出版はドラマ        市民かわら版編集長 山本耀暉    

 「出版」という仕事についてから、かれこれ20年近くになります。出版といっても私の場合、「自費出版」が主ですから、全国をマーケットにする商業出版とはかなり違ったものといえます。
 自費出版の中で一番多いのは「自分史」です。ふつうの市民が自分の生涯を書きつづったもので、自伝とも言いますし履歴書と言ってもいいと思います。この「自分史」は著者の過去はもちろんのこと、現在の自己の内面の世界や家庭にまで深く言及したもので、いわゆる100%私的なものであるという点に大きな特徴があります。
 私が編集者という立場もあって、著者は書いたこと以外に他人には言えないようなことまで話してくれますし、私も書かれた原稿を確認したりその背景を知りたくて、さらに立ち入ってお話を聞くことも数多くあります。
 自分史は、著者の人生や足跡をそのまま写し出すものですから、ある時は安楽浄土を、ある時は阿鼻叫喚を、そしてまたある時はさまざまな喜怒哀楽や人間模様が集約されていて、まるでドラマを見ているようです。
 脚本家のジェームス三木さんが、ドラマについて次のようなことを言っています。
 「ドラマの主役には条件が二つあります。一つはトラブル解決能力を持っていること、もう一つは自分の人生を持っていることです。ドラマはギリシャ語で二律背反を意味します。トラブル、もめ事、対立、葛藤などはすべてドラマの基です。そしてドラマの頂点では主役が必ずすべてを解決します」(「神奈川新聞」01年11月18日)
 自分史は自分の「生き様」を書いたものですから、まさにトラブル、もめ事、対立、葛藤などが集約されています。ここまで生きてこれたというのも、まさに自分にトラブル解決能力があったればこそと言うことも出来ます。
 そういう作品(ドラマ)を、著者と共同で仕上げるのが私の任務です。それは単に編集という作業を通じて本という形に仕上げるのではなく、その人の心の奥にまで入り込み、作者とともに言葉の世界をこの世に産み落とす作業と言えるでしょう。誤解を恐れずに言えば、編集者というのはいわばそうした著者の内面の奥を覗いて楽しんでいる人種なのかも知れません。
 自分史はその人の人生の生き写しです。その人がどのような困難に突き当たり、悲しみや苦労を乗り越えて、今日まで生き抜いてこられたのか、名状しがたいものもあるでしょう。100人の人がいれば、そこには100様の人生があります。でも、私がそれぞれの自分史の中にドラマを見るのは、著者の皆様が「こういう人生がありますよ」、「ああいう人生もありますよ」という「人生いろいろ論」を展開しているのではなく、「人生とはこういうものだ」という普遍的な姿を提示してくれているのではないかと思うからです。
 学生時代、私は作家である後藤明生氏の講演を聞いたことがあります。彼は「迷路あるいは現実」という講演の中で、ゴーゴリやドストエフスキー、カフカの作品を解説しながら、小説というものについて、次のように語っていました。
 「よくいわれる方法論の問題。つまり何をどういうふうに書くかということが現代文学の重大な問題であるわけですが、敢えて申し上げれば、何をどのように書いても構わない。蟻一匹が書いてあってもいいし、また人間ひとりの日常生活が書いてあってもいい。結果としてその小説が『現実とはこういうものだ』という構造を持ったものであるならば、何をどういうふうに書いてもいい。これに反して『こういう現実もあるんですよ』という結果になる小説は、如何なる現実、如何なる事件、如何なる壮大な出来事、あるいは如何に面白可笑しい素材が、アンチロマン風に書かれていようと、少女小説風に書かれていようと、それはいけない」(『円と楕円の世界』河出書房新社・1972年11月15日)。
 つまり、後藤明生氏は文学における現実主義、いわゆるリアリズムと呼ばれるものは、「こういう現実もありますよ」「ああいう現実もありますよ」と書くのではなく、「現実とはこういうものだ」と書くのが、リアリズムであると言っているのです。ドストエフスキーが「われわれはゴーゴリの外套から出てきた」という有名な言葉を残していますが、「ゴーゴリの外套から出て来る」ということはまさにこれを意味しているのだと思います。
 ここに紹介する人は、現在も元気に活躍している人もいれば、すでに亡くなられた人もいます。また、出版の道半ばで亡くなった人もいます。皆さんがお書きになった自分史は後藤明生氏のいう文学とは異なったものですが、自分の歩いてきた道を記すという作業では、文学と同じような深い意味を持っているといえるでしょう。そこには生きる形、スタイルは違っても、まさに「人生とはこういうものだ」ということを深く語ってくれているようにも思います。
 私はそうした人々のエピソードを交えながら、「出版はドラマ」という主題に迫ってみようと思います。本書をお読みいただくことで、私の意図を少しでも汲みとっていただければ幸いです。

