★★★★風見鶏

2008年1月1日〜12月15日

 県の仕事だという前に厚木市独自のプランを示さないと話にならない(2008・12・15)

 厚木市域間の相模川の河川整備は隣接する海老名市や平塚市、相模原市などに比べて著しく遅れている。相模川三川公園などは海老名市側はすでに完成しているのに、厚木市側はいまだに実施計画すらできていない▼かつて厚木市は河川の占用許可が下りているのに、下りていないを理由に河川整備を怠ったり、数年前までは元町と金田を結ぶ地点に新橋を架けるというおよそ信じられないような話が出てきたりして、厚木市は一体何を考えているのかと首を傾げざるをえない時期があった▼平成9年河川法が改正され、河川整備に関して「河川環境の保全と整備」が新たに加わった。今後行う具体的な河川整備計画の策定には、沿川住民や学識経験者、地方自治体の意見を聞くことが定められている▼相模川水系ではこれにもとづいて平成19年「相模川水系河川整備方針」を定め、現在、河川整備計画の検討が進められている。この河川整備においてはいうまでもなく沿川自治体が立案する地域計画との連携・調整を図ることが前提だ▼12月7日、厚木で国土交通省と県の共催による第1回の「相模川ふれあい懇談会」が開かれたが、主催者の中に、厚木市をはじめとする沿川自治体の名前はなかった。実に不思議な気がする。しかも小林市長は5月に神奈川県河川協会の会長に就任したばかりである。「ふれあい懇話会」の集まりだとはいえ主催者の中に市町村を入れないという国や県の姿勢はおかしい。厚木市はオブザーバーで参加するよりむしろ仲間に入れろと積極的に言ってしかるべきなのである▼これまで厚木市は「相模川は県の仕事」というのが伝統的な認識だった。だが改正河川法は沿川自治体の意思を尊重している。つまり地方分権を位置づけているのである。厚木市は傍観者的に県の仕事だと言う前に、市として相模川をどうしたいのか、それを言わなければ話にならない。国も県も厚木市が独自に考えた河川整備の地域計画を期待しているのである。

 日本の長期債務残高(2008・12・1)

 インターネット上に、現在の日本政府の抱える長期債務残高をリアルタイムで表示したサイトがある。11月28日午前10時現在の政府の普通国債残高は720兆7291億円で、国民1人当たりに換算すると576万円になる。リアルタイムだから1秒ごとに142万円借金が増えていくのが分かる▼ISO・経営コンサルタントの鐘ヶ江幸男さんは、日本政府の借金は2009年には900兆円に拡大すると指摘している。GDPの1・8倍である。日本では1997年度末で借金額がGDP水準と同額になり、それ以降増え続けているから10年前に危険水準を超えている。しかし、貿易黒字が続いていたため政府と日本国民の「危機感」は驚くほど低い▼近年の日本政府は税収50兆円、支出80兆円、利息10兆円の赤字を予算を続けている。政府は10年ごとに国債を6分の1づつ返済して、60年後に完済する方式をとっているが、大半を返済せず借り換えているのが現実だ。従って借金900兆円を完済できる見通しはない。小泉政権が06年に打ち出した「基礎的財政収支」を11年度に黒字化するという方針も、景気の失速で目標達成は不可能になった▼それどころか不足する財源確保のため、補正予算では赤字国債の発行増に踏み出さざるをえない状況だ。景気対策とはいえ定額給付金のような愚策をやめ、政策にもっと優先順位をつけ、公務員の数や待遇を大幅に減らし、新規国債を中止して小さな政府を確立するしか道はない。

 定額給付金(2008・11・15)

