今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO57(2003.06.01)        カラオケの流行

初期の歌詞カード付きカラオケテープ(小林正良氏蔵)
 カラオケが流行する以前、花柳界の宴席をもりあげるのは、太鼓や三味線の音色であり、芸者衆の「芸」であり、あるいはながしが弾くギターであった。
 昭和40年(1565)12月の厚木三業組合役員会では、料理屋でたたく太鼓が「子供の勉強に差し支えて困却しているから自重してもらい度い」との申入れを受けて、「お客さんにむやみに叩かぬ様、又午后十時には太鼓を客席より引きさげる様にする事」を、申し合わせている(『厚木三業組合役員会記録』)。
 しかし、昭和51年(1976)にクラリオンからカラオケが発売され、翌年にはカラオケ・ブームが起きると、その波は急速に花柳界にも押し寄せてくる。
 カラオケはバーやスナックなどにも置かれ、娯楽として浸透し、一般家庭向けの機種も多くあって、家でも外でもカラオケを楽しむ生活スタイルは、広範に定着していくのである。
 『戦後史大事典』は、「カラオケ」について、次のように述べている。
  カラオケのメディア論的機能は、何よりもナルシシズム的な装置であり、カラオケを楽しむ者は他人に向けて歌うのでも、他人の歌を聴くのでもなく、ただ自分(とその歌のイメージ)に向かって音楽を消費する。だが、こうしたカラオケのもつ一種の「閉鎖性」は、日本的な集団性、共同性、ムラ的な感性とかならずしも矛盾せず、上司と部下、教師と生徒、親と子といった上下関係をソフトに管理し包み込む文化装置として機能している。
 では、カラオケが流行する以前の花柳界はどのようであったのか。厚木と飯山の花柳界についてふれてみよう。
 まず昭和43年(1968)9月21日改正の、厚木三業組合「芸妓時間料金表(糸・若)」を見ると、1時間の基本料金である「税込み客下げ料金」は、左記の通りであった。
 内訳
 玉代 糸 650円
    若 550円 
 見番手数料 60円
 料亭補償料 90円
 税金 糸   80円
    若 70円
 合計 糸 880円
    若 770円
 つまり、三味線を弾く芸者衆である「糸」の料理が割高となっていることがわかるであろう。
 昭和34年(1959)に開催された『あつぎ鮎街をどり』パンフレットには、「地方(じかた)」として、秀弥、芳香、えくぼ、染丸、小文、文弥、うた子、らん子、早苗の顔写真が掲載されている。
 昭和30年代に入ると、新内ながしはほとんど見ることが出来なくなって、ギターながしがあらわれるようになった。
 昭和30年代はじめのながしには、ベレー帽をかぶり、古賀メロディーが得意なサメチャンがいた。また、橋幸夫の「潮来笠」がはやった頃には、コーチャンが、その後にはマーチャンとサンチャンの兄弟ながしがいたが、サンチャンが料亭のへいに寄りかかって、弾き語りで唄う新川二郎の「君を慕いて」に聞き惚れて、お座敷へ呼ぶお客も多かったという。みち奴さんは、サンチャンと芳香さんが、息の合ったギターと三味線のかけ合いで演じた「ラ・クンパルシータ」は、今でも忘れられないという。
 続いて飯山温泉についてふれておこう。
 昭和45年(1970)に花柳界が誕生した飯山温泉では、数人の芸妓からのスタートであった。このうち菊乃、吉弥、秀丸の3人が三味線を弾けたし、菊乃は太鼓も打った。その後、三味線では妙子に続き、ゆきも加わったが、カラオケが流行する以前、妙子は飯山温泉でのかせぎ高トップの座を占めたこともあったという。
 しかし、カラオケの流行で宴会形式は大きく変わった。全員が一つになって、手拍子を打って歌を唄うことも、お客のうたに合わせて弾く三味線の音色も消えた。いつでも、どこでも唄えるカラオケ。花柳界もこれを受容しつつ、しだいにその姿を変えて行くのであろう。

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