  50年後の終戦

 昭和63年の夏であったと思います。厚木市上依知に住む小林吉三さんから「自費出版をしたい」という旨の相談を受けました。母親の33回忌に当たり、父母のことを兄弟姉妹で書いたので、冊子にまとめたいというものでした。
 早速、お邪魔していろいろとお話をうかがっているうちに、小林さんはこの1月に前立腺癌の手術を受けて、2カ月半も生死の境をさまよい、135日にわたる闘病の末、奇跡的に快復、退院されたとのことでした。
 小林さんにとって闘病生活はその後の人生に大きな影響をおよぼしました。そして退院と同時に父母や自分のこと、地域のことを書き残しておこうと思い立ったそうです。
 「金や物を残しても仕方がないからね。そんなものはいつかは消えてなくなってしまう。自分が生きてきた証をどう残すか……、それが問題だ」
 そのとき、小林さんは出版への思いを次のように語ってくれました。
 「私は大東亜戦争に従軍して満州に派遣されたが、戦友はみなフィリッピンで戦死、幸か不幸か私1人だけが生き残ってしまった。また、人生の晩年にきて生死をさまよう大病をしたが、医師の献身的な努力と家族の介護により、奇跡の生還を果たすことができた。その意味では私は2度死んだ人間で、2度も余りものの人生を歩むことになった。
 私に残された道は、父母や先人の足跡を顕彰し、自分の歩いてきた道を子や孫に伝えることだと思う。年寄りの戯言だと笑われてもいい。私はそれをやっていきたい」
 私はその言葉を聞いて胸を打たれる思いがしました。世の中にはお金や名声を残す人は大勢います。だが、いくらお金や名声を残し、功なり名を遂げても、自分が生きてきた足跡を活字にし、先人たちが残した偉業を顕彰する人はそう多くはありません。しかもそれは簡単なようで実に難しい作業です。
 出版はお金がなくてはできません。でもお金があったからといって出来るものでもないのです。私は小林さんの企てに心から拍手を送り敬意を表したいと思いました。
 それからの小林さんは水を得た魚のように執筆活動に専念しました。父母のこと、自分の生いたち、戦争体験、藤塚の歴史、農作業の話、小林家の歩み、奥さんのコトエさんが綴った看病日記、引き揚げ体験にもとづく小説などを次々と発表、この10年間に8冊もの小冊子をまとめました。原稿用紙にすると550枚にもおよぶ力作です。
 小林さんは、戦後の混乱の中で幾多の困難に遭遇しながらも、夫婦力を合わせて田畑を耕し、土地を増やして作物を作る一方で、会社勤めを経験し、そして事業を営みながら立派に子どもを育て上げました。今日、80歳の齢を迎えることができたのも、小林さん自身のご努力はもとより、家族や地域の皆様のご協力と励まし、そして祖先の遺徳と神仏の加護によるもので、ご自身で言う「余りものの人生」とはいえ、戦前、戦中、戦後を生き抜いた大先達として実に見事な人生を歩んで来られたものと思っています。
 私は学生時代から日中戦争や満州国について特別な関心を抱き、これまでに雑多な書物を読みあさってきました。そうしたこともあって、小林さんとは特に満州国のことでは話が弾み、まるで戦友のように意気投合しました。
 ともあれ、この10年間に原稿をまとめた小林さんの情熱と力量には脱帽するばかりです。これだけの内容を持つ本は著述に馴れた者であっても容易に企てられるものではありません。小林さんの著作が家族や地域の皆様をはじめ、多くの人たちに読まれることを切望しています。

 これは、平成11年(1999)10月、小林さんが『生々流転』を出版された際、私が序文として記したものです。『生々流転』は、小林さんがこの10年間に書いたこと、そして書き留めていたものを全部まとめて1冊の単行本にしたものです。いわば小林さんが生きてきた人生記録の集大成というべきものです。その序文を私に頼むものですから私は固く辞退しました。
 すると、「山本さんとは最初に本を出す時からのおつきあいで、山本さんがいなかったら本にはなりませんでしたよ。私のことはすべてご承知なわけですから、どうか最後まで見届けてくれませんか」というようなことを仰っしゃるものですから、とうとう固辞することができず、先のような序文を書く羽目となったわけです。
 実はこの『生々流転』の校正の段階で、私は不覚にも心臓病で倒れ1か月ほど入院してしまいました。幸いなことに手術の結果も良くて順調に快復したため、予定通りの刊行となりましたが、その間、小林さんには、刊行が遅れるのでは、果たして陽の目を見ることが出来るのかと随分ヤキモキさせ、ご心配をおかけしたのではないかと思います。それだけに、出来上がった時の喜びは小林さんも私も大変満足のいくものでした。

