風見鶏

2011.1.1〜2011.12.1

 大阪都構想と市町村(2011.12.1) 

 大坂のダブル選挙を制した大坂維新の会の「大坂都構想」が注目を集めている。大坂都構想とは、大阪府と政令指定都市の大阪、堺両市を解体し、広域行政を担う大坂都と、基礎自治体となる特別行政区に再編する考えだ▼府と市が別々に行っている都市開発やインフラ整備などを都に集約し、府市がそれぞれ投資する「二重行政」の解消をめざすもので、特別自治区には中核市並みの権限を与えるという▼林横浜市長は「指定市の分割は集権的な発想」、阿部川崎市長も「都制度になれば公選の区長や区議が増え、人件費の負担が増える」と反対、黒岩知事も「政令市とは良い関係で同じ方向で役割分担している。神奈川には都構想は必要ない」と否定的だ▼何よりも大坂都構想は、地方分権を推進する基礎自治体の財政力や行政能力の向上を目的とした地方分権改革に合致するかという問題がある。基礎自治体が増えて行政コストが高くなり、議員報酬が増えるようでは困るし、行政運営がトップダウン形式に陥るのも問題だ▼二重行政の解消はいうまでもない。政令市の県会(府会)議員などは殆どの市民が不要だと思っている。国を巻き込んだ大都市制度の議論が高まるのは歓迎だが、地方分権の推進という立場から考えると、一般市町村との関係もセットにした議論にしていかないと、片手落ちになる。

 1丁目1番地(2011.11.1)

 1丁目1番地という言葉がある。昭和32年に始まったNHKラジオドラマ「1丁目1番地」のことではない。民主党政権が高々と掲げた改革の1丁目1番地「地域主権改革」のことである▼その後、改革はどうなったのだろうか。過日、前総務相の片山博さんが、「官僚組織の要である内閣官房副長官に現役次官を起用した野田内閣は、分権お休みシフト。あまり熱心ではない」と批判していた▼民主党がマニフェストに掲げた政策は、官僚と一体化した自民党政権との対抗軸として、官僚組織を介さない仕組みをつくりあげることにあった。それが街づくりや福祉、教育などを行政だけに頼らず民間の力で担っていこうという新しい公共であり、地域主権改革である▼目玉といわれた補助金の一括交付金化はまだ目標の半分。国の出先機関の地方移管については、省庁の抵抗にあって全く進んでいない。「新しい公共」にいたっては、NPO法人への寄付優遇税制の拡大が導入されただけである▼新しい公共の拡大は、市民やNPOの活動を支援することで、地域のきずなを再生したり、官の肥大化を抑制する狙いがある。地方で導入されている「市民協働事業」はまさにそれで、国がこれをサポートし、いかに拡大するかが地方主権のバロメーターとなろう。厚木市森の里の住民が取り組んだ「コミュニティバス事業」なども、地域における新しい公共の形といえる▼地域主権改革は民主党政権の目玉だった。しかし野田政権になってから、改革の「1丁目1番地」という声は聞かない。野田さん、地域主権はいま何丁目何番地ですか?

 改革派官僚(2011.10.1)

 改革派官僚といわれた経産省大臣官房付の古賀茂明氏が退職した。著書『日本中枢の崩壊』(講談社)は、現役官僚の立場から官僚による政治支配の実態、狡猾に仕組まれた天下りシステムなどを我々国民の前にさらけ出し、ベストセラーとなった▼同著では3月11日に発生した東日本大震災にともなう福島第一原発事故について、経済産業省、原子力安全・保安院、東京電力の問題を解説。また、同省の官僚として各地方の中小企業を視察した経験から、官僚独裁体制がもたらしている経済不況の本質的問題を説き、警鐘を鳴らした▼古賀氏は、自公政権時代から一貫して官僚機構の改革を訴えてきたが、民主党政権になってから仕事を与えられなくなり、今年8月には経産省幹部から退職するよう打診されていた。官僚の問題がこれほど取り上げられた例は過去に聞いたことがない。それは古賀氏が改革の象徴的存在になっていたからである▼古賀氏の主張は論理的で実現性も高い。『日本中枢の崩壊』を読むと、霞ヶ関以外の人なら誰でも正論だと思うだろう。それだけに古賀氏の処遇が日本の官僚機構の改革、公務員制度改革の試金石になると注目されていたのである。民主党政権は古賀氏を登用するどころか、官僚に隷属してしまった。国家公務員の給与20%削減はどこにいってしまったのか▼『エコノミスト』誌は「有益な官僚」と題したコラムで、古賀氏を事務次官にすべきと提案したが、民主党にはそんな勇気も覚悟もなかった。この国を著しく改革することのできる数少ない人物を失う日本人は、不幸としかいいようがない。

