風見鶏

1981(昭和56年).1.1〜1981.12.15

  国際障害者年(19881・1・1)

 今年は「国際障害者年」である。そして、そのテーマは「完全参加と平等」だ。この主題に向かって、すでに県や市町村レベルでの取り組みが開始されつつあるが、その中身は単なる行政サービスの強化や、いくつかの記念行事を組み合わせることだけで終わりそうな気がしてならない▼「国際児童年」もそうだった。スローガンだけでは肩身が狭いというので、申し訳程度に何か行事をやる。これがいままでの行政の姿勢だったといっても過言ではない。しかも、障害者の問題となると、行政が何かお世話をして福祉を配給するといった考え方が支配的だったのである▼もちろん、そうした福祉のやり方も必要だろう。しかし、国際障害者年のテーマは、障害者がいかに自立して社会参加をしていくか、そのためのプログラムと社会的な枠組みをどう作り変えていくかを考える年なのでもある。教育、雇用、医療面などで立ち遅れている部分が相当ある。その一つひとつを社会に開かれた形で改善していかなければならない▼行政ばかりでなく、企業や健常者の努力も必要だろう。だからといって、障害者の甘えも許されない。社会を障害者にとって利用しやすくすることは、社会全体としても利益になる。その意味で国際障害者年は、健常者中心の考えを根底からくつがえすことにある。なぜなら、障害者を締め出す社会はもちろん、弱い存在なのだから。

  情報公開と税金の使われ方(1981・1・15)

 1980年代は情報公開の時代だといわれている。情報公開が単に市民の「知る権利」への対応策としてではなく、地方自治を市民のものとしていくために、市民の市政への参加を最大限にはかっていくために必要であるという考えは、どこの自治体でも認めている。だが、具体的な手立て、公開の基準、方法となるとなかなか思うようにはいかないのは実状だ▼現在はゼロ成長の時代といわれる。企業はもとより自治体においてさえも「最少の費用で最大の市民サービス」を追求する時代になってきたのである。今までのように市民がただ単に要求だけをしていればよいというわけにはいかない▼「このサービスにはどのくらいの原価がかかっているか」「また、それについても市民の負担はどうなっているか」、市民はこれについて考え、自治体はこうした情報を積極的に市民に知らせる必要がある。情報公開の基本的な課題として、日本で一番遅れているのは「市民が納税した金がいかに使われているか」を公開することだといっても過言ではない▼たとえば施設をどんどん作れというが、実際にその施設を使う市民1人あたりに、どのくらいの税金が使われているかとなると、誰も知らないのである。市民課で交付する各種証明1枚に、どのくらいのコストがかかっているかを知る人となると、皆無といっていいのである。情報公開とは、市民の税金がいかに使われているかを、きちんと知らせることを基本とすべきである。

  大阪事件(1981・2・15)

 「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は、外戦に若くものなし」(福沢諭吉『通俗国権論』)。明治の歴史を少しひもといてみる▼自由民権の壮士たちが、自由党の解体以降、大阪事件を引き起こして国内改革に当たろうとした論理は、この福沢の『通俗国権論』や、かつて単身でも韓国に乗り込もうとした西郷隆盛の「征韓論」に極めて似ている▼大阪事件(明治18年)は、旧自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮の自主独立と日本における自由民権の闘いを結びつけようとした、民権末期の象徴的事件だった。明治17年12月、朝鮮で甲申の乱が起きると、彼らは行動隊を派遣して独立党を支援することを計画、その資金調達のため、各地の豪農や郡役所を襲撃した。だが、計画は未然に発覚し、大井らは外患罪で処罰されたのである▼この大阪事件に、愛甲郡の大矢正夫、難波春吉、佐伯十三郎が加わったことを知る人は意外と少ない。彼らは朝鮮の独立に際して、清国との開戦を誘い込めば人心が高揚し、政府の力は必然的に外に向けられると考えた。その機をつかんで民権の国内改革を進めようとしたのである▼「征韓論」の論理もこれに等しい。西郷は全国の不平士族の唯一の活路を朝鮮に見い出し、征韓の返す刀で国内を大改革し、国を興す考えだったのである。もちろん、こうした考えが敗れたことは歴史の示すところである▼今日、ソ連脅威論で国民の国防意識をあおり、憲法を改正しようという一部の人たちの論理も何やらこれに似ていないわけではない。ただ、違うのは、現代の良識ある民権家(国民)たちの多くが憂鬱ではなく賢明であることだ。愛甲郡でも大勢の壮士が参加した自由民権運動。それから数えて百年になる。現代における民権の論理と意義をもう一度問いなおしてみよう。 