 麻生政権の看板政策である「定額給付金」が政府・与党の迷走の末、本決まりとなった。1人当たり1万2千円である。巷にはいろんな意見が乱れ飛んでいる▼「2兆円も税金をばらまくなら始めから取るな」「今くれても3年後に消費税を上げるのは朝三暮四と同じ論法、国民を欺く手合いだ」「定額給付金なんか要らない、それよりも消費税を上げないで欲しい」というのが国民の率直な気持だろう▼「給付金が消費に回るのは約3割。6割は貯蓄に回る」という。99年、各家庭に配られた「地域振興券」について、経済企画庁は「消費の押し上げ額は2025億円程度で、GDP=国内総生産の個人消費0・1%程度」と述べ、政府自らも消費刺激効果が薄かったことを認めている。まさに「お年玉程度のバラマキでは景気対策にはならない」のである▼それどころか「市町村の裁量ではないのに、所得制限を自治体に丸投げ」したのである。迷走の尻ぬぐいを自治体に負わせて地方分権とは呆れる。松沢知事が「天下の愚策」と批判したのもうなずける。厚木市は所得制限の判断をどうするのだろうか?▼「2兆円のバラマキは国民にとって一椀の粥にすぎない。それよりは百俵の米を将来を担う人材の育成に役立てるべきである」小泉元首相が自分の都合のいいように使った米百俵の精神だが、この精神の方がはるかにましなのである▼共同通信が行った世論調査でも、給付金を「評価しない」が58・1%に達し、「評価する」の31・4%を大きく上回った。麻生首相は「政局より政策」と言うが、肝心の政策が国民に支持されていないのである。 政権浮揚どころか政権運営の手詰まり感が逆に深まった。

 安心と希望の医療確保ビジョン(2008・11・1)

 日本の医師不足は、産婦人科や小児科で医師は足りない一方、精神科や形成外科などでは医師が増えているという医師の診療科目別の偏在にある▼妊婦のたらい回しによる死亡事故や産科が休止に追い込まれるというのもすべてこうした医師の偏在にある。11月に予定していた厚木市立病院の産科の再開も、一端は採用した医師の退職により振り出しに戻ってしまった▼こうした医師不足に対応するため桝添厚労省は6月、医師養成数の増加を目指す「安心と希望の医療確保ビジョン」を打ち出した。問題はどのように養成し配分するかという点にある。単に医師を増やしたり待遇を改善するだけでは問題は解決しない▼1つは医師の地理的偏在をどのように解消するかである。都道府県別にみた人口10万人当たりの医師数は、最大の京都府と最少の埼玉県では2倍以上の差がある。これまで病院ごとの定員はあったが、自治体の規模や枠組みでの定員は考えられていない▼2つ目は地域別の配分が悪いことである。都市部では民間、公立共に似たような医療機関が地域に密集し、診療科目の重複を招いている。これを都道府県や市町村を基本にした医療計画にもとづき、バランスのとれた配置にすべきである▼3つ目は公立病院の役割だ。公立病院が民間と重複する診療科目の競争を避け、税金がかかっても公立病院でなければなしえない診療科目や病院経営を打ち出すことができれば、地域医療のあり方もかなり変わるのである。

 自己責任では防ぎようのないリスク(2008・10・15)

 最近、筆者の周囲で起きたこと、起きていることを列記してみる。この2カ月ほどの間に、亡くなった4人の中に孤独死の知人がいた。病の果てに誰にも看取られることなく1人淋しく死んでいった。団地などで子や孫など家族のいないお年寄りの孤独死が増えている▼知り合いの70過ぎの老夫婦は夫が寝たきりで、妻は2度も心臓手術を経験、家庭内で酸素ボンベを引きずりながら家事と夫の介護に追われている。いつ倒れても不思議ではないまさに病人による老々介護である▼40過ぎになるのに結婚もしないで派遣労働者だった男性は、親が突然病で倒れ、両親の介護のために会社を退職せざるを得なくなった。失業と介護が同時に彼を襲ったのである。パラサイトしてシングルを楽しんでいる若者が、いつこのような過酷な状態に陥るやも知れないのだ▼「出来ちゃった婚」で所帯を持った知人のフリーターは、経済的基盤が安定しない中で子育てにあえぐ毎日だ。しかも親もフリーターという2世代にわたるワーキングプアである。他方では一流大学院を卒業しても非常勤講師の仕事しかない「大学院卒フリーター」もいる▼いずれも日本の社会の中で起きている現実である。米国の金融恐慌を発端として世界同時不況が進行している。日本の企業と経済が危機にさらされている中で、普通に暮らしたいという国民の願いはドンドン遠のいていく▼しかし、国や自治体も、国民が安心して暮らせるという、明確な答えを用意しているわけではない。誰でもリスクを抱えているが、格差社会が進行する中で、自己責任ではこうしたリスクを防ぎようもない社会が確実に到来しているのである。

 市民との対話の仕方(2008・10・1)

