言葉と精神の離乳食★わらべうた

大熊進子

NO.18

  日本語を解るようにするためには

唐茄子(南瓜)
 前号の芋人参についてですが、歌を聴いている子供たちの表情から私は沢山のことを学ぶことが出来ます。心がここにない、聞こえない、聞いてもわからない、何言ってんの? あれっ、何だ? アッ、野菜だ! などなど……。
 若い頃の私は紙に書いてあることをある程度忠実にやり遂げようと努力し、挫折の毎日でした。そうです、紙に書いてあることなんて所詮、机上の空論、目の前の子供たちを育てなくて何で教育者と言えようか。今はとりあえず、紙は持ってません。目の前の私の子供たちが先生です。そうか、心がどっかへ行ってるなら、帰ってくるまで邪魔しないで待ってましょう。聞こえないなら耳掃除をしましょう。わからないならどこで躓いたか知らなくては、日本語を解かるようにするためにはどうしたらいいのか、私の研究課題が増えちゃったなあ。あれっ、興味を増すためには何をプラスしようか? 私が人参嫌いだということを告白しようか……などなど。一瞬の裡に決めなければ大人のプロとはいえません。いつも幼児たちと対峙しているときくらい真剣勝負の時はないと言っていいくらいです。
  この歌に出てくるのが野菜尽くしだということは短時間のうちにわかります。でも山椒、蓮、唐茄子は今の子供に解かりにくいものです。特に唐茄子はよくドーナツと間違います。〜なにが ナンキン トウナス カボチャ〜などと囃し立てたものですが、もちろんそんな言葉は今では消えているのでしょう。カボチャは唐茄子とも南京とも言いました。地方によってはもっと呼び名があるかもしれない。カボチャは沢山の呼び名を持っていて豪勢なものです。10年位前に小学校の先生がこの歌を絵カードにしようとして唐茄子というところで茄子を10個書きましたが、そんなもんになりました。山椒は子供たちにはあまり馴染みが無いので仕方ないかなとも思いますが、家で食卓にのらなくなったのでしょうか? 木の芽和え、ちょっとしたかおり付けなどが消えるのも寂しいものです。蓮はレンコンなら解かるのです。これもレンコンにはお気の毒な気がします。
 い〜もの に〜たの さんまのしおやき ごぼうのむしたの なのはな はくさい きゅ〜り とーなす(芋の煮たの 秋刀魚の塩焼き 牛蒡の蒸したの 菜の花 白菜 胡瓜 唐茄子)というのもあります。
 これは多分メロデイーから言って関西の歌だと思います。いつかこれを芋人参より先に歌って失敗したことがあります。といいますのも子供たちは「良いもの似た、胡瓜と茄子が出てきた」といったのです。子供の頭の中が解かります、歌を聴くという集中した思考の中で自分の知っている言葉をものすごい速さで探っているのです。
 「おてらのこぞうがしらぬまに〜」という歌のときも「お寺に小さい象がいて、そんで沼に行って〜」などと話してくれます。健気な思考だと、ただただ感動するだけです。
 関西風の歌から私は牛蒡を蒸すのかとレシピがひとつ増えます。ツバメが去って今度渡ってくるのは何かしら? 雁、ガン。日本よりもっと北で産卵して子育てして体力増強のために日本に来るのかなあ。
 「かり かり わたれ おおきなかりは さきに ちいさなかりは あとに なかよく わたれ」これは明治時代に教科書に載りましたから文部省唱歌といえますが、わらべうたでもあります。
 「雁がわたる 鳴いてわたる 鳴くはなげきか喜びか、月のさやかな秋の夜に、棹になりかぎになり わたる雁、おもしろや。 雁がおりる、連れておりる。連は親子か友だちか。霜の真白な秋の田に、睦ましくつれだちて おりる雁、おもしろや。」これも明治時代の教科書に載っています。メロデイーは雁が棹になったり鍵になったりするように揺れ動いているのが楽譜に良く現れていますが、子供たちはそんなこと考えなくて良いのです。ただひたすら頭の中に映ったスクリーンの雁の姿を見つめながら自分の歌につれて雁たちが形を変えて飛んでいく様を想像すればいいのです。
 でも最近は雁が飛んでいるのを見る機会も少なくなりました。私は幸いなことに川を幾つも渡って厚木に来ますので、町に住んでいる人より雁を見る機会は多いのです。本当に見事に棹描いています。そういう形を見た日は一日なんか幸せです。

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