  コミュニティ福祉(1981・3・1)

 「コミュニティ福祉」という言葉がある。言葉は難しそうだが、その意味は極めて簡単だ。たとえば「一人暮らしの老人に福祉電話をつけるのは、行政の福祉であるけれど、その電話をかけて老人と話をするのはコミュニティ福祉」である。長洲知事の例えではないが、これがなければ「仏つくって魂入れず」で、福祉も絵に描いたもちに終わってしまう▼今、日本で一番欠落しているのは、このコミュニティ福祉ではなかろうか。福祉というとすぐ出てくるのが、やれチャリティーだ、施設だ、ホームだという物入れ中心主義。いわば衣食住こと足りればあとは切り捨てという配給福祉である▼そこには老人や障害者が、子どもや健常者とふれあう機会さえない。たまにまちに出ても孤独感や不自由さにうちひしがれるだけである。このことをみんなが真剣に考えないと、いくら物質的に世話をされても、いい施設に収容されても実は体(てい)のいい姥捨てにすぎない▼かと言って、日本人は思いやりのない国民だとは決して思えない。テレビの「愛は地球を救う24時間チャリティー」を見ても、たくさんの善意が日本国中から寄せられているからである▼愛川町に住む骨形成不全症の小柳洋子さんが「日本人はチャリティーなど非日常的なことはよくやる。しかし、普段はほとんどやらない」と話していた▼あなたは、障害者とともにまちに出たことがありますか。ふれあうことなくしてコミュニティー福祉は深まらない。チャリティーにしても、もともとは寄付ではなく、「クリスチャンラブ」を意味しているのだから

  障害児教育(1981・3・15)

 3月10日行われた厚木市議会の一般質問で、障害児教育の話が出た。障害児教育はただ単に、障害を持つ子どもを特殊学級や養護学校へ入れ、専門的な知識と経験を積んだ教師を配置すればよいという問題ではない。理事者の答弁を聞いていて、このような感想をぬぐいきれなかったのは、はなはだ残念としか言いようがないが、2、3気のついた点があるので、指摘してみたい▼まずず第1に障害児を特別に扱い普通児と切り離す考え方をやめるということである。なぜなら、障害児教育は障害を持つ子どもたち自身の問題ばかりでなく、健常な子どもたち1人ひとりの問題として考えなければまったく意味がないからである。そのような教育的配慮がなされてこそ、はじめて障害児教育は生きてくる▼従って第2に、障害の問題を障害児ではなく、健常児にスポットを当てて考えてみるという発想が大切になってくる。必要なことは障害児のための教育ではなく、障害児とともに歩む教育である。たとえば、車椅子の児童がいるいないにかかわらず、小中学校に車椅子を配置して、全員で正しい介護の仕方を学ぶと同時に、車椅子に乗って一日を過ごすというやり方や、普通学級の授業を耳に栓をして手話やゼスチャーを使ってのぞむというやり方は一考の余地がある▼また、普通学級の子どもたちが特殊学級で学ぶというケースがあってもまったく不思議ではない。だが、こうした簡単なことさえ実行に移せないのが今の成績優先主義の教育である。これは教育を施す側に依然として偏見や差別、そして切り捨て主義が残っているからである。

  学校給食(1981・4・1)