 厚木市は市長の市民対話数は県内19市中最多であるというが、この市長との対話でかねがね思っていることがある▼第1は行政協力団体である自治会長以外にもっと他の団体や市民との対話ができないかという点だ。教育や環境、福祉などの市民運動家、NPO法人の代表との対話である。第2は行政に文句を言う人たち、批判する人たちとの対話が極端に少ない。行政批判者を敬遠せず懐に飛び込むことによって、解決の糸口が見えてくることも多い▼第3は個別・テーマ別対話が少ないということだろう。 ごみ中間処理施設、市立病院、中心市街地の活性化など、厚木市が抱えている問題を課題毎に対話を行う方法だ。事前通告なしのフリートークも結構だが、問題を絞り込んで市民の意見を聞くということが対話を効果的なものにさせる▼第4は各地区1度位の対話で済ませない、全部で17回やるからいいと満足しないことである。自治会であれ他の団体であれ、参加者を入れ替え何度でも行う必要があろう。特に自治基本条例やセーフコミニュティーという基本的な方針を定める場合は、多くの市民の意見をしつこいくらい聞くという姿勢が必要なのである▼第5は市民が参加しやすいように対話を休日や夜に振り向けるということである。職員は給与をいただいて仕事としてやっているが、市民はボランティアである。米国の地方自治が優れているというのは、行政が休日や夜間に地域にでかけ、市民と対話することにある。参考にしていただきたい。

 構造改革論の誤り(2008・9・15)

 都会の人は地方のことをどう考えているのだろうか。構造改革で公共事業の補助金や交付税が大幅に削減された結果、地方は雇用・人口減などの経済的疲弊に陥ったばかりでなく、公共サービスの縮小や質の低下も招き、過疎地では、公立病院の廃止や医師の減少、公立学校の統廃合で住民の不安が高まっている▼構造改革論者は、地方に住む農林漁業や中小企業で働く人々は都市の足を引っ張る。雇用がない、病院も学校もないというなら都会に移ればいいではないかと主張するが、人間はそう簡単に移動できるわけではない。構造改革論の誤りは、人間が自由に選択出来ない分野についても選択の自由と自己責任を当てはめた点にある▼人間は生まれる場所や親を選ぶことはできない。家業を継ぐことを当然と考える人や農林漁業が好きだという人もいる。そうした人たちは生活の本拠や仕事は自由な選択の結果というよりは、それを宿命として引き受け、それぞれの地域で共同体と生業を守ってきたのである▼都会の収益を地方に再配分するのはけしからんという論調も、地方が綺麗な空気や水、豊かな緑を都会の人たちに供給してきたことを考えると、都会も地方も持ちつ持たれつなのである。地方に自助努力が必要なのは分かるが、今日地方の人が求めているのは、単なるたかりや利益誘導ではない。地方にいても子育てが出来、病気や老後の不安がなく「つつましく生きる」という都会の人と同じ平等主義なのである▼今、政治はリスクの個人化をリスクの社会化にどう反転させていくかが問われている。都市と地方が連携して農産物の生産と供給、環境保全、災害や医療、介護についての新たな相互扶助システムをどう創り出していくのか。総裁選たけなわだが候補者からこうした疑問に対する明快な答えは聞こえてこない。

 リスクの個人化が進行している(2008・9・1)

 今、日本社会では個人のリスクと呼ぶべき4つの現象が進行している。突然の失職や収入の減少、介護、大きな災害などに直面して安定した生活を維持できなくなる人が増えたのである▼1つは日本的セーフティネットの崩壊によるリスクだ。護送船団方式の崩壊、経済のグローバル化や財政緊縮により、雇用が不安定化し、地域経済や中小企業が脆弱になっている。年金もあてにならなくなってきた。2つ目は家族機能の低下が生み出すリスクである。かつてない少子化と高齢化の進行は、人口減少社会ばかりでなく人生晩年期のリスクを著しく高めている▼3つ目が民のモラルハザードである。市場経済で規制が弱まり利益優先の行動が黙認されると、モラルハザードが民間にも及び、国民の食生活や住環境が危機にさらされるリスクである。4つ目が自然災害や環境破壊のリスクだ。温暖化など地球環境の変動にともなう台風や集中豪雨、大地震などの災害リスクで、こうしたリスクは個人のレベルでは防ぎようがない▼リスクの個人化をリスクの社会化にどう反転させるかが政治の課題である。政治は冨の再分配が基本だが、構造改革では、強者への再分配は「改革」、弱者へは「バラマキ」といわれた。国民は自己責任も結果の格差も承知している。だが、市場経済一辺倒を望んでいるわけではない。単なる地方や平等への回帰ではない「競争と連帯」をどう組み合わせ再分配していくか。総選挙を前に各政党はマニフェストでこれに答えるべきだろう。

