崎芸妓組合 十四軒 株式会社丸子見番 三十軒 二子芸妓芸妓屋組合 二三軒 双葉芸妓斡旋所 九軒 大船芸妓置屋組合 三軒 逗子芸妓屋組合 二軒 鎌倉芸妓屋組合 九軒 横須賀芸妓組合 二三軒 茅ヶ崎芸妓芸妓屋組合 四軒 厚木三業組合 二九軒 藤沢芸妓組合 一九軒 平塚二業組合 二六軒 湯河原芸妓芸妓屋組合 一一六軒 仙石芸妓組合 五軒 湯本塔ノ沢芸妓芸妓屋組合 四八軒 箱根元箱根芸妓芸妓屋組合 四軒 有限会社強羅見番 一六軒 宮之下芸妓芸妓屋組合 二一軒 小田原宮小路三業組合置屋部 二四軒 三崎芸妓屋組合 七軒 秦野芸妓組合 一一軒 昭和37年から40年後、平成15年の『タウンページ』(職業別電話帳)によって、神奈川県内の「芸ぎ置屋」の頁を見ると、厚木市飯山、箱根、小田原、湯河原、松田、平塚、鶴見の芸妓置屋や見番、三業組合事務所が掲載されているだけである。 この40年間に、神奈川県内の花柳界をめぐる状況が大きく変化したことがわかるであろう。 |
|
. |
|