厚木の大名 <N04>

関宿藩主久世氏系譜       平本元一

武鑑 天保12年(1841)須原屋茂兵衛版
 久世大和守広之は下総関宿藩の第十二代藩主である。江戸時代、相摸国のうち、愛甲郡、大住郡、高座郡の三郡に領地を有していた(『神奈川県史』通史編2(1))。
 ここでは、酒井村を領した久世氏の系譜を見てみることにする。まず、久世氏の領地の変遷は次のとおりである(『藩史大辞典』)。
 寛文9年(1669)/広之/下総関宿5万石→天和3年(1683)/重之/備中庭瀬5万石→貞享3年(1686)/丹波亀山5万石→元禄10年(1697)/三河吉田5万石→宝永2年(1705)/下総関宿5万石→享保3年(1718)/6万石→同5年/暉之/5万8,000石→広周/万延元年(1860)/6万8,000石→文久2年(1862)/5万8,000石。
 二代重之が天和3年に備中庭瀬に転封されるが、宝永2年再び関宿に戻り、以後明治の廃藩置県に至るまで十代にわたり関宿藩に在藩した。関宿藩主八家23代の中で、久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就くなど幕政の重要な地位を占めた。
 久世氏は三河以来の譜代であり、広之の父広宣は7,000石の旗本であった。広之は慶長14年(1609)武蔵国多摩郡南沢村(現東久留米市)で、3男として生まれた。寛永元年(1624)将軍家光の小姓となり、寛永3年(1626)兄の所領五百石が与えられた。将軍家綱の養育に務め、寛文2年(1662)若年寄となり、同3年老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで活躍した。そして寛文9年(1669)下総関宿5万石を領することとなるのである(『江戸大名家血族事典』)。
 旗本の3男といえばあまりうだつの上がらないイメージであるが、広之は43年間で百倍の石高となったわけであり、ノンキャリアの異例の出世といえるであろう。家光までの武断政治から文治政治への移行にあたり、その行政手腕を大いに発揮した。山本周五郎著『樅ノ木は残った』で広之が仙台藩お家騒動「伊達騒動」の収拾に尽力したことも有名である。昭和45年、NHK大河ドラマとして放映され、原田甲斐に平幹二郎、広之に岡田英次が扮した。広之は延宝七年(1679)6月25日没、享年71歳であった。
 広之の跡を継いだのは二代重之、万治3年(1660)、広之の三男として生まれた。天和3年(1683)、備中庭瀬(岡山県岡山市庭瀬)に5万石で入封するが、貞享3年(1686)丹波亀山(現京都府亀岡市)五万石に転封する。宝永2年(17052)若年寄となり、下総関宿五万石に移ることとなる。翌3年には老中に昇進した(『寛政重修諸家譜』)。
 相摸国内を所領としたのは広之、重之の二代であり、重之の後暉之、広明、広誉、綏之、広運の五代が続くが、広運の養子として迎えられた七代広周が幕末に登場する。
 広周は、文政2年(1819)生まれ。天保元年(1830)遺領を継ぎ、嘉永元年老中に進んだ。
 安政6年(1859)大老井伊直弼は安政の大獄を実施し、尊皇攘夷派の橋本左内、吉田松陰を処刑するが、老中広周は井伊の政策を批判したため老中を失脚した。翌万延元年(1860)、桜田門外の変により井伊が横死することにより、広周は再び老中に返り咲く。そして、老中安藤信正とともに久世・安藤政権を築き公武合体運動を進め、「皇女和宮降嫁」を実現するのである。しかし幕末の激動の中、文久2年(1862)坂下門外の変により失脚することとなる。
 広之以来、大名家の血は脈々と受け継がれていたのである。
 江戸時代、厚木市域を含む相摸の国を領地とした大名が日本の歴史の舞台に登場、活躍したことは、歴史の深い縁といえるであろう。

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