 分権改革は官僚の嘘から見抜こう(2008・8・15)

 現在、日本には国家公務員が95万人、地方公務員が300万人で、国民の30人に1人が公務員である▼アメリカの社会学者ロバート・K・マートンは、官僚機構は規則万能、責任回避、秘密主義、画一主義、権威主義、自己保身、形式主義、前例主義、セクショナリズムに陥りやすいと指摘している。中央集権によって形成された日本の官僚機構は、まさにマートンの指摘通りの弊害を生み出した▼地方分権の時代に入って情報公開は進みつつあるものの、官僚お得意の形式主義は今も変わらないし、これまで上位法や中央指導にどっぷりとつかってきた地方官僚は、自ら考えるという分権の精神が希薄である▼この中央集権は、日本人の精神構造までもゆがんだものにしてしまった。補助金と陳情行政、族議員と利益代表型政治、官僚支配と癒着の構造を指摘するまでもないが、一方で国民の自立心と責任感が消え、甘え、たかり、諦め、無関心が蔓延してしまったのである▼日本人の中には相変わらず「お上のすることは間違いない」という意識があるし、「お上が何とかしてくれる」という他力本願も根強い。しかし官僚の不祥事や不作為により最近では「何を言っても変わらない」という諦めの意識が定着してしまった▼分権改革はまず、官僚に騙されない、官僚の嘘を見抜くところから始めなければならないのに、国民の意識はまだまだ低いのである。

 自助と共助(2008・8・1)

 自分が苦しいのは他人のせいだとして、何のかかわりもない人たちを殺傷する事件が相次いでいる。問題を起こす若者たちを見ていると、そこには共通した意識が見える▼自分が苦しいのは親や教師、社会に責任があるとして人のせいにする人間だ。誰もが自分を認めてくれないという思いが、世の中のすべてに価値観を見い出せず、フラストレーションを溜め込んで、そのはけ口が弱い者や他人に向けられるのである▼どうしてこういう若者たちが増えてしまったのだろうか。家庭教育の崩壊や学校教育の知識偏重が指摘されて久しいが、戦後教育の間違いは平等を強調するあまり、機会の平等だけでなく結果まで同じにしようとしたところにあった。その結果、指示待ち人間、責任回避型人間、自己中心的人間、不和雷同型人間、虚無的人間を生み出すことにつながった▼世の中を生きていくには、自分で生きていく力=自助と、他人を助け、他人に助けられる力=共助が必要である。弁護士の堀田力さんは、これを「人間力」と言っている。「ゆとり教育」がやっと地に着いてきたというのに、政府は学力低下を理由にもとの詰め込み教育に戻そうとしているが、自分の頭で考え、自分で目標を実現できる人間を育てるには、知識偏重の詰め込み教育ではとても身につかない▼知識よりも感性なのである。レイチェル・カーソンは言っている。「知ることは感じることの半分も重要ではない」と。

 行革は公務員改革(2008・7・15)

 厚木市の第3次行政改革大綱第2期実施計画を拝見した。「小さくて効率的な市役所」の実現を目指して、事務事業の再編・整理、廃止・統合や民間委託、職員定数の削減などに取り組んでいるが、総じて手ぬるい感じがする▼市では職員数を平成22年度までにさらに44人減らして2079人にするというが、数値目標の低さ、そして一方では再任用職員を増やすというやり方では、定数削減にどこまで迫れるか疑問だ。民間委託についても天下りで構成する財団法人や指定管理者への業務委託などには問題があろう▼本来、役所というところは市民の税金を住民サービスに使うための事務局であるにすぎない。それが事務事業の細分化と肥大化を理由に、職員をどんどん増やし事務局員でなければできなくしてしまったのが現在の役所である▼「市役所から住民へ」という地域内分権が、現在の改革の大きな流れである。これまで直接役所がやってきた住民サービスを、地域住民や市民組織、NPO、民間が行うというやり方だ。実はどこの自治体でもこれが一番遅れている。施設管理や事務手続き、計画ばかりでなく、工事などの施工分野についても住民が担うという自治体が増えてきた▲これを阻む最大の要因が公務員であろう。法律や既得権益で守られている公務員を改革しないかぎり「地域内分権」は進まない。行革は公務員改革でもあるのだ。

 悪魔のささやき(2008・7・1)