 柳の下に三匹(2011.9.1)

 新総理に就任した野田氏はマニフェストについて、「子ども手当の理念は堅持しつつも大震災が起きたため優先順位をつける」と発言、復興増税や消費税の値上げに意欲を示している▼先頃、民主党は子ども手当に所得制限を導入、3党合意により来年度から収入960万円程度とした。30代男性の平均年収が400万円台といわれる時代に常識からいって800万円や960万円世帯に国の補助が必要だろうか▼生活保護費が年金の受給額や働いている人の最低賃金よりも高いと指摘されているのに、年金の制度改革は進まず、景気を浮揚して失業者を減らすという戦略は見えて来ない。霞ヶ関の公務員改革は遅々として進まず、改革や経済成長を促す政策を遅らせているのである▼民主党は日本の政治の閉塞状況を「政治主導」で変えるといい、政権交代を実現させた。だが、鳩山・菅と続く民主党政権が迷走し、国民の期待外れに終わったことは周知の通りである。改革の優先順位は公務員改革、議員定数の削減、そしてマニフェストの見直しだろう▼ 政府と霞ヶ関の常識や目線が国民とはまったくズレている中にあって、民主党は野田政権をスタートさせた。野田氏は地味で派手さはなく、発言も控えめでブレがないといわれる。「どじょうが金魚の真似をしても仕方がない。泥くさく政治を前進させる」という野田氏に、日本を沈没させない覚悟はあるのだろうか。それにしても柳の下に三匹目とは恐れ入る。   

 放射性物質(2011.8.1)

 放射性物質が人間の手に負えないのは、何万年が経過しても消えないということである。ウラン235の半減期は約7億年だ。プルトニウムはもともと自然界には存在しない。ダイオキシンと並び、人類が創り出してしまった最悪の物質の一つといわれている▼この放射能は100キロ圏を越えても飛んでくる。厄介なのは汚染された物質とともに市場を介してどこにでも移動することである。私たちは今後、何十年か何百年か、放射能と共存して暮らすことになるかもしれない▼「セシウム○○ベクレル」と表示された食料品が店頭に並び、天気予報からは毎日の放射能濃度が流れてくるといった具合だ。原発推進派も反対派も、放射能とともに生きなければならないのである▼この放射能問題は国内の原発すべてを停止しても解決しない。危険な使用済み核燃料や福島原発で汚染された大量の汚染水を、どこにどう閉じこめておくのか、その答えすら分かっていないからである▼私たちはとんでもない時代に生きることになってしまった。こんな時代によくも巡り合わせたものだと溜息ばかりが出てくるが、一つだけ分かったことは電力会社も政府も当てにならないということである。頼るところがないといってもいいのだ▼「原発でこの地球に別れをつげることになるのでしょうか?」事態はものすごく深刻であるのに、電力会社にも政府にも覚悟が感じられない。 

 厚木市議選(2011.7.1)

 議員は真面目に議会に出ているのだろうか。遅刻や早退、居眠りなどはしていないか。自分の議会報告をしているのを見たことがない。選挙の時だけビラをつくり駅頭に立っている、自分を目立たせるパフォーマンスには熱心だ\と有権者の評価は手厳しい▼議会に対しては理事者の提出議案をいつも丸飲みで無修正。議会人事を一年交代でたらい回しにしている。政策条例の提案がなく出てくるのは意見書だけ。定数や報酬、委員会のインターネット中継、慣例や申し合わせの打破など議会改革については極めて消極的だ▼二元代表制の一翼を担う議会の存在意義が薄れてきていると同時に議員個人の評価や信頼が驚くほど低いのである。行政の市民参加や情報公開、説明責任などの改革が進む中で、分権改革が遅れているのが議会であろう。何を主張しどのような政治活動をしているのかというのが殆ど見えてこないのである▼先頃厚木市議会が議会の在り方に関する検討についての議長諮問事項を議会運営委員会が答申したが、「請願者に意見を述べる機会を設ける」以外は、議会改革とはほど遠いものであった。議会には監視機能ばかりでなく政策立案や論点開示能力、議会報告会、参考人や公聴会制度、請願・陳情者の意見を聞く住民参加の導入も求められている▼議員の質と制度の両方が問われるのが議会改革だ。まずは議員の質を高める行動から始めよう。7月10日は厚木市議選の投票日。