 「給食は中止する」「いや、ぜひ続けて」−海老名市ではこのほど、新年度の2学期から中学校の給食をすべて中止することを決めたが、これについて父母から猛反発を招き、給食論議が沸き起こっている▼市教委では2年がかりで検討してきたことで、中止の理由として (1)学校給食法の精神は、学級指導などの特別活動や教科でも十分できる。 (2)現場では3分の2ほど給食指導の重要性を考えておらず、給食時間も弁当だと20分で済むが、給食だと50分の時間がかかる。 (3)小学校に比べて残飯量が多く、生徒の3割が給食では不足と思っている−−などを挙げている▼いまここで給食の是非論を論ずるつもりはないが、弁当志向に反対する父母の反論があまりにもお粗末すぎるので、ちょっと紹介してみる。父母側の反論は「弁当では食品の種類がかたよるし、経済的に負担になる」「朝食抜きで来る子が、多い学校で4人に1人はいる。弁当になったら金をも持たせられて、パンを買う子はどうなる」「弁当をつくるのが親のつとめという精神論で、事実上の教育行政の後退とすり替えている」というもので、何ともはや恐れ入った内容だ▼弁当の栄養価や朝食抜きの子、金を持たせられる子は、何も学校の責任ではない。経済的に負担というのはまだ分かる。しかし、作りたくないという気持ちから、何でも学校に押しつけるという考えは親としてどうかと思う。これでは本来の給食のあり方を突いたことにはならないし、あまり手前勝手なことは聞いていても説得力がない。

  あすなろの会(1981・4・15)

 施設を出ても働くことの出来ない在宅の障害者。地域作業所に通えるものはまだいい。外に出ることも出来ず、自宅で手仕事を身につけるしかない障害者がたくさんいる。不自由ながらもコツコツとつくりあげた作品はやはり汗の結晶だ。でも販路がない。技術を磨く機会にも恵まれない。だから社会参加なんてほど遠いかも知れない。しかし何とかしして生きていかなければ……▼それには自分たちの力はあまりにも弱すぎる。まず互いに手を取り合って仲間を増やそう。そして自分たちの手で作品を売ろう。売り場も捜したいし、とにかく大勢の人にみてもらいたい。私たちの作品を。技術をもっている方、何かの形で援助したいと思っている方も、ボランティアなんて言わないで、私たちの仲間になりませんか。「あすなろの会」をともに歩む会にしたいのです▼厚木で在宅障害者が手をつなぐ「あすなろの会」が産ぶ声をあげた。町田市に住む小関茂さんら在宅障害者15人に、同市七沢の県総合リハビリテーションに勤務する7人の職員がボランテイアで参加している。小関さんらは昨年12月、障害者仲間に厚木市のはとぽっぽ公園で行なわれた厚木地区労の青空市に参加することを呼びかけた。革細工、陶工芸、ペーパークラフト、木工品、組みひも、仏画、タイプアート、竹細工などのたくさんの作品があつまった。売上げも上々で、中には自分で作った作品が初めて売れたという仲間もいて、在宅障害者に自信と勇気を与えるきっかけとなった▼「はじめは、人のあしも少ないせいか、あんまり見てくれる人もなく、すこしがっかりしていました。でも、ときどき立ちどまってみてくれる人も出てきて、いちばん最初にふねのえが売れたとき、そしてお金を手にしたとき、このはじめての収入、このきもちはどのようにしても、いいあらわすことができません」(「あすなろの会」パンフレットより)▼いま、仲間たちは売り場を捜すこと、ボランティアを求めること、技術を身につけること、そして仲間を増やすことなど、地域で生きるための方策を手探りで築きつつある。地元の大工さんの作業場を無償で借り受け、作業や活動の拠点となる「工房こだま」も設立した。「こだま」とは作品の中に込められた木の魂であり、ここを拠点にこだまのように響いていきたいという仲間たちの願いから名づけられた▼しかし、地域作業所に補助金は出ても在宅作業所には補助金は出ない。社会復帰を閉ざされ、行政からも切り捨てられた在宅障害者のこうした活動は、今後大きな意味で社会参加の牽引力となろう。会の仲間たちに心から拍手をおくりたい。 

  可もなく不可もなく(1981・5・1)