 人間は心の中では、何事も不可能なことはない。心の中では自分は絶対的な存在にもなれる。それだけ創造性に富んでいるわけだが、それを「心の闇」ということもできる。最近、それを現実社会で試そうとする事件が目立っている▼そこには社会に対する復讐心や大きな事件を起して世間を見返してやろうという妄想、誤った英雄主義、そして己の人生に絶望して終止符を打つ場合、他人を巻き込む殺人願望にかられるという異常な心理が見え隠れする▼作家の加賀乙彦さんは、「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にあるときに、犯罪を犯したり自殺しようとしたりする。その実行への後押しをするのが『自分ではない者の意志』のような力、すなわち悪魔のささやきである」と指摘している▼人生とは「「如意(意の如くなる)」の状態と「不如意(意の如くならない)」の状態の連続だ。芭蕉は「奥の細道」の旅で、不如意の状態を経験しながら、自然のあり方である「あるがままでいい」と思う知恵を育んで旅をしたという。「蚤虱馬の尿する枕もと」蚤や虱、馬の尿にも慌てず動ぜず、余裕すらある芭蕉の心がうかがい知れる句ではないか▼不如意になっても「キレル」ことはないし、悪魔のささやきに耳を貸すこともない。自然や世の中が移り変わるのは当然で、人間もその時に考え方や見方を変えればいいのである。「自分は自分で自分らしく生きている」そう思うと不思議と「心の闇」も晴れてくる。

 議会基本条例(2008・6・15)

 自治体における自治基本条例の制定とあいまって、議会基本条例を制定する動きが県内の議会でも出てきている。議会運営の基本的事項を定めるほか、議会改革を継続的に進めるのがねらいだ▲憲法は議会と長に対して、互いに住民を代表する機関として、民意の反映を競い合う「二元代表制」の関係を制度的に保証している。ところが行政の市民参加や情報公開、説明責任などの改革が進む中で、分権改革が一番遅れているのが公務員と議会であろう▲議会には政策立案と行政監視機能があると同時に、行政事務の立案、執行、評価における論点や争点を発見し公開する「論点開示」能力、参考人制度や公聴会制度、請願・陳情者の意見を聞く住民参加の導入も求められている▲インターネットやCATVなどによる会議の公開、議案に対する議員の賛否の公表、議会活動を報告し住民の意見を聞く「議会報告会」などを開いて説明責任を果たすことも必要だ▲議会基本条例は06年、栗山町議会が制定したのを皮切りに全国17の県・市町議会が制定している。県内では湯河原町議会が07年4月に施行したのみで、現在、川崎市議会と県議会が制定に向け検討を開始した▲厚木市は今年から自治基本条例の制定に取り組むが、二元代表制を担う議会が旧態依然では、とても分権改革を推進することはできない。議会の奮起をのぞみたい。

 命の大切さ(2008・6・1)

 「自分のいのちは大切ですか」県教育委員会が昨年3月県内の公立学校の児童・生徒を対象に実施したアンケートの内容がまとまった▼「とても大切」と答えた小1は91・7%、小388・3%、小576・8%、中2は51・4%と年齢を重ねるごとに肯定感が減少、「あまり大切でない」「大切でない」の2つを合わせると、小1の2・3%に対して中2は10・6%を占めた▼一方、「他の人のいのちは大切ですか」の設問では、「とても大切」が小1で89・1%、中2で64%、「あまり大切でない」「大切でない」の合計は小3で0・9%、中2では3・2%だった▼高学年になるほど、自分と他人の命に対して肯定的に考える割合が減っていることに驚かされるが、子どもたちに「命の大切さ」をどう教えればいいのか、親や教師でさえ戸惑うことがあるだろう▼交通事故や心臓病などの重い病気で担ぎ込まれた一人の患者の命を助けるため、救急隊員、内科医、外科医、検査技師、麻酔医、看護師、薬剤師、事務職員、コーディネーター、家族、友達、同僚など数え切れない人たちが、寝食を忘れて奔走する。あのときほど人間の命は「自力」ではなく「他力」によって支えられているということを自覚するときはない▼一人の人間の命を救うには、とてつもない労力と時間、気持ちが集約されてなしとげられるのだ。それを思うと簡単に人を殺したり自殺することはできない。命の大切さは命を救うことでより理解できる。

 税金の無駄使い(2008・5・15)

 厚木市下荻野の荻野川に「山中橋」が建設された。農業基盤整備事業を目的に平成19、20年度の継続事業として市が整備したもので、総工事費は1億1千300万円。延長20メートル、幅員5・2メートルの立派な橋だ▼老朽化により撤去された橋梁の架け替えを行い、農業関係車輌や大型機械の通行を可能にして、農業生産性の向上を図るというのが目的だが、実際にどの程度の車輌がこの橋を通行するのだろうか▼同地区の荻野川の西は、水田地帯が広がり、その向こうはゴルフ場だ。だが、何10件という多くの農業車輌が通る水田地帯とはとても思えない。住宅がないから生活道路として利用する人もいないだろう▼山中橋からすぐ上流には橋があり、さらにその上流にもまた橋がある。農業基盤整備事業とはいえ、交通量や近辺の橋事情から考えると、率直にいって山中橋を架ける必要があるのだろうかという疑問が湧いてくる▼数年前、市は、西山(高取山)の市道を採石業者に便宜を図るため、ハイカーなどの通行人がいるにもかかわらず「通行する人がいない」といって廃道にし、付け替えてしまった。こちらの山中橋は通行量が極めて少ないと予測されるのに、橋を架けたのである▼厚木市は農業者にはあたたかくハイカーには冷たいのかと思いたくなるが、正にご都合主義としかいいようがない。これは税金の無駄使いだろう。

 「住み続けたい」は住民の個別的事情(2008・5・1)

 厚木市の市民意識調査で、市民の「住み続けたい」という定住意向が72・5%あることが分かった。定住意向は調査のたびに少しずつ下がってきているが、以前として7割を越える高率だ▼これは、家や土地があり、住み慣れた場所で愛着がある、生まれ育ったところという住民の個別的事情によるもので、通勤・通学に便利、保健福祉施設の充実、教育環境の良さなどを挙げる人は5%にも満たなかった。つまり他の自治体との比較や住民サービスの善し悪しを考えた上での結果ではないのである▼チャールズ・チーボの「足による投票」という理論がある。それは「個々の住民は自分にとってもっとも好ましい公共サービスを提供してくれる自治体を、自由に選択できる」という考えだ。住民は国家を自由に選ぶことは出来ないが、教育や医療、福祉の水準によって住む自治体を自由に選択できるというのである▼この理論を実践すると、自己の選好を満たしてくれる自治体には住民が移動し、不満を持つ自治体からは住民が離れていくことになる。だが、現実はチーボの理論のようには進まない。それは住民の個別的事情があるためで、これが「足による投票」を鈍らせている▼地方分権の時代は、住民サービスの善し悪しがストレートに定住意向のレベルに跳ね返ってくる時代であろう。住民の個別意識から出た高い定住意向をいいことに胡座をかいているようでは、満足のいくまちづくりはできない。

 「地域内分権」が分からないお役所(2008・4・15)

 民間企業やNPOへの委託、指定管理者制度の導入など行政のアウトソーシングが進む傾向にある。資本主義はこれまで市場の失敗や採算に合わないサービスを役所という公的部門に委ねてきた▼しかし、採算性を度外視してきたため行政の肥大化や膨張を招いた。国や自治体という政府だけが公共性を担える主体と考え、結果として公共領域は「官」独占となり、それにもとづく福祉国家論が大きな政府につながったのである▼地方分権時代の公共経営は、独占ではなく競争選択的な考えに立つものだろう。夕張市の財政破綻や国の膨大な借金を見ても分かるように、政府や地方自治体の失敗より市場の失敗のほうがまだましなのである▼アウトソーシングの今日的な考えは、従来の官の代行として民間委託を進めるのではなく、公的な領域についても可能な限り民間開放を進めるというやり方で、競争原理や保証制度の導入により、官に比べてより迅速で効率的に、行政サービスの質的向上が可能となるのである▼だが、現実には小手先だけのアウトソーシングに終わっているところが多い。地方主権の時代とは、アウトソーシングもそうだが、行政サービスや税金の使い方を住民自らが考え、役人に代わって執行・管理するという「地域内分権」にまで高めることで、こうした考えを役所は基本的に分かっていない。

 職員のやる気は管理職の能力と対応次第(2008・4・1)