 小林さんの出版に際しては忘れない思い出があります。平成7年8月、小林さんは自分の戦争体験をまとめ、『戦い済んで日が暮れて』と題する一文を小さな冊子にまとめました。自費出版としては3冊目の作品です。それは50年間の沈黙を破って語るという特異な戦争体験でした。
 小林さんが書かれたのは「関東軍伝書使」というソ満国境のスパイ活動に従事した体験です。戦争体験を綴ったものの中では珍しく、恐らく初めて世に出されたものだと思います。終戦のおよそ10カ月ほど前、「関東軍伝書使」である小林さんに、「敵前逃亡」の汚名が着せられたのでした。小林さんはこれまで言い訳もせず、真相を誰にも話さずに生きてきましたが、戦後50年、期するところがあり、活字に残そうと思ったのです。当時、私はそれを「市民かわら版」に次のように紹介しています。

 厚木市上依知に住む小林吉三さんは、戦争末期、「敵前逃亡」の汚名を着せられ、軍籍を末梢されたまま終戦を迎えたが、戦後50年を迎えた今、「せめて子や孫だけにでも真相を明らかにしておきたい」と、冊子「戦い済んで日が暮れて」を自費出版しました。
 小林さんは昭和13年9月、志願兵として満州・牡丹江にある関東軍第2飛行師団第8航空教育隊に入隊しました。地上無線や機上無線の操作を覚えた後、第2飛行師団司令部の通信班に配属され、哈爾賓(ハルビン)でロシア語の勉強やミニ無線を使った諜報教育を受け、ました。この間、2度内地に帰国、下士官教育を受けましたが、その後、軍隊手帳など身分を証明するものをすべて取り上げられ、「関東軍伝書使」となったのです。
 「国境のスパイ活動ですよ。ソ満国境に点在する関東軍情報航空隊の連絡業務と情報収集活動に従事したんです。ウスリー河の国境を越え、何度かソ連領に入ったこともあります」
 昭和20年2月、国境で情報収集活動中、司令部から1通の手紙が届きました。部隊がフィリッピン方面へ移動するため、原隊に復帰して後続せよというものでした。そのころ、小林さんは国境のまち虎頭で白系ロシア人の血を引くチーナという女性と一緒に暮らしていましたが、その手紙を受け取ったチーナは、小林さんに見せると2度と帰ってこなくなるのではと心配になり、1カ月以上も小林さんに手紙を渡すのを控えていたといいます。そのため、原隊復帰が著しく遅れてしまったのです。
 小林さんは急いで司令部のある牡丹江に戻りましたが、時遅く、すでに部隊は移動した後でした。小林さんは、軍籍抹消のまま満州に取り残されてしまったのです。その後、哈爾賓から満鉄を南下して大連に到着、丸山組という右翼団体のお世話になりました。
 大連から実家へ手紙を出すと、まもなく兄から手紙が届きました。それには信じられないことが書かれてありました。
 「小林曹長は国境警備中、突然行方不明となり、軍は敵前逃亡として処理した」
 驚いた小林さんは急いで内地帰国を決断しますが、困ったことに身分を証明してくれるものがありません。そのとき、丸山さんが旅行証明と日本人であることを証明してくれる配給通帳を渡してくれました。
 小林さんが朝鮮半島を縦断して内地に帰国したのは、終戦間近の昭和20年7月でした。ところが、実家に帰っても、敵前逃亡の汚名を着せられているから非国民同然のあつかいです。このまま家に落ち着くわけにはいきませんでした。小林さんは惨めな気持ちを味わいながら、しばらくのあいだ身を隠すようにして横浜の従兄弟の家に身を寄せたのです。やがて8月15日の終戦を迎えました。
 小林さんが伝書使となった昭和19年9月以降は、いまでも軍籍抹消のままです。戦後、軍人恩給をもらうため厚生省に何度も足を運びましたが、受給資格を得ようにも「伝書使」を証明するものがないし、証明してくれる人もいないため、いくら説明しても小林さんの言い分は通りませんでした。そして敵前逃亡の汚名だけがついて回ったのです。
 「敗戦で軍隊が崩壊してしまったからね。そのうち名誉回復なんてどうでもいい、戦死した戦友に比べると。敵前逃亡であろうが何であろうが、自分には生きて帰れたからそれだけでもいいじゃないかって……そう思うようになり、誰にも真相を話さずに生きてきました」 
 その小林さんが、50年間の沈黙を破って、真相を記録として残すことにしました。それは決して名誉回復とかいうものではありません。
 「自分自身のけじめですかね。これで長い間着ていたものをやっと脱ぎ捨てることができました。もともと余りものの人生ですからね。これでもういつ死んでもいいですよ」と笑う小林さん。
 小林さんの戦後は50年目にしてやっと終わったのです。(平成7年8月15日)

