今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO59(2003.07.01)        『うた 人 ヨコハマ』みっちゃんの店

 「うた人ヨコハマ」読売新聞
 1996年2月、読売新聞横浜支局から1冊の本が発行された。本の題名は『うた 人 ヨコハマ』。
 発行の前年、読売新聞横浜支局では、戦後50年ということで、県内の歴史、人の心の移り変わりをたどるために、代表的な77曲について神奈川版に連載した。それは唄が生まれた時代と世相、そこに生きた人々の生きざまを描いたものであるという。
 「読売新聞」神奈川版の連載タイトルは、「人 うた 抄」。厚木市では「厚木音頭」がえらばれて、「みっちゃんの店」をめぐる人生模様が紹介された。
 はじめに述べた『うた 人ヨコハマ」は、1年間にわたって「読売新聞」に連載された「人 うた 抄」を一冊にまとめたもので、第1部ハマ港編から、第8部童謡編にいたる8部構成となっている。
 『うた 人 ヨコハマ』に「厚木音頭」が登場するのは第4部ふるさと編。第4部には「相模の大凧」「厚木音頭」「秦野煙草音頭」「哀愁の道志川「「管巻き唄」などの10曲が収録されているのである。

  ハァー
 相模川から厚木が明けりゃ セノセ
 銀のうろこのヨイトサノ
 鮎おどる サテ
 さんさんさらりと相模川
 ハー瀬の瀬の音頭で
 踊りゃんせ
 「厚木音頭」の作詩は栗原白也、作曲は大村能章。昭和9年(1934)に発表された(『今昔あつぎの花街』29)。発表当時の唄い出しは、「繭の山から厚木が明けりゃ」であったのが、第二次大戦後に「相模川から厚木が明けりゃ」と替えて唄われるようになった。以下『うた 人 ヨコハマ』から、「厚木音頭」の一部を引用・紹介することにしよう。
 相模川に近い厚木市元町のスナック「みっちゃんの店」。止まり木が七脚、二人が向き合える小さなテーブル二つが壁に押しつけられている。夕刻五時に店が開き、なじみ客で埋まる。
     ◇ 
 一九八八年にこの店を持った篠田道子さん(六四)は、今でも「美千奴」の名でお座敷がかかる。「古いつき合いで、断れない客もいますから」。
 店を閉めて駆けつける。甲高い声で歌うみっちゃんの「厚木音頭」は、お座敷をパアーッと明るくする。
     ◇
 五六年(昭和三十一年)師走。二十五歳の美千奴は事情があって静岡県沼津市の花柳界から厚木に住み替えた。忘年会シーズン真っただ中のお座敷で初めてこの音頭を耳にし、何処かで聞いた曲だな、と思った。
     ◇
 戦後間もないころ、東京・麻布で始まった芸妓生活。十七歳だった。二年後には娘が誕生、間もなく離婚。子持ち芸者であることを隠すため、一人娘を実家に預けた。娘が小学校四年生になった時、実家の母親が中風で倒れた。二人とも自分の手に引き取るしかなかった。
 東京五輪の翌年、スナックをつぶして途方に暮れる姉とその子ども四人も加わる大所帯となった。そんな中でも娘は高校から大学へと進学させた。昼は母親の看病、夜はお座敷という生活が長い間続いた。
 料亭をくぐる時、意識して気持を切り替えた。「お座敷さえ出ていれば、お金は入る」。元来の楽天家。メソメソなんかしなかった。
 厚木市は七四年(昭和四十九年)、親孝行都市を宣言した。みっちゃんは親孝行の第一回表彰者に名を連ねた。記念に贈られた九谷焼の壺を見るたびに思う。「厚木音頭」こそ人生の応援歌ではな かったか――と。(「今昔あつぎの花街」は次回が最終回となります)

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