 女房役の副市長、総務部長、市政企画部長など主要幹部級を自らの意思で任命するなど、当選2年目にして小林市長はやっと庁内体制を整えた。残された課題は仕事のしやすい機構になっていない市役所組織を、新総合計画の策定に合わせてどうスクラップ・アンド・ビルドするかである▼昔から役所の職員で、やる気のある者は全体の2〜3割といわれてきた。1日を大過なく、先例踏襲、事なかれ主義、問題意識の低さ、勉強不足などはやる気のない者の典型だ。一方では幹部との飲み会や人脈ばかり気にして、要領のよい者が出世する。最近は出世すると責任を持たされるので出世を望まない職員もいるという▼どうしたら職員にやる気を起こさせ、モチベーションを高めることが出来るか。市長を含めた幹部のリーダーシップが問われる。怒ってばかりいる、失敗した時の責任だけ追及される、トップの考えがしょっちゅう変わる、法令や条例主義にこだわって創意工夫が見られない。この10年、厚木市はこうした体制に陥ってはいなかったろうか▼自治法を基本から勉強し直すなどの職員研修は当然だが、自由に物がいえる雰囲気をどう作るか、管理職がやる気のある人間の重石になっていないか、部下の仕事の内容を正当に評価できるかなど、実は職員のやる気を起こさせる大半は、管理職の能力と対応いかんにかかっているのである。

 入るをはかって出るを制す(2008・3・15)

 財政の原則は「出るをはかって入るを制す」といわれる。すなわち歳出に応じて税の負担を決めるというやり方で、国の財政運営はこの原則に基づいている▼しかし、地方自治体の歳入は地方税法の枠内での運用や交付税、国庫支出金の配分方法、起債の許可制など、さまざまな制約があるから、これとは逆の「入るをはかって出るを制す」ことにならざるをえない。すなわち、歳入に応じて歳出を決めざるをえないのである。これは自主財源比率の低い自治体ほどそうなっている▼バブル崩壊以降、勤労者のほとんどは所得が伸びず、家計も「入るをはかって出るを制す」という厳しい生活を強いられてきた。 ところが役人の世界だけは「出るをはかって入るを制す」という財政の大原則を貫いている▼その典型が役人の人件費で、歳入のうちまず自分たちの給与や賞与、退職金などの取り分を先に確保して、残りをそれ以外の歳出に振り分けているのである。人件費率が上がっても自治体の財政破綻以外に、「歳入が少なくなったから人件費を減らします」という話は聞いたことがない▼「入るをはかって出るを制す」という財政運営は、市民にも役人にも厳しいはずだが、役人意識は驚くほど低い。大阪市のように役人天国といわれないよう、治外法権のないところも見せるべきだろう。

 「元気の出る厚木らしさ」の創出とは(2008・3・1)

 「元気の出る厚木を再生」するための、原理原則というものを考えてみよう▼第1はすべての人々に人権が保障された地域を創出すること。いわゆる安心安全でバリアフリーのまちづくりを進めることである。第2は人々がその地域の仕事で生活できるまちを再構築することだ。企業や工場を誘致したものの、企業だけが繁栄して地域が崩壊したのではそれは再生とはいわない▼第3は自然と共生しうる地域に再生することである。「大山を仰ぎ相模川にのぞむ郷土」と市民憲章にあるように、かつての厚木は川と山が人々の生活と一体化していた。この歴史を振り返り資源を修復して再生を図ることだろう▼第4は住民自身の手による地域の再生である。地域再生の主役をつとめなければならないのは霞ヶ関や市町村ではなく住民自身であるというところに、地域が直面している厳しさがある。歴史や自然、産業や文化など多様な資源の中で、「元気の出る厚木らしさ」を創出するため何を特化していくかを住民自身が考えなければならない▼厚木市の中心市街地を活性化するために商店主や住民、学識者で立ち上げた「あつぎ市街地にぎわい懇話会」のような主体を、テーマを掲げてあちこちで立ち上げることが必要だ。まちづくりは住民自らが行うのが原則である。

 我が道を行く(2008・2・15)

 個人や企業間で格差の拡大が叫ばれて久しいが、格差は自治体や地域の間でも確実に広がりつつある。どこの自治体でも夕張のような負け組みにはなりたくないだろう▼新潟大学法学部の田村秀教授が、『自治体格差が国を滅ぼす』(集英社)と警告、著書の中で自治体生き残りの10カ条を提言、「地域の素材で勝負すること」「国頼み、都道府県頼みから脱却すること」「住民自治の仕組みを充実させること」などを説いている▼70年代以降、日本の地方は国の全国総合開発計画やテクノポリス構想、リゾート構想に飛びつき、多くの自治体が財政破綻を招いた。今日、指摘されるシャッター通りも、大店法による規制緩和策にその原因が求められる▼かつての厚木市も、国からテレトピア、インテリジェントシティ、テレコムタウン、ハイビジョンシティ構想などモデル都市の指定を受けながら、その役割を生かせず、キャプテンシステムや厚木テレコムが破綻した▼小林市長は「元気の出る厚木の再生」を公約に掲げている。それには国や県に頼らず、まず地域の素材で勝負することだろう。「都市再生法」の活用にのみ目が行ったり「地域再生計画」や「構造改革特区」に安易に飛びつかないことも肝要だ。地域再生の視点は、自治の原則にも基づいた「我が道を行く」方法しかないのである。

 自治基本条例(2008・2・1)

 小林市長が年頭会見で「自治基本条例」の制定に取り組むと発表した。これまでポイ捨て禁止を定めた「まちづくり条例」などでお茶を濁してきた厚木市は、自治基本条例の制定には極めて消極的であった。それが市長の交代で実現する▼自治基本条例は自治体運営や財政運営のルールを条例化し透明化を図るのがねらいである。自治体にとっては一般条例の制定や計画策定の指針となる基本条例である。2003年4月、東京都杉並区が日本で初めて自治基本条例を制定、北海道ニセコ町のまちづくり基本条例とあわせ、自治体版憲法のお手本となった▼自治基本条例を定めると、1自治運営の仕組みが分かりやすくなる。2行財政運営の根拠が明確になる。3住民参画のルールができるなど、全体として住民自治のレベルアップが期待されるのが大きなメリットだ▼問題は条例にどれだけ改革的な要素を盛り込むことができるかであろう。 首長の多選禁止や住民投票の制度化、未成年や外国籍市民などの意見をどう行政に反映する仕組みを作るかなどが課題となろう▼地方主権の時代は、自己決定、自己責任で地域を運営する時代である。自治基本条例の制定は、自治体の自己統制能力を高めることにつながるが、それはひとえに条例の中味如何にかかっている。

 自治体の地域産業政策(2008・1・15)

 厚木を元気にする政策とは何か。行政も民間もその答えを知りたがっているが、これといった妙案はない。だが、その基本となる戦略はいくつかは考えられる▼第1の戦略は地域に密着した産業政策を描き出すことである。それは従来、行政がとってきた補助金や制度融資、税金の減免措置といったやり方ではなく、単純に構造改革特区や都市再生法に飛びつくことでもない▼重要なのは、他の地域に対して比較優位をもつ産業分野に焦点を当てることである。大企業や大規模工場だけに焦点を当てるのでなく、小規模であっても優れた生産技術や製品開発を押し進めている人や企業、情報や技術、人材が集約された分野に注目し、それを地域の産業基盤としてとらえることである▼第2はグローバルな地域経営を考えることだ。地域内で事業展開をしている中小企業が、地域を越えて発展する方法や外国と交流を深めながらグローバルに事業展開する支援策を考えることである▼第3はモノではなくヒトに投資することである。市の職員だけでなく新しい人材を育成したり、すぐれた能力を持つ人材に投資することで、起業や地域産業の活性化につなげることである。厚木市は新総合計画の策定と合わせて自治体の「地域産業政策」も同時に打ち立てるべきであろう。

 元気な厚木の再生(2008・1・1)

 小林市長が「元気な厚木の再生」を掲げて市長に就任してから間もなく1年を迎える。元気な厚木をどう再生していくのか、今後、行政と市民が知恵を出し合った様々な仕掛けが待たれるだろう▼これまでまちづくりはほとんど行政の独壇場であった。役所が作る政策が唯一の政策となり、その実施については官が独占的に行い、成果についてもそれを外部からチェックする機能が働かなかったのである▼しかも、その内容は、自治体が市民ニーズに合った大胆で独自のプランをまとめ上げるというよりは、国が打ち出すまちづくりや地域再生の指定に安易に乗るという方法だったり、民間に依頼した調査結果をまとめるだけで、施策の具現化を伴ったものではなかったのである▼21世紀は地方主権にもとづいた新しい「都市のかたち」をどう創出していくかの時代であろう。そのキーワードは自主自立、自己責任、自由と競争、顧客主義、住民参加とネットワークである▼もはや行政任せでは駄目で、行政に対しても市場メカニズムを機能させなければならない。政策の立案、実施、評価のプロセスに競争を導入すべきなのである▼厚木市は平成20年度に新総合計画を策定する。元気な厚木の再生をどう盛り込むのか。お役所レポートと言われない新しい「都市のかたち」をイメージするものを期待したい。

2008年賀状