厚木の大名 <NO3>

       下総関宿藩         平本元一

再現された関宿城(千葉県立関宿城博物館提供・ホームページより)
 昭和35年7月、粋でいなせな和服姿の高校生が歌手デビューした。その年の歌謡界を席巻し、新人賞を受賞した。橋幸夫、歌が「潮来笠」である。
 「旅空夜空でいまさら知った 女の胸の底の底 ここは関宿大利根川へ 人にかくして流す花 だってヨーあの娘川下潮来笠」。また、同年には映画化もされている。下総葛飾郡関宿(現千葉県野田市関宿。平成15年6月6日野田市と合併)を舞台にした股旅物の物語である。江戸時代、この関宿藩主久世氏・牧野氏の領地が厚木・愛甲・津久井にあったことはあまり知られていない。
 天正18年(1590)小田原北条氏が滅び、秀吉から関八州を与えられた家康が東海から関東に移封され、江戸城を居城として領地支配が始められた。家康は領域の外周には大身の家臣を配置し、江戸城の防備を固めた。関宿は利根川と江戸川の間にあり、河川交通の要の地であり、代々四万石から六万石の大名が置かれたといい(『神奈川県史』通史編2近世(1))、家康がいかにこの地を重要視していたかが理解される。
 相摸国に領地を有したのは、久世氏の初代大和守広之(関宿藩12代目藩主)、牧野成春(同15代目藩主)であるが、関宿藩の藩主の系譜を見てみることにする。
 松平(久松)康元―忠良―松平(能見)重勝―小笠原政信―貞信―北条氏重―牧野信成―親成(京都所司代)―板倉重宗―重郷―重常―久世広之―重之―牧野成貞―成春―久世重之―暉之―広明―広誉―広運―広周―広文(『藩史大辞典』)
 藩の成立は、天正18年(1590)家康の異父弟、松平(久松)康元が下総国葛飾郡内に二万石を与えられ入封したのが始まりである。康元は慶長8年(1603)52歳で没し、嫡男忠良が襲封する。忠良は元和元年(1615)大阪夏の陣に加わり、同2年一万石を加増されて、美濃大垣に移る。元和5年(1619)小笠原政信が下総国古河から2万2,700石で入封するが、寛永17年(1640)33歳で没し、養嗣子貞信が九歳で継ぐが同年9月には美濃高須に転封される。同年北条氏重が遠江国久野から一万石を加増され二万石で入封する。正保元年(1644)には牧野信成が1万7,000石で入封するが同四年隠居し、嫡男親成に家督を譲る。親成は承応3年(1654)京都所司代となり、明暦2年(1656)前任の板倉重宗と入れ替わる。重宗は5万石を領し、関宿城を与えられるが、同年没し、明暦3年(1657)嫡男重郷が襲封する。重郷は万治元年(1658)寺社奉行となり、寛文元年(1661)没する。遺領は嫡男重常が襲封した。
 寛文9年(1669)久世広之が5万石で入封する。広之は旗本から将軍家綱の側衆となり、若年寄、老中を歴任するなど幕府中枢の要職にあり、本人の才覚であろうが異例の出世を遂げている。ノンキャリア組の昇進といったところであろうか。広之は延宝7年(1679)没し、嫡子重之が継ぐが、天和3年(1683)備中庭瀬(現岡山県岡山市庭瀬)に転封された。
 天和3年(1683)牧野成貞が入封するが、成貞は元禄8年(1695)隠居し、養嗣子成春に家督を譲る。この後久世重之が再び藩主となり、久世氏は廃藩置県に至るまで在藩することとなるのである。(『寛政重修諸家譜』)
 今はなつメロとなった潮来笠。その歌詞を味わいながら、厚木の歴史に思いを馳せるのもまた歌の楽しみ方かも知れない。
 次回は久世氏の系譜について見てみることにしよう。

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