 拡大と充実のために集結しよう。会員参加の輪を広げよう−−4月26日、厚木市文化会館で「足立原茂徳講演会総会」が開かれ、約1,000人の支持者が集まった。市長に当選して1期目の折り返し点に立った足立原市長を激励して、気勢を上げようというもので、早くも2期目に向けた実質的な旗揚げといえる▼この日、来賓として招かれた河野洋平、平林剛両衆院議員や民社党の河村勝、公明党の小浜新治両県連会長の祝辞を受けた同市長は終始ご機嫌、支持者に56年度から始まる新総合計画を「足立原計画」とぶちあげるなど、市政担当の余裕を見せた▼来賓の祝辞をひろってみると、「可もなく不可もなく問題点が1つもない。だが着実に一歩一歩前進している。これは市民にとって非常に心強い」(小浜新治公明党県連会長)「期待にそむかず市政が着実に進行していることを心強く思っている」(河村勝県連会長)▼「今後もすいせん政党としていっそうの協力と支援体制を拡大していく」(河野洋平衆院議員)など各政党も思い思いの賛辞をおくった。初めて顔を見せた社会党の平林剛衆院議員は、厚木津久井線の国道昇格問題を取り上げ、「これが成功したのは、足立原市長が超党派で取り組んだ結果。同市長はあらゆる政党を上手に使える政治家だ」ともちあげた▼与党とはいえ、歯の浮くような賛辞である。小浜氏が言う「可もなく不可もなく、問題点が一つもない」とは、「合格点でもないし落第点でもない、とにかく一生懸命やっている」ということなのだろう。いずれにしても評価は早すぎる。気勢を上げるのはいいが、浮かれては足元を救われる。

  ひよこコミュニティ保育(1981・6・1)

 幼児期における「子育て」は、どのようなあり方が望ましいのだろうか。幼稚園に入れるのがいいのか、保育園がいいのか、また何年保育がいいのかは意見の分かれるところだ。しかし、現実には子どもたちのほとんどは幼稚園に通っている。こうした中で、地域の子ども集団、親子のかかわり、そして保育内容に疑問をもつ母親も少なくない▼遊びを中心にした異年齢保育で子どもたちを、自由にのびのびと育てよう−−昨年10月、厚木の鳶尾団地で主婦たちの自主運営による「きさらぎ」がスタートした。運営から保育内容にいたるまですべてが、母親たちによる手づくり。もちろん、厚木市では初めての試みだ。核家族化が進んで地域の子ども集団が失われてきている今日、新しい形の保育を追求したものとして注目されている▼この手づくり保育が誕生したけっかけは、一人の幼児の幼稚園嫌いにあった。母親がだんだん幼稚園に行かなくなっていく子どもに、どうして幼稚園に行かないのとたずねると、「ミーちゃん遊びたいんだよ」という言葉が返ってきて、思わず「ハッ」とさせられたという。幼稚園教育がしつけ中心主義のいっせい保育ばかりだと思わないが、この子どもが投げかけた疑問は率直に受け取っていいだろう▼それは子どもにとって一番大切な「遊び」を、家庭で、地域で、学校で、そして幼稚園でさえも押さえつけてしまっているからではないだろうか。今は「……してはいけません」の時代だとよくいわれる。子どもの自由な発想は遊びの中から生まれてくる。手づくりの保育の母親たちは、その最も大切な原点に立ち戻ったのだといえる。

  自由と人権(1981・6・15)

 国際障害者年のスローガン「完全参加と平等」は、「自由と人権」を抜きにしては語れない。海老名市でCSR=リハビリ市民協会(シビリアン・ソサィエティー・リハビリテーション)を主宰する宇井亨さんの言葉だ▼たとえば、CSRが運用するドライバーズクラブがある。現在15名のボランティアが登録されているが、いつでも、どこでも、出かけられるというわけにはいかない。人数が少ないから毎週となるとドライバーも苦痛になる。また、断られたら嫌な気分になるし、中には行きたくないと思っていても断り切れない人もいる▼つまり、ボランティアや福祉という名のもとに、お互いの人間性や人格まで拘束されてしまうという危惧感である。無理はいつまでも長くは続かない。宇井さんはこれを打破するにはボランティアを数多く集めるしかないとも語った▼まちへ出ると障害者専用トイレやエレベーターが目につく時代になってきた。これを障害者専用だからといって敬遠する人がいる。これは逆差別になりはしまいか。公共施設の入場料金が、障害者用に割引されている場合もある。これも同じであろう▼宇井さんは「障害者の生活空間を拡大することは、障害者が利用しやすいように建物の構造や社会の枠組みを作りかえることであって、逆差別を生むことではない」という。完全参加と平等という言葉は重い。しかし障害者も健常者も自由と人権を無視して福祉を語ることは出来ない。

