風見鶏

1996.1.1〜1996.12.15

  自尊の時代(96・1・1)

 戦後日本人の生き方には3つの暗黙の了解があった。第1は「人生に突然の中断はない」という了解である。しかし阪神大震災によって、人生に突然の中断があるのだということを思い知らされた▼第2は「人生は負債を負わずに始められる」という神話である。だが、赤字国債の累積によってこれが完全に崩れた。これからは親の扶養や国債・地方債残高、高齢者年金の負担など、これまでと違って気楽な無借金人生を生きるというわけにはいかなくなった▼第3は「明日は今日より豊かだ」という神話である。ところがバブルの崩壊とともに、猛烈な資産デフレが続きこの神話も崩れてしまった。困ったことには、行政も大多数の国民もこうした認識が希薄であるということである▼われわれは戦後の日本人が固く信じてきた一国平和主義と成長拡大政策、終身雇用と年功序列といった日本型経営という常識を捨て、長い夢から醒めなければならなくなったのである▼今後、国際化と高齢化、情報化とソフト化といった内容は、人々が新しい生き方を模索するキーワードになってくるだろう。世界は冷戦から大競争、成長から成熟社会の到来に入った▼幸せは所得の大小で決まるものではない。また、会社や世間が決めるものでもない。成熟社会とは自分の生き方を自分で選び、自分の所得をいかに自分の喜びや満足に使うかという時代であろう。「自尊の時代」の始まりである。

  財政改革と民間委託(96・1・15)

 長びく不況のため、地方財政はどこでもピンチである。厚木市の台所も収入が減ったため、貯金を切り崩してやりくりしてきたが、その貯金も底をついてきた▼地方自治体は国と違って、そう簡単に増税はできない。かといって国への補助金獲得や公債依存型というやり方は、旧来のやり方と同じである▼これまで行政は生産(サービス)の効率性に対する対応をいつも曖昧にしてきた。民間では歳人の増減にかかわりなく生産の効率性を考えるのは当たり前であるが、行政は自分で稼がないからそうした発想がなかなか身につかない▼例えば、民間委託やリストラは、財政事情が悪化すると見直されるが、財政状況が好転すると軽んじられてしまうのである。限られた資源を有効に使い、浮いた財源を別のサービスに利用することは、財政状況にかかわりなく、常に追求しなければならない課題である▼民間委託については、受託者の事務処理のチェック・監督が可能なもの、コストの節減と事務の効率化が図れるもの、サービスの提供に公平性が損なわれないものについては、積極的に推進すべきであろう▼民間委託はサービスの低下を招くという考えがあるが、委託は契約に基づいて行なうものであるから、評判の悪い業者は解約すれば良い。したがってサービスの低下には結びつかないのである。民間委託の領域をもっと拡大してみてはどうだろうか。

  職務怠慢(96・2・1)

 厚木市のごみ焼却灰最終処分場の業者選定にからむ問題は、1月26日に開かれた市議会調査特別委員会に山口市長が出席、「多忙で(処分単価の安い)起案文書に目を通していなかった」という理由で、一件落着しそうである▼これまでの調査では、市側が出した資料が後で辻褄合わせのために作られたものではないか、現職員と前職員との間で事実認識に食い違いがあるなど、依然として矛盾が残ったままである▼助役の決裁印まである起案書を、なぜ市長決裁にまでこぎつけることが出来なかったのだろうか。担当部では業者選定が決まるまでに、数回ほど市長にレクチュアーを行なっている。だが、一連の報告事項の中での発言だっただけに、市長には重要事項という認識がなかったのかもしれない▼市長はいい加減な気持で報告を聞いていたのだろうか。仮にそうであったとしても、決済が必要なものは助役や担当部長が最終的な判断を仰ぐべきだろう。それにしても、市長が見ていないというのでは全く話にならない▼市長の証言でくしくも役所の報告や事務処理が、誠にお粗末ということが露呈された。当選して1年、市長と職員との関係がうまく噛み合わないのか分からないが、いずれにしてもこれは山口市長の職務怠慢である。何しろ1億300万円のリストラが幻に終わったのだから。

  下り坂の哲学(96・2・15)