 『生々流転』を刊行した小林さんは、その後も余生を楽しんでおられましたが、自宅で踏み台から落ちるという不慮の事故に遭い、入院されました。それが原因かわかりませんが、平成14年1月14日、入院中に容態が悪化してとうとう帰らぬ人となってしまいました。小林さんには満州時代のことをまだまだお聴きしたいと思っていただけに、残念でなりません。心からご冥福をお祈りしたいと思います。

  他人史というアイデア

 平成7年のゴールデンウィーク明けであったと思います。兼ねてから懇意にしていただいている二見恭次さんから、「自分史」をつくりたいという相談を受けました。
 「12月8日(開戦記念日)に喜寿を迎えるので、それまでにまとめたい。ただし、自分で書くのは自画自賛になる。それでは誰も読んでくれないし、第一そんなやり方は自分には似合わないので、友人や知人に書いてもらおうと思っている」
 つまり、二見恭次(本名与作)なる人物像を他人に書いてもらい、それをもって「自分史」にしたいというのです。
 私はこれまで多くの方の自分史づくりのお手伝いをさせていただきましたが、自分のことを他人に語ってもらうという形で自分史をまとめるというのは初めてのケースでした。
 二見さんは私の父親と一つ違いの大正8年生まれです。県立平塚農業学校を卒業後、横浜税関に奉職、昭和16年から終戦まで軍隊生活を経験し、戦後は自動車、砂利、電気関係の会社につとめた後、32年株式会社協和製作所を設立し代表取締役に就任しました。以後、商工会議所の常議員をつとめるなど、地元経済界の発展にも尽力され、57年には第一線を退いて会長に就任しました。
 二見さんは「頑固一徹」ですが、「頑迷固陋」ではありません。昔気質で筋道の通らないことは片意地なまでに頑固です。しかし、考え方には柔軟さがあり、物事の道路が分からない人ではなく、むしろ、物事の道理を諭すために頑固一徹だったといった方が正確だと思います。加えて、二見さんはとてもシャイなところがあり、知的ユーモアに満ちあふれた人でもありました。そうした気概を持った二見さんは、自分や家族のためよりも「人のため、世のため」に生涯を投げ打った希有な人でもあります。男の本分は社会に有形無形のものを残すことだとしたなら、二見さんはまさにそれを見事に実践された方でもありましょう。
 その二見さんを、いろいろな方が批評するというのですから、これはほんとうに二見さんらしいユニークな自分史が出来上がると歓迎したものです。
 私が「原稿はお願いしてありますか」とお尋ねすると、「まだだ。これから頼むので、依頼文をまとめてもらえないか」ということでしたので、本書の巻頭に掲げてある次の文章を作成してお届けしました。
 
  自分史原稿のお願い                                     二見 恭次
 粛啓 新緑の色増す季節となりました。皆様方にはお元気でお過ごしのことと存じ上げます。日頃はあたたかいご交誼にあずかり心よりお礼申し上げます。
 さて、月日のたつのは早いもので、現役(社長)を退いてから早十年が経過いたしました。この間、会長職として微力ながらのお手伝いをいたしておりますが、寄る年波には勝てず、腰痛の手術で入院するという療養生活を体験いたしました。お陰さまで痛みからはどうにか解放されはしたものの、足腰がめっきり衰えてまいりまして、最近は杖を片手に家族の介護を受けるという毎日です。
 しかしながら、口舌の方は衰えを知らず、相変わらず昔の如く「言いたい放題」を繰り返しており、これも、天与の才と勝手な妄想をいたしております。
 昔は「人生50年」と申しましたが、昨今は「人生80年」といわれる時代です。幸いにも戦中戦後の激しい混乱苦闘の歳月を、神仏の加護と祖先の遺徳の余慶を得て、今日まで無事に切り抜けることが出来ました。今年の12月8日には、喜寿(77歳)の齢に達しますが、これまで生き続けてこられたことに感謝しつつ、その足跡を「自分史」に残してみたいと考えております。しかし、己のしたためる自分史では自画自賛ともなり、私にはとうてい似合いません。
 つきましては、皆様方に「人間・二見恭次(本名・与作)」を率直に語っていただき、それをもって私の「自分史」といたす所存です。甚だ勝手なお願いではありますが、拙者の意をお汲みとりいただきどうか忌憚のない二見評をお寄せくださいますようお願い申し上げます。
 誠に恐れ入りますが、出来うれば喜寿に間に合わせたく存じますので、原稿〆切日に間に合いますようご高配をたまわりますれば幸いです。                                              謹白
  平成8年5月30日  

 しばらくして、二見さんから「会長職を退いて相談役におさまった。これから自分史づくりに専念できる」というお電話をいただきました。原稿も大分集まってきたというので、私は編集の段取りや装幀などに思いを巡らせながら、原稿が届く日を楽しみにしておりました。
 九月も後半を過ぎ、そろそろ編集の作業に入らなければと思っていた矢先です。二見さんが突然逝去されたのです。私は訃報を受け、驚くと同時に愕然といたしました。これまで準備を重ね、発刊を心待ちにしておられたことを思うと、思い半ばで亡くなられたことはさぞかし心残りであり、無念でもあり、返す返すも残念の一言に尽きるものでした。
 その後、二見さんの奥様をはじめ、ご家族の皆様から「故人の遺志を出来るだけ早く形にしてあげたい」というお言葉をちょうだいしたので、早速、集まった原稿を拝読いたしました。
 原稿は学生時代の同窓、戦友、職場の同僚や部下、商工会議所、経済クラブでともに活躍した経営者、そして知人、友人からでおよそ60通にものぼっていました。そのいずれもが二見さんの喜寿を喜び、今後のますますの活躍に期待を寄せるもので、行間の端々に「人間二見恭次像」があますところなく映し出されており、私は読みながら深い感動と羨望の念を禁じ得ませんでした。まさに「他人史をもって自分史となす」と言う二見さんのアイデアの勝利だったと思います。
 原稿の大部分は、二見さんの生前にお寄せいただいたものです。従って、そのほとんどは故人に対する追悼文ではありません。その後、亡くなられた後にお寄せいただいたものもあり、ご家族の皆様とご相談の結果、これを「追悼集」とはせずに、当初の計画通り喜寿を記念した「自分史」としてまとめることにいたしました。そうすることが二見さんの意思に叶い、また原稿をよせられた皆様のお気持ちにも報いることができると考えたからです。
 題名の『らしくあれ』は、二見さんの人生訓をそのままお付けしました。この「らしくあれ」は「人間、常に本分を忘れるな」という二見さんの日ごろの教えでもあり、自分史の題名としてこれほど優るものはありません。題字は生前に二見さんが書家の故渋谷竹径さんよりいただいた作品を、本人がたいそう気に入っていたことから使ったもので、渋谷家のご了解をいただいて表紙を飾ることができました。
 二見さんは菩提寺である法雲寺のご住職より「透雲院恭誉理岳明照居士」という大変ご立派な戒名を拝受されました。ところが、生前にご自分で戒名をつけられ、私に「頑骨院直線大居士」であると笑いながら語っていたことがあります。その時は、冗談半分に聞き流していましたが、いま考えてみるとこれも二見さんらしいユーモアで、これほどご自身の性格を直截に表現した言葉もありません。故人の気持ちの一端を紹介するという意味で、本書の扉に挿入することにいたしました。
 本書を12月8日の誕生日の発刊としなかったのは、ご家族の皆様とご相談の結果、故人の100ヵ日に合わせて刊行した方が時宜を得たものであり、せめてものご供養になると考えたからにほかなりません、原稿をお寄せくださった皆様には心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
 なお、故人の意思をお汲みして執筆者の肩書きは省略、掲載順は不同にさせていただきましたので、ご容赦をたまわりたいと存じます。(平成8年12月『らしくあれ』あとがき)

  そもさん文庫

 地域作業所の障害者に市民の側から仕事を提供しよう\昭和63年(1988)10月、厚木市と愛川町のボランティアの手によって、障害者とともにつくる本「そもんさん文庫」第1集『ふるさとのむかし話』が刊行されました。大勢のボランティアが障害者とともに、企画・編集・印刷・製本・販売にいたるそれぞれの過程に、自分の出来る範囲でリンクしていくというやり方で、社会の一員として障害者とともに生きていくノーマライゼーションを身をもって実践したボランティアの数は2,000人を越えました。私はこの本の「あとがき」に次のような文をしたためました。