  児童書の選び方(1981・7・15)

 現代っ子の活字離れはいろいろなところに原因がある。受験戦争でテスト・テストに追いまくられる一方で、テレビ・マンガ漬けの毎日だ。ぞれでも全体として子どもたちが活字にふれる機会は、昔に比べてはるかに多い▼にもかかわらず、なぜ活字離れが進んでいるのだろうか。立ち止まって考えてみると、テレビは子どもが自主的にチャンネルを選択するし、マンガも子どもが自ら選んでいるという事実に遭遇する。ところが子どもの本はまわりの大人が選び、買って渡すというのが一般的だ。いわば子どもの読書は親が読む本を選定するという恰好になっているのである。子どもにいわせれば明らかに「押しつけ」であろう。もちろん、これが駄目というわけではない。問題は本の選び方にある▼現在、日本で児童書といわれる本は約一万冊を越える。これに漫画、子ども向け週刊誌を加えるとその数は膨大になる▼伊勢原市で「よい本をひろめる運動」を提唱している高橋正修さんは、児童書の中で圧倒的に多いのが「教訓的なものとダイジェスト版である」と指摘する。つまり原作を縮めたもので、原作の持つ面白さなどはいたるところで削除されている。それでも「読まないよりはまし、知識の習得には役立つだろう」という考えから与える親がほとんどだという。しかもそんな親に限って「名作版」をすすめたがるそうだ▼高橋さんは子どもの本の選定について、「オリジナルなもの、完訳もの、絵本は絵と文がしっかりしているものを選ぶこと。作者が不明なものは避ける。これぐらいは親の責任で果たしたい」と指摘する。むかしから「読書は本にめぐりあい、手にとるところから、その人の自由な行為」であった。今年も夏休みの課題図書、推薦図書が出回る時期になってきた。この夏、子どもたちはいくつ感動に出会えるだろうか。

  厚木市の臨調(1981・8 ・15)

 厚木市はこのほど民間団体などに交付している補助金や交付金が「より有効で適切かどうか」を見直すための「補助金等検討委員会」発足させた。鈴木内閣も第二臨調を発足させて、行政改革に取り組んでいる今日、この委員会はいわば厚木市の「臨調」ともいうべきものである▼日本の政治家は国政でも自治体でも、補助金行政といわれているほどで、一度交付した補助金は、特別な場合を除いては「既得権」になって、もはや必要でないものにまでに交付されている場合が多い。あらゆる団体に一律支給や圧力に負けて交付金をカットできないという場合もある▼厚木の「臨調」に期待したいところだが、その場合、大事なことは、ニーズの高いものについては思い切って助成し、そうでないものについてはカットするという大胆は措置である。これは予算編成についてもいえることである▼ところで、減量経営には経費の節約もあるということを忘れないでもらいたい。54年7月、厚木市は「省エネ」についての大胆な対応策を打ち出した。職員のノーカーデーやエレベーター利用の自粛、印刷資料の節約、電気のムダ使い防止、公用車の過剰利用防止などを実施したのである。財政ではこれによって月間140万円は節約できるとソロバンをはじき出した▼その後、これは一体どうなっているのだろうか。担当課によると、いつの間にか「尻切れトンボ」になってしまったという。臨調もいいが、自戒するところから始めないと説得力がない。

  老後と親子の関係(1981・9・15)

 現在、日本の65歳以上のお年寄りは11人に1人。これが20年後には7人に1人、そして40年後には5人に1人の割合になるという。いわば21世紀の日本は老人大国、超高齢化社会が確実にやってくるのである。このことは基本的に重要な意味を持つ▼評論家の堺屋太一氏は「現在は大体6・7人で一人の老人を養っているが、20年後には4・2人で1人を養わなくてはならない時代が来る」と警告を発している▼これを世帯単位でみると、将来は1世帯で老人1人を養うという計算だ。言い換えると、「息子や娘の世話になりたくない」「親の面倒をみたくない」という変な家族意識が根底からくつがえされる時代が到来するのである。昔は親が子を育て、子は親を見るというのが順送りだった。これからは誰にでも、そうした負担がのしかかってくる▼老後の問題は「医療と福祉と年金」だ。しかし、個人的にはそれ以上に肝に命じておきたいことがある。それは財産をただで子にやるなということである。フランスでは子どもが大学に行く場合、一般的に卒業後、親に金を返す習慣になっている。また、ドイツでは年をとってくると、自分の持っている家を子どもに売るそうだ▼子どもが親の家に住んでいれば、家賃を取るのもいい。そうすれば、見てやる、見てもらわないという変な扶養意識もスッキリするだろう。日本も見習ってはどうか。

  身体障害者福祉モデル都市(1981・10・1)

 「身体障害者福祉モデル都市」というのがある。昭和四十八年、厚生省が全国の六つの都市を選んで指定したもので、その代表的な都市に北九州市が含まれている。「あの工業都市北九州市が」と、意外に思われる方もあろうが、熱心さをかわれての指定であった。それ以来、同市ではこの七年間に心身障害者を含めて二百九十億円の金を使った▼物的な面では市役所をはじめ公的な施設には、車椅子で使える身障者用のトイレの設置、歩道と車道の段差の切下げをほとんどやった。このほか心身の故障を幼児のときから発見して、この子どもはこういう治療をしなさいという「総合療育センター」をつくった。しかし、雇用の面はなかなか難しいという▼際立ったことは、モデル都市の宣言をしてから、障害者に対する蔑視、差別という意識が、市民の間で大分薄れてきたことだ。今では逆に障害者を助けるという意識に変わってきたという。外国では母親が子どもを連れて歩いていて、障害者が通るのを子どもがジロジロ見ると、それはいけないということでたしなめる習慣が身についている▼日本ではどうか。北九州市の谷伍平市長は「日本人は学校、家庭のしつけから考え直さなければならない」と説いている。少なくとも障害を暗い問題、特異な問題だと思わないこと。これは大人として最低限必要な認識だ。

  地下道計画(1981・10・15)

 厚木市の中町地区市街地再開発計画の中で、本厚木駅東口とダックシティ百貨店入口を「地下道」で結ぶ計画があるが、この問題に関して地元商店街で賛否両論が沸き起こっている。この地下道は歩行者の安全を確保する意味で計画されたものだが、反対者の意見は「地下道が出きると、歩行者が地上を歩かなくなるので、小田急通りから客足が遠のく」というものである▼地下道が万全かどうかは別としても、歩行者の安全は無条件に確保されなければならない。むしろ問題なのは小田急通りが変速的に拡幅され、周辺道路が混雑するという道路行政の不備こそ指摘されねばならない▼今、問われているのは、ダックシティの開店と合わせて、小田急通りの西側商店街をどうするかという長期展望である。確かに大型店は地元小売店にとって脅威には違いない。しかし、魅力ある商店街はスケールメリットや個々の小売店だけにしか見いだせないものではない。なぜなら商店街づくりはイコールまちづくりであるからだ。言い換えれば商店街は商業を媒介としたコミュニティ形成の場でもある▼その意味ではやみくもに地下道計画に反対するのではなく、集積の利益を活用した商店街の地域コミュニティ形成の方策を考えるべきだろう。地下道を地下ショッピング街にするという考えもある。西側整備計画のプランも出来上がっているようだ。商店主の奮起を望みたい。

  文化行政(1981・11・1)

 昨今、行政の文化化とか文化行政という言葉が盛んに論じられている。それはもちろん、よろこばしいことなのだが、立ち止まって考えてみると「文化」とは一体何だろうかという疑問にぶつからざるをえない▼文化とは英語でいうところの「カルチュアー」である。学者の間でもさまざまな定義づけが行なわれている。だが、一般的にはかなり狭く受け止められているのが実状だ。一つは史蹟や名勝、天然記念物であるとか、歌舞伎や能、お祭りという伝承的なもの。もう一つはレンブラントの絵やロダンの彫刻といったように鑑賞するものがそれである▼しかし、文化というものをもう少し広く「われわれの生活を豊にする施設や行動」というようにとらえられないだろうか。極論すると「遊び」ということになる。いろいろな遊びがあってその地域のまちの個性が出てくる。昨今の文化行政論議はどうもその辺に趣をおいていないように思えるが、どうだろうか▼地方の時代や文化の時代というのは、その地方の個性をつくるべき時代であって、それがそのまちの豊かな文化につながっていく。「教育文化都市」だけをぶちあげても、ただそれだけでは個性的なまちにはならないし、またどこの自治体でも真似できる。問題はその中身であり個性の創造だ。11月3日は文化の日。今一度文化について考えよう。

  自由民権100年(1981・11・15)

 今年は自由民権運動がもっとも高揚を示した年から数えて百年目に当たる。全国各地で学者や文化人、市民の手による民権史の掘り起こし運動と顕彰活動が盛んに行なわれている。これ一体何を意味するのだろうか▼改めて説明するまでもなく、明治の自由民権運動は国民の自由と人権を確立するため、国会開設、憲法の制定、地租軽減、条約改正、地方自治の要求をかかげて、明治政府に迫った日本で最初の民主主義運動であった▼中でも神奈川県は自由民権運動のメッカとして巨大な高揚を示し、この厚木でも多くの運動や事件を生み出した。厚木が生んだ民権家たちには黒田黙耳、難波惣平、小宮保次郎、佐伯十三郎、天野政立、井上篤太郎、など後世にまで多くを語り継がれる人が多い。その運動は途中で挫折したが、現代に二つの意味を投げかけているように思える▼1つは自由民権運動が地方から起こり、その中心的な課題に地方自治の確立を掲げていたことだ。そしてもう1つは運動の遺産がその後の歴史の中で、普通選挙要求運動、社会主義運動、労働組合運動、婦人運動として、形を変えて今日に受け継がれていることである▼あれから100年が経過した。「地方の時代」が叫ばれる今、明治の民権運動が示した自由と民権、そして地方自治の原点を改めて問いなおしてみたい。

  他人の子を叱る(1981・12・1)

 厚木市はこのほど青少年非行化防止推進要綱を定め、関係団体を総動員して、市民ぐるみの青少年非行化防止運動に取り組む考えだ。その中には市民運動として、 1あいさつ運動 2他人の子どもに声をかけ運動 3愛情と信頼にささえられた厳しく育てる運動の3つを掲げている▼あいさつ運動は、「おはようございます」「ありがとう」など、日常生活の中の基本的生活習慣十項目。注目されるのは、他人の子に声をかける運動で、勇気をもって他人の子を叱ることを挙げている。スローガンは「勇気をもって、どの子にも明るい声を」「自分の子叱られてもありがとう」「みんなの声をすなおに聞く明るい子」などで、愛の一声は励まし、いましめ、さとし、感謝の気持ちで実施に当たるとしている▼また、愛情と信頼にささえられた厳しく育てる運動では、子どもに「我慢させること」「しつけをきちんとすること」「大人が率先して決まりを守り、子どもの模範となる」ことなどが挙げられている▼昔の格言に「獅子の谷落とし」「可愛い子には旅をさせろ」などがあるが、これは幼児期から子どもたちを甘やかしてはならないこと、生活や生きることの厳しさを教えることを説いている。こうした運動は様々な論議を呼びそうだが、子は宝である、自分の子も他人の子も、社会の宝として育てていくには、甘やかしは禁物だ▼他人の子を叱ることが出来ない大人が増えてきた。 

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