 大磯で、「道塾慶陽館」を開いている境野勝悟さんが、『老荘思想に学ぶ人間学』の中で次のようなことを述べている▼戦後50年たちました。上り坂ひと筋でこれまで来ましたが、そろそろ下り坂に入る…とすればこれからは国全体で“味わう”ということを大切にしなくてはなりません。1人の人間の人生もそうです。50、60過ぎたら、すべてをよく“味わう”ことが肝要です▼日本人はこれまで競争と繁栄を至上命題として生きてきた。ところが、50年を境にして政治や経済、教育など社会のあらゆる分野で、城壁が崩れるような現象が見られる。これは社会が下り坂であるのに、相も変わらず上り坂のような調子で息せき切って歩いているからだ▼戦後50年が過ぎ、日本人はやり方を変えねばならないということにやっと気がつき始めた。だがどこもかしこも暗中模索の状態である。境野さんは「老荘思想」は競争に明け暮れ、一方で自己嫌悪とストレスに悩まされどおしの私たちに思いがけない薬効を与えてくれる。まさに“老荘思想は下り坂の哲学だ”と述べている▼境野さんは難題といわれる老荘思想を平明に面白く見事に解き明かしている。この古典はすぐれて現代的である。ぜひご一読をおすすめしたい。

  特別職の報酬(96・3・1)

 厚木市の新年度予算案が発表された。歳入不足の中で、どのように経費を節減して、必要な部分に振り向けるかは、どこの自治体でも頭が痛い▼今年度、厚木市は事務事業の改善や見直しにより物件費や補修費、補助費を大幅に削減し、前年度より9億円あまりを浮かせた。義務的経費である人件費、扶助費、公債費は増えてはいるものの、財政を圧迫するような状態にはない▼歳入面では一般財源に繰入可能な基金が底をついてきたことが特徴だ。平成7年度末で財政調整基金が24億7,000万円、公共施設整備基金が20億円の残高だが、これは平成8年度予算に27億円あまりを繰り入れるため、基金の残高は合わせて18億円程度になる▼貯金が減るのは心細い。僅かに明るい兆しが見えるのは、法人市民税が多少上向きになってきたことである。財政課によると平成7年度70億円が実績として見込めるため、今年度も66億円あまりを計上したという▼日本経済はいま総じてデフレ傾向にある。今後、所得の上昇もそう大きくは期待出来ないだろう。そうした中で厚木市は今年度から特別職の報酬を引き上げる。大和市では据え置いたというのに、厚木市は時代のニーズにそぐわないことをやっている。

  食糧費(96・3・15)

 北海道や秋田県で食糧費や出張旅費の不正支出が明るみに出て以来、全国の自治体で旅費や食糧費の見直しが相次いでいる。厚木市も今年度は思い切った減額を行なった。平成8年度の食糧費は4,488万6,000円で、前年度より2,200万円の減額だ▼歳入がままならない今日、不要なものをカットするのは大いに歓迎すべきことである。ここで確認しておきたいのは食糧費をカットしても市民サービスには何ら影響がないということである▼交際費も同様である。厚木市は8年度分の交際費として、前年度より202万円を減額、1,745円を計上した。これには市長や議長交際費も含まれる▼お役人にとって、食糧費や交際費が少なくなることは困ることだろうが、納税者である市民にとっては何ら困ることではない▼極端にいうならば、食糧費や交際費がなくても行政運営は可能なのである。お客様には空茶での接待になるが、それもせいぜいが厚木市はケチだというレベルの話でしかない▼歳出の原点は、市民にとって何が必要かという発想である。お役人とって困るものでも、市民にとって困らないものはどんどんカットすればよい。役所の食糧費や接待費などというものはもともと市民ニーズにはないものである。

  デイサービス1位(96・4・1)

 神奈川県ではこのほどお年寄り向け福祉サービスの実施状況をまとめた「かながわ高齢者保健福祉マップ」を発表した。ホームヘルプやデイサービス、ショートスティ、入浴、配食、訪問看護など10項目のサービスについて、県下の自治体の整備状況をランクづけしたものだ▼福祉サービス全般の比較では、津久井、城山、相模湖などの小規模な町ほど普及率が高いという。これらの自治体では、特に入浴や訪問看護など、身近なサービスについては県平均を大幅に上回る水準を確保している▼逆に横浜、川崎などの大都市では、1人暮らしの老人対策として、ホームヘルプサービスに力を入れているが、ショートスティや配食サービスでは、中規模自治体にも遠く及ばないという▼厚木市はデイサービス事業で1位にランクづけされた。デイサービスの年間利用回数(100人当たり)は県平均で47.7日だが、厚木市はその3倍を越える158.9日を数える▼高齢者福祉を市政の重要課題に掲げている厚木市の面目躍如といったところだが、他のサービス面ではまだまだ他市に及ばないところもある。市ではこのほど機構改革により保健健康部を新設した。キメ細かで充実した施策を期待したい。

  立つ木を見る(1996・4・5)