 この『ふるさとのむかし話』は、昭和57年(1982)1月から12月まで20回にわたって「市民かわら版」に連載された同名タイトルの民話・伝説を1冊の本にまとめ、「そもさん文庫」第1集として発行したものです。
 相模地方にゆかりのある「昔話」や「伝説」は数多く」ありますが、今ではそれらを聞くこともほとんど不可能になりました。都市化と核家族化が親子や世代間の断絶を招き、古くから伝えられてきた「語り部」文化を、テレビや漫画、塾通いの中に埋没させてしまったのです。伝承文化の危機といえるでしょう。
 ここに収録したものは、厚木、愛甲地方に伝わる代表的な昔話20編で、初めて日の目を見るものもいくつかあります。それぞれに面白く、可笑しく、そして悲しく、味わいのある「心のふるさと」を写し出しています。
 当時、再話と執筆を愛川町文化財保護委員長の大塚博夫さん、厚木市文化財保護調査員員の飯田孝さんにお願いしました。お2人とも伝承文化の危機に深い憂慮を示され、調査の手を昔話の掘り起こしにまで伸ばしてくれました。お2人の情熱が、作品の価値を幾重にも高めてくれたことは申すまでもありません。
 連載中、多くの読者から早く本にして欲しいという激励をいただきながら、その作業を怠ったため、今日までその機会を逸しておりました。それだけに、この本がこういう形で日の目を見ることは誠に喜びに堪えません。「郷土」という意識がすっかり薄れてしまっている昨今、この本の中から、今日を築き上げた先人たちの心の機微や、人と人、人と自然の結びつきを少しでも感じとっていただければ幸いです。
 この本が、「そもさん文庫」第1集として刊行されるまでには、いくつかの紆余曲折をたどり、数多くの障害者とボランティアの手を経てまいりました。もともと「そもさん文庫」という考えは「本書のオルガナイザーでもある厚木福岡県人会の藤江正孝さんの発案によるものでした。それは印刷、製本の分野で、障害者の地域作業所が一つできないかという考えに基づいています。
 生産力と民主主義の発展は、経済的、文化的格差の是正と市民的自由の確立、同時により人間らしく生きるための参加と保障の機会を拡大していくものと理解されています。しかしながら、障害者の参加と雇用の確保はまだ始まったばかりで、いぜんとして厳しい環境におかれています。
 今後、社会が高度情報化、高齢化に向けて突き進む中で、障害のある人たちが本当に働く場所を見つけていけるのか、また、今の職場を失わずにすむのか、視界はまったくゼロといってよいでしょう。私たちは、障害者の新たな雇用の創出のために、印刷・製本という仕事に目を向けました。
 「知恵遅れや身体に障害のある人たちが本づくりを」というと、ちょっと驚かれるかも知れません。かつて、活字文化の創造は、知識人や専門家など特定の人たちだけのものとされてきました。しかし、文章活動が庶民のものとなったいま、活字文化の創造や送り手が障害者であってもいいはずです。私たちの手法はボランティアが企画・編集して、障害者が作る、そして販売するというやり方です。作業を重ねていくうちに、実はこれが「怎麼生(そもさん)」の考えにピッタリだということにも気がつきました。
 「怎麼生」とは、中国の宋時代の俗語で、「いかが」「さあ、どうじゃ」という疑問の意を表す言葉です。また、禅問答における問いかけの言葉としても使われており、私たちは、その意味で、「あなたは障害者に何が出来るか」という問いかけの気持ちを込め、「そもさん文庫」と名づけました。
 本づくりにたずさわったボランティアの皆さんは、「楽しくなければ仕事じゃない」ということで、急がず、慌てず、無理なく、そして楽しみながら、マイペースで作業にたずさわって下さいました。これらの人たちの個性が色濃く出ているのが、この本の特徴ともいえます。それは、いってみれば分業の成果ともいえるもので、製本を「和綴じ」にしたのも障害者でも十分に作業が出来るということに加えて、少しでも手作りの味を出そうと考えたからにほかなりません。まさに障害者とボランティアによる協業化の結実でした。
 ことにボランティアの皆さんは、実に理想的なボランティアだったことを読者の皆さんにお伝えしたいと思います。私たちはこれを、私たちの仲間で最長老である杉山勇さんの名をお借りして「そもさんエイド杉山班」と名づけました。この固有名詞は変数です。ですから、この後に数多くの「そもさんエイド○○班」が続くことを願っています。同時に、この本の販売についても多くの皆さんのご協力をいただければ、喜びはこの上ありません。
 私たちはこの作業を通じて、考え方を「障害者に仕事を」から、「障害者とともに仕事を」に変えました。そもさんが意味するところ、すなわち「あなたは障害者に何が出来るか」という問いかけから、「あなたは障害者とともに何をするか」という問いかけに変えたのです。私たちの考えがお分かりいただけたでしょうか。
 最後にこの本の出来栄えを改めて「そもさん」したいと思います。ありがとうございました。(昭和63年7月)
 
 「ふるさとのむかし話」は、800部を製作しましたが、発売後1カ月もたたないで売り切れになりました。愛川町では購入予約を消化できないまま品切れになり、町の社会福祉協議会が五百部を増刷しました。これまでに参加されたボランティアは延べ2,000名を超えています。編集・製本、販売、購入のそれぞれの過程を、ボランティアからボランティアの手へと引き継がれ、本棚におさまるまでの道程には、小さなドラマが次々と生まれ、大勢の人たちの間に本づくりの楽しさを残していったのです。

  人生という旅の終焉

 いま住んでいる世界から抜け出そう。そして別の世界に入ってみよう。そこではいままでにない多くのものを見、聞き、確かめることができるような気がする。それが「旅」の最大の楽しみだと思う……。
 厚木市緑ケ丘の元教師・植田昭一さん(73)が、教師だったころの研修旅行や私鉄乗りつくしの旅、ヨーロッパ、東南アジア、カナダなどを旅行した時の思い出を記したガイドブック『旅のしおり』を自費出版しました。植田さんは昨年(平成12年)12月、肝臓と腎臓の不調を訴えて緊急入院しました。肝臓ガンは手術を拒否、腎臓病は腹膜透析の手術を受け、現在、自宅で療養する毎日ですが、約700枚におよぶ原稿を手術を受ける前の数か月でまとめ上げ、出版にこぎつけました。
 植田さんは福島県の出身です。子どものころから鉄道が好きで、遠くへ出かけても同じ路線は2度乗らないという好奇心の持主で、若いころは東北地方を中心にさまざまな鉄道を乗り歩きました。
 川崎の中学校教師をしていた昭和53年、宮脇俊三さんが著した『時刻表2万キロ』という国鉄全線完乗の記録を読み、自分も全線を完乗してみようと、鉄道の旅が始まりました。旅先では車窓の風景を楽しみながら、土地の人の訛りにまで耳を傾け、乗り合わせた見知らぬ人とも話を交わしました。そして全線を完乗したのは国鉄民営化2日前の昭和62年3月29日でした。
 植田さんは8年前、こうした旅の思い出を約600枚の原稿にまとめ、『私の旧国鉄全線完乗記』と題して自費出版したのです。
 旅はその後も続き、国鉄から私鉄全線の完乗、そして飛行機の旅へと方向転換、平成五年からは海外にも足を運ぶようになり、スイス、イタリア、ポルトガル、スペイン、タイ、マレーシア、カナダ、オランダ、ベルギー、北欧四か国などを旅行して歩きました。
 今回は、教員時代に体験した研修旅行と私鉄乗りつくしの旅、飛行機で行く国内旅行、海外旅行13カ国めぐり、さらに、随想として還暦に思うことやふるさとの思い、私の読書遍歴などを収録しています。旅行記としてはこれが2作目です。
 旅行記は行く先々の文化や歴史、人々の暮らしと表情、思いにまで言及しており、旅を通して人生の道案内をしているといった感じでしょうか。読んで楽しめる「旅のガイド」となっています。
 江戸時代に秋田から津軽、蝦夷の松前までを旅した菅江真澄(すがえますみ)という旅行家がいましたが、彼が残した記録は後に柳田国男が感嘆するほど民俗学の貴重な資料となりました。
 植田さんは、「私の記録は菅江真澄の記録のような、後に資料となるような大それたものではないが、幼少期、青年期、家族をもった成人期、リタイヤ後と、その時々の旅に対する感慨や自然や物の見方、人とのつきあいなど、自分の人生の一端を表すものとなり、それはそのまま自分自身を反映した自分史である」と述べています。
 昨年、体調不良で倒れた時、「70余年の生涯を顧みると、誇れるような業績を残すこともなかったが、非難されるようなこともなく過ごしてきたことに満足している。私にとっての趣味としての旅も人生という旅も、これでいよいよ終わりだな」という感慨を持ちながら、忙しくペンを走らせたと言います。
 植田さんはこの4月、腹膜透析の手術をして以来、自宅で1日2回、自分で透析を繰り返しています。
 私が訪問した時は、ちょうど腹膜透析をやっている最中で、「見ても良い」と言うので、これも勉強だと思って、見せていただきました。約40分ほどかかって腹膜に溜まっている体液を体外に出します。今は医療器具が発達していて操作は簡単ですが、一生これを続けなければならないと思うと、やはり大変だなあと思いました。
 初校ゲラを出した際に、「あとがき」の原稿をちょうだいしました。そのあとがきは、まさに「遺言」としか言い様のない代物で、死亡した時は最小限の人にしか知らせるな、葬儀も戒名も不要、葬送にはバッハのレコードをかけて欲しい。相続に足る財産は残していないが、相続についてもきちんと書き残してありました。
 長年自費出版の仕事をしていますが、このような「あとがき」は初めてでした。私は植田さんに率直に申し上げ、「出来れば書き直されたらいかがでしょうか」と、奥様にも意見を求めました。奥様も私の考えに同調されたものですから、植田さんは「あとがき」を書き直すことにしました。私は本人の希望を折ったようで心苦しい気持ちがしましたが、結果としてはそれで良かったと思っています。
 その後、2校、3校と校正を出した後、、私は意識的に本の出来上がりを1カ月ほど遅らせることにしました。というのは、8月初めにうかがった時、本人は「生きる気力が日に日に低下していく」「完成本を見ることができないかも」とすっかり落ち込んでいましたので、このままいくと、張りつめた気持ちが一挙に切れてしまうかも知れない。今は、本が出来上がるまでという目標があるため、生きる気力を保っていると思われたので、本人には大変申し訳ないのですが、張りつめた糸をもう少し先まで保ってもらおうと思ったのです。
 私はお邪魔するたびに、容態を気にかけ、作業の手綱を緩めたり引いたりしていました。  
 ある夏の日、デザイナーに頼んでいた本のカバーデザインが出来たのでお持ちしました。「旅のしおり」というタイトルに、ご夫婦が旅先でパラソルを持って記念写真におさまっている姿をカラーのイラスト絵に起こしたもので、とても微笑ましい雰囲気が出ていました。
 奥様が「似てますわね」と笑いながら言うと、本人も「これが最後だから、(夫婦が出るのも)記念にいいかもしれない」と大変ご満足のご様子でした。この当時の植田さんはたいへんお元気な様子で、食事も以前より進むようになり、体重も1キロほど増えたと仰っていました。顔つきにも笑顔が戻っていて、私も一安心したものです。
 ですから、本が出来上がってきたとき、私は「市民かわら版」に植田さんの本を紹介しながら、最後に「しばらくはこのまま病気とつきあっていくことに決めたという。植田さんの旅はまだまだ終わらない」と書いたのです。
 でも奥様は私の気持ちに気がついていたようです。亡くなった後、「山本さん、わざと出来上がりを遅らせたのですか」と聞かれましたが、「いいえそんなことはありませんよ」と嘯いたものの、図星でした。これは本当に危険な賭でもあったのです。
 植田さんは、その後、11月にお亡くなりになりました。旅の最後と自分の人生を重ね合わせ、人生という旅の終焉も、自ら時刻表を書いて演じ切ったのでした。(2001年12月20日)

 かつて、親しくさせていただいたSさんが、ガンの病に倒れた時です。私は手術後しばらくしてから呼ばれ、「自分のこれまでの活動をまとめたいので、よろしく頼む」と言われて、資料をすべて私に渡されました。私はその時、「ハイ」という返事をしたものの、「嫌なことを頼むな」と思い、なかなか気乗りがしなくて、かなりの間そのままにしていました。その間にも、Sさんの容態はますます悪くなり、余命幾ばくかを感じさせるにまで悪化していきました。
 ある時、私は奥様に、「実はご主人からこれまでの活動のまとめを頼まれているのだが、気乗りがしなくて今日まできました。どうしたらよいでしょうか」とお尋ねしたところ、「山本さん、主人が頼んだことなので、約束通りまとめてください」と言われたので、やっと重い腰を上げて、作業に取り組んだことがあります。
 誰が見てもあと1、2ヵ月の命と解るほどでしたから、それはとても危険な作業でした。
 「亡くなってから納本したら、何を言われるか分からない」
 私は猛烈なスピードをあげて作業を急ぎました。全体がまとまったので、最後の奥付を入れる段階になった時、発行日をいつにするか迷いました。通常奥付の日付は、出来上がり日や発売日を想定して決めますが、Sさんの場合はそういったケースではありません。命がいつまで持つのかというのと競争です。私はさんざん迷った挙げ句、出来上がり日も考慮して「4月25日」の日付を記入しました。
 本が出来上がって納品したのが亡くなる2日前でした。その時は、本人と直接お逢いすることはできませんでしたが、後で聞いた奥様の話では「あの日は、たまたまHさん(従兄弟)が来ていました。納品された本を2人で見ていて、Hさんも良くできたなと話していました。本人もとても満足していたようです」とおっしゃっていただきました。
 次の日、用事があって午前中、Sさんのご自宅におじゃましましたが、奥様も出て見えませんでしたので、玄関先に荷物を置き車に乗って走り出そうとしたときです。ルームミラーに玄関先で手を振っている奥様の姿が見えたものですから、お礼の手を振っているのだなと思い、そのまま車を走らせました。
 後で聞いたところ、その日、Sさんは朝からとても容態が良く、奥様が私に合わせてもいいと判断したので、車を止めようと思って手を振ったとのことでした。私は何で手を振っているのか解らなかったものですから、奥様の心づかいは叶わず、Sさんはあの世に旅立たれてしまいました。
 亡くなった日は、奥付きの日の前日でした。従って告別式と奥付の日がピタリと重なったのです。葬儀の時、年輩の知人から「随分手回しがいいな」と言われましたが、それはまったくの偶然にすぎず、あのときほど間に合って良かったと思ったことはありません。まさにヒヤ汗ものでした。
 今考えると、Sさんは本が出来上がってくるまで待っていたのかもしれません。もっと早く取り組んで納品すればよかったのに、病身の身をヤキモキさせたのかと思うと、遅れて大変申し訳ないことをしたなと思っています。

(つづく)

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