 乾いた慈より湿った悲(2011.6.1)

 東日本大震災以降、日本中の耳目が1つの方向に集中している。それは「がんばれ日本」という言葉だ。過日、新聞を読んでいたら「頑張れって言わないで」という投書にお目にかかった。震災に遭ってもう充分頑張っているのに、これ以上どう頑張れというんだというのである。後日、これに対する反論があって、「頑張れは仲間のあかし、心からの励ましの言葉だから受け取ってほしい」というものだった▼いずれの気持ちも分かる。だが、頑張れ一辺倒ではなかなか気持ちの整理がつかない。いくら言葉をかけられても無言の言葉しか返せない人たちもいる。家を流され家族を失い、途方に暮れている人たちに、いくら頑張ってといっても、亡くなった人や家が戻って来るわけではない。そんな時に「頑張って」と声をかけられても、空虚さ以外に何の意味も持たない▼むしろ「大変でしたね、お辛かったでしょう」と手を握り、涙を流してあげる方が、どれだけ気持ちが安らぐかもしれない。天皇陛下のお言葉がそうであった。必要なのは「頑張れ」という励ましの言葉ではなく、慰めの言葉ではないだろうか▼頑張れという励ましの言葉は、右肩上がりできた戦後の高度成長にふさわしい言葉だった。しかし、格差社会が進行し、大災害に遭い、自殺者が3万人を越す時代に、「頑張れ」という言葉がどれほどの効果を持つだろうか。「乾いた慈より湿った悲」の方が、人々を安心感に導いてくれる。

 現場主義(2011.5.1)

 東日本大震災で沿岸部が甚大な被害を受け、東京電力の原発事故で市民生活の不安が続いている福島県南相馬市の桜井勝延市長が、米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」の1人に選ばれた。歯に衣着せぬ物言いで政府や東電を批判し、ズバリ言う姿勢が世界の人々の評価を得たのである▼桜井市長はマスコミのインタビューに答えて「政府は現場感覚に乏しい」と発言していた。枝野官房長官が被災地を見て桜井市長に「こんなにひどいとは思わなかった」という発言をしたのは、それまでの現場無視の感覚から出たものだろう▼菅首相が被災地を視察したとき、声をかけられずに無視された人たちが怒りの声を上げて抗議する姿がテレビに映し出されたが、これなども現場の一部だけを見て済ませようという姿勢の現れだ▼現場感覚、現場主義とは、企業や組織が現場を重視する姿勢で、改革には不可欠との認識で罷り通っているが、実際には単なる美辞麗句で行動が伴わないケースがほとんどだという。現場主義とは偉い人がただ一面的に現場を見ることではない。現場の隅々まで見て歩き、現場の中で臨機応変に考えていくことである▼役所や本社にいて考えるだけでは問題の核心や本質は見えてこない。その意味で現場主義は間違いなく問題発見能力と問題解決能力が問われる。大震災はさまざまな事柄を突いてくる。桜井市長が言っていた。「親方日の丸では世の中は変わらない」と。

 慈悲の心(2011.4.1)

 募金活動に走る人、支援物資や医薬品を送る人、被災地に救援にかけつける人、避難所でボランティアをする人、節電に心掛ける人、買い占めに走らない人、車を降りてできるだけ徒歩や自転車を利用する人\3月11日の東日本巨大地震発生以来、日本全国で「頑張れニッポン」のスローガンのもとに、助け合いの輪が広まっている▼家族や家を失い、仕事も失い、放射能の不安におののき、寒さの中で食べ物や住む所もままならない被災者の姿を見るにつけ、単なる同情だけでなく、自分も人間として何かをしなくてはという強い感情が日本人を奮い立たせているのである▼そして一方では病気や寝たきりの人、お年寄り、幼い子どもたちなどの社会的弱者は、不安と恐ろしさに涙を流し、頑張れとはとても口には出せないが、「ああ」と深い溜息をついて嘆き悲しむことで、被災者の気持ちを受け止めただひたすら祈るしかない人たちもいる▼仏教に「慈悲」という言葉がある。「慈」は頑張れという励ましの意で、「悲」は文字通りの慰めだ。悲しんでいる人たちに「気持ちを取り直して頑張りなさい」というのが慈で、黙って一緒に涙を流すことで、その人の心の重荷を自分の方に引き受けようとするのが悲である▼日本人は昔からこの慈悲の心をもって生きてきた。これからも希望を持ち、慌てふためかず、絶望せず、諦めず、「慈悲の心」でもってこの災禍を乗り越えていくしかないのだと思う。

 市民協働とは(2011.3.1)

 昨今、まちづくりの手法として注目されているのが「協働」という概念だ。「協働」を「共同」と勘違いする市民も少なくないので、辞書で調べてみると、「共同」は2人以上の者が力を合わせること、「協働」は協力して働くこととあった▼協働とは英語でいうパートナーシップ、コラボレーションで、そこには主体間の対等・平等な関係がある。しかし、多様な公共サービスに住民や行政協力団体、NPOがかかわるということは、行政自身が変わることを前提としなければならない。公共サービスをアウトソーシングや協働化した結果、いつまでも役所がイニシアティブを持ち、楽をするだけでは困るのである▼協働には、主体間が対等・平等であるばかりでなく、ともに地域をつくっていくという考えが含まれる。市民参加や参画の場合、イニシアテイブは行政がとる場合が多いが、協働の場合は住民の自主性が尊重されるから役所のいいなりにはならない。しかも公共サービスの生産性効果が、役所だけでやる場合よりも住民の積極的関与の方がはるかに高いのである▼こうした協働の到達点が「地域内分権」にあることはいうまでもない。行政のスリム化と同時に住民の新たな雇用も生みだすという市民協働は、つまるところは行政のあり方を変えることなのである。小林市長は「市民協働推進条例」の制定を公約に掲げた。2期目の課題は、この市民協働という手法をどう深化させていくかにあるだろう。

 マニフェストへの冷静な判断(2011.2.1)

 厚木市長選が始まった。候補者がマニフェストを掲げて熱い舌戦を繰り広げている。冷静で率直な議論を通じて共通の状況認識を獲得し、目標の設定と可能な選択肢を明確にすることが期待される▼新人候補が「失われた4年間」と攻撃すれば、現職候補は「マニフェスト達成率80%以上」と切り返す。新人候補は何が失われたのかを明らかにし、それに代わる具体的なビジョンを示さなければならない。現職候補も数字に驕ることなく、謙虚に説明責任を果たす必要があるだろう▼改革とは分権と自治を確立することで、それを達成するための仕組みを作り変えることでもある。分権と自治の精神のないところに改革は進まないし、意思決定の仕組みが旧態依然であれば改革は遅れる。厚木市のまちづくりはいわばこの改革を進めることでもあろう▼冷静で建設的な討論を発展させる努力をせずに、 議論を刺激的に見せかけることばかりを考え、無意味に攻撃的な議論、相手のアラを探すことに熱中する「挙げ足取り」の議論が不当に珍重されるようでは改革は進まない▼今回の市長選は明確な争点がなく、風も吹かない選挙といわれる。候補者が掲げる政策にも大きな違いがあるわけではない。だが、「失われた4年間」と「マニフェスト達成率80%以上」という認識のズレには驚かされる▼候補者のマニフェストに対する冷静な判断が必要だ。なぜなら民主主義は大衆の聡明さに依存するからである。

 ソーシャルキャピタル(2011.1.1)

 単身世帯や単身行動が増え、地域社会とのつながりや人と人とのつながりが崩壊しかけている。失業やリストラによる経済的困窮と家族崩壊、結婚できない若者、子どものいない家庭、高齢者の単身世帯の増加、趣味や余暇の個人化、内向化がこれに拍車をかけている▼ソーシャルキャピタルという言葉がある。直訳すると社会資本だが、これは道路や港湾、上下水道といったインフラを意味するものではなく、人々の精神的な絆を深める見えざる資本(市民社会資本)というべきものである。ソーシャルキャピタルとは、信頼や規範、ネットワークといったコミュニティを円滑に機能させる潤滑油のようなものだ思えばいい▼NHKのテレビ番組「難問解決!ご近所の底力」は、空き巣やごみ、烏被害、独居老人などの地域問題を住民が知恵を出し合い、ネットワークを活かして解決していく番組だ。ソーシャルキャピタルのお手本のような番組だが、基本的には人々が孤立しないようにすることがすべての対応策の原点になる。 市場経済や政治で解決できない問題を解決するのがコミュニティだとしたなら、その源がソーシャルキャピタルなのである▼今後、行政はあらゆる政策にソーシャルキャピタルの視点が必要で、それを豊かにするNOPや協働事業の推進が求められてこよう。行政が好んで使う「協働」という言葉も、パートナーシップやコラボレーションでは弱く、主体間の対等・平等を越えて、住民の自主性や参画をベースにしたコプロダクション(協働)でなければならない。社会再生の時代が求められているのである。



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