今昔あつぎの花街  飯田 孝(厚木市文化財保護審議会委員)
 NO60(2003.07.15)        夢よ再び―厚木花柳界の再興を願って
平成14年8月「あつぎ鮎まつり大花火大会」(厚木市提供)  昭和30年(1955)2月1日、「厚木市」が誕生した。発足当時の厚木市は、旧愛甲郡厚木町と、同郡南毛利村・睦合村・小鮎村・玉川村の一町4か村であった。その後、中郡相川村と愛甲郡依知村が、さらに愛甲郡荻野村が合併して現在の厚木市域が確定した。
 当初の市役所は、厚木神社北側の旧厚木町役場を引き継いだものであったが、昭和45年(1970)12月、現在の市役所本庁舎が完成して移転した(『写真集厚木市の昭和史』)。
 「厚木市」の市名は、旧厚木町の町名に由来する。明治時代、旧厚木町は新たに開通した東海道線や中央線に交通・物資輸送の中継拠点としての地位をうばわれ、江戸時代には「小江戸」とさえいわれた繁栄を失う状況を呈するのである。
 明治時代に一時衰退した旧厚木町の経済を救ったのは、町おこしとして考案された相模川鮎漁遊船会であり、江戸時代からの伝統をもつ花柳界の充実であった。
 これに加え、世界一の輸出量をほこった日本の生糸産業を支えた、在地農村における繭の集散地として、旧厚木町に繭取引市場が開設されると、町は再び活況を取り戻すようになる。
 明治43年(1910)の「横浜貿易新報」に掲載された「厚木は夜の町」の記事によれば、「現今の厚木の繁栄」は、相模川の鮎漁と「多数の紅裙連(こうくんれん。芸妓連のこと)によるものであるという。昭和9年(1934)に発表された「厚木音頭」が、「繭の山から 厚木が明けりゃ 銀のうろこの 鮎をどる」と始まるのも「繭と鮎」が、厚木の産業と観光を代表する二大特徴であったからにほかならない。
 第二次大戦後、厚木花柳界はさらなる発展を遂げる。昭和35年(1960)の「神奈川新聞」に連載された「経済航路」には、次のように記されている。

 「厚木の繁華街は花柳界を除いたら残るものはない」といわれるほどお色けのある町である。いまも三十軒の料亭と三十六軒の芸者置屋に 八十四人の芸者がいて、小田急線一の花柳界を誇っている。また花柳界の浮き沈みが、同市の経済界のバロメーターとなっている。
 さらに、昭和45年(1970)には、「厚木市の芸者の数は県内で一番多い。その数百三十人」とまでいわれるようになるが、その後、厚木花柳界はしだいに衰退への道をたどる。
 江戸時代からの伝統をもつ厚木の花柳界は、昭和57年(1982)3月、厚木三業組合の解散によって、遂にその歴史に幕を閉じることになるのである。
 これより先、昭和45年には、飯山温泉でも花柳界が発足、厚木花柳界の伝統は、飯山温泉に移って現在もなを生き続けている。昭和62年(1987)、飯山温泉の花柳界は120人の芸妓を抱えるまでに発展した。
 バブル経済の波が日本列島に押し寄せると、花柳界は好景気にわいた。飯山温泉では、宴席に顔を出した芸者衆に、だれかれとなく一万円札をチップとして渡し、呉服屋をお座敷に呼んで、気に入った着物を現金で買ってやるお客もいた時代であった。
 しかし、バブル経済の夢は去った。平成15年1月4日、飯山温泉元湯旅館で開催された「新春初顔合わせ」には、芸妓置屋三桝、春日、京の家、松原、田和量家の5軒から29人の芸妓が顔をそろえた。
 厚木市最大のイベントである「あつぎ鮎まつり」花火大会は、明治時代、厚木花柳界と料亭がその振興策の一環として企画したことに始まる。平成14年8月の鮎まつり花火大会では、50万人余の観衆が相模川の河原を埋めた。
 厚木三業組合が解散した後、厚木花柳界の灯を守ろうと、「厚木三業クラブ」が結成された。夜空に輝く花火のように、厚木花柳界が再び華やかさを取り戻す日を願って。
(終わり) 

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