 日本の「家」というものが崩壊して、どのぐらいたつだろうか。かつて日本の「家」には親子3代が住んでいた。父親は外で働き、母親は家を守り子を育て、年寄りが伝統を伝えるという作業を分担してきたのである▼ところが戦後、いつの間にかこうした関係が崩れてしまった。これは親に問題があるからであろう。大和市に住む天導師・夕月妙心さんは、その理由を次のように説いている▼親という字は「立つ木を見る」と書く。立木には幹があり、枝があり葉がある。そして花が咲き、実をつける。だが、よく下の方を見ると根があることに気がつくだろう。根は養分を地中からもらう場所で、しかも根が安定しないとその木は倒れる▼われわれは姿、形のほか親から実にさまざまな個性(因子)を授かっている。そうした個性は祖父母や曽祖父母から受け継いだものもあるだろう。つまり根は親の親、そのまた親、すなわち先祖を意味しているのである。先祖は立木が丈夫に育ちきれいな花を咲かせ、立派な実(子) をつけることを常に望んでいるのである▼われわれは親があって自分があるということを、もっと知らなければなるまい。つまり、親という字は両親や祖父母、先祖を敬い大事にするということを、暗黙に教えているのである▼妙心さんは言う「お年寄りが子や孫と一緒に住まなくなり、家を守る母親が父親と同じように外に出てから、その家の根っ子が崩れてしまった。つまり家庭が整わなくなったのである。そして、子どもたちは立つ木を見ることが出来なくなった」▼夫婦で家事を放棄し親まで放棄してしまっている大人が増え続けている。戦後50年たった日本の危機の原点は、実はここにある。そしてその危機は親ばかりでなく日本の家や家族、夫婦、そして職場や地域の在り方までも問い直しているのである。基本に立ち帰る時代がやってきた。

  ゴミ出しのマナー(96・5・1)

 厚木市が行なった環境意識調査の中で、「あなたは環境保全と浄化に何が協力できますか」という問いに、成人市民の81.3%がゴミの減量と省エネと答えている▼一方、「ゴミの分別を守っているか」の問いには、95.7%がはいと答えているが、0.7%の人がいいえと答えている。どちらとも言えないが2.1%もあった。また、ごみの収集日を守っていない人が0.5%あった▼今年の1月から厚木市はごみ袋の透明・半透明化をスタートさせた。一時見られた黒いゴミ袋も最近ではほとんど見かけなくなったが、依然として残るのは分別の問題である▼拙宅のすぐ前にゴミステーションがあるが、燃えるゴミの日に平気で燃えないゴミを出す人がいるし、またその逆のケースも見かける。驚くのは常時ごみを捨てる人がいるかと思えば、夜中にこっそりと車でやってきて、洗濯機やテレビなどの粗大ゴミを置いていく人がいることである。収集網が公道上にあるため、ごみが始終公道上に散乱してひどい状態になっている。収集作業の業務に当たる市の職員から、ここのごみステーションは厚木市の中でもワースト3に入るという不名誉なことばをもらってしまった▼ある時には、建築現場の廃材や砂などの産業廃棄物が平気で捨てられていたりして、まさにごみの無法地帯である。そういう粗大ゴミは何日もの間、放置されたままだった▼そうしたルールを守らない人々はほとんどといっていいほど地区外の人である。ごみを他から持ち込まれる住民にとってはたまったものではない。こんな人たちばかりでは、ゴミの分別などは絶対に進まないだろう。ゴミの減量と省エネ、分別に協力する気持ちのある市民が大勢いる一方で、こうした最低なマナーを持つ市民もいる。残念至極である。

  街づくりは人づくり(96・5・15)

 平成10年度からスタートする厚木市の新総合計画の策定に当たって、山口市長は「厚木に住んでよかった」と思えるまちづくりを進めていきたいと述べている。恐らく、どこの自治体の長も同じ考えを持っているであろう▼栃木県に今市(いまいち)市という都市がある。日光の表玄関に位置し、特別天然記念物の杉並木で有名だ。二宮金次郎の終焉の地でもある。市の財政課長から市長になった福田昭夫氏のまちづくりビジョンは「オアシス都市構想」である▼その福田市長が興味深いことを述べている。「ドイツの大哲学者カントは、人口5,000人の生まれ故郷から生涯一歩も外に出たことがなかった。そういう人がなぜあれだけの哲学を構築できたのかというのが、私の発想の原点なんです」▼福田市長は「まちづくりは人づくり。人をつくっていけば必ずいいまちになる。つまり、まちづくりはソフトから入った方が長持ちする」とも述べている。これは「徳を堀り起こす、人を耕す」という二宮尊徳の「報徳仕法」の思想からきている▼まちの様々な姿や形をつくっていくのは人であり、その人がしっかりしていなければ、いいまちは出来ていかない。人を耕すことは、人の心を耕すことである。日本人の心の危機が叫ばれている今日、われわれは人づくりの意味をもっと真剣に考えねばなるまい。

   続EM菌(96・6・15)

 厚木市議会6月定例会の一般質問で、柏木功議員が環境問題について「EM菌」の有効性を取り上げていた▼過去に本欄でも取り上げたことがあるが、EM菌とは自然界の中から蘇生型で働きの異なる八十以上の微生物を、特殊な技法で共存させることに成功した「有用微生物群」のことである▼琉球大学の比嘉照夫教授が開発に成功してから、世界的な広がりを見せており、日本でも生ゴミリサイクルや自然農法にEM菌を活用する農家や自治体が増えてきた。柏木議員も岐阜県可児市の生ゴミリサイクルや、沖縄県具志川市の汚水浄化の例を取り上げていた▼県下では平塚市や三浦市、鎌倉市などがこのEM菌の導入や助成を行なっており、厚木市内でもEM菌を使った生ごみ処理で、有機農法を行なっている人たちがいる▼柏木議員の質問に環境部長が、「市内の一部の農家が3カ月ほど使ってみたが、あまり効果がなかったと聞いている」と答弁していた。EMは微生物である。化学肥料や農薬と同じような即効性を期待する使い方では、効果は得られない。わずか3カ月程度ではEMを理解することは出来ないのだ▼比嘉教授は「EMを正しく活用すれば、化学物質や放射性物質、環境汚染、水質汚濁なども速やかに、しかも低コストで解決することが可能だ」と説いている。

  「縁」に生きる(96・7・1)

 厚木経進会の例会で、ユニークな人間教育論を展開している境野勝悟さんの「お茶の間の人間学」と題する講演を拝聴した。
 境野さんは人間の悩みは「生・老・病・死」にあるという。これを四苦と訳したのは中国人だが、「苦」というより「思うにまかせぬ」というのが本来の意味であるらしい▼私たちは誰しもが物事には因果関係があると思っている。「善因善果」「悪因悪果」という言葉があるが、必ずしもそうならないのが現実の世の中だ。だから思うにまかせぬのである▼どうしてそうなるのであろうか。境野さんはそれは「因果律」にあるのではなく、「縁」にあるのであると述べていた。つまり人の出会いや結果は、縁の力によるものだったというのである。例えば東大を受験して落ちても、それは実力がなかったのではなく、縁がなかったから落ちたということになる▼要するに「因」はあったが、「縁」がなかったので「果」に結びつかなかったというだけの話である。そう思うと気持ちがウンと楽になるしストレスもたまらない。何もクヨクヨ考える必要はないのである▼境野さんは縁は中庸の思想だと説いていた。日本の家屋にある縁側は家の中ではなく家の外でもない。しかし、縁側は家の内と外の中間にあって十分に雨露をしのげる場所だ。昔から人々はこの縁側に座って茶飲み話をしながら縁談をまとめた。結婚話を「縁談」といい、「因談」といわないのはこうした理由からであろう▼戦後、50年が過ぎて日本の社会は下り坂に入った。さて、「因果」にこだわって生きるか、それとも「縁」を大事に生きるか。あなたはどちら?

  教師の夏休み(96・7・15)

 「学校の先生は休みが多くていいですね」。夏休みが始まるとあちこちからこんな声が聞かれる。確かにそうで、夏休み中に教師が通常通り勤務するのは10日ほどだろう▼基本的には夏休みは児童・生徒のためのものであって教師の休みではない。にもかかわらず教師はなぜ学校に行かなくても良いのだろうか。これには特例があるからだ▼その1は、毎月第1・第3土曜日に出勤する振り替え休日として夏休み期間に8日ほどとれること。その2は教師には職務専念義務の免除というのがあって、厚生活動のためなら夏休み期間でも8日ほど休める▼その3は研修である。夏休み期間中教師は現場を離れて研修活動が出来る。これは自宅でも国内でも海外でも良い。校長が許可すれば良いのである。この研修は私的な活動は認められないが、細かな報告義務はない▼このほか年休をうまく組み合わせて使えば、教師は夏休みの大部分、登校しなくてもよいことになる。逆に平常通り勤務して、研修や地域活動、家庭訪問などをやっても構わないのだが、そんなことをやる教師は日本全国どこにもいない。これはまったく不思議なくらい不思議である▼それでも、給料はきちんと支給される。夏休み中に子どもの事故があって、担任の教師と連絡がとれなかったという話も聞く。休むのは教師の権利だから駄目とは言わないが、夏休みの教師は子どもと同じ気持ちでは困るのだ。

  学校給食の廃止 (96・8・15)

 厚木市には中学校に給食を導入するという話がある。しかし、飽食の時代に本当に学校給食が必要なのだろうか。筆者は以前から学校給食は廃止した方がよいと思っている。なぜ学校給食を廃止した方がいいのか▼まず第1に子どもの食事は、本来は親の責任分野であるということだ。親が子の食事の心配をするのは動物でも当たり前である。学校給食が導入されて以来、この考えがいつの間にか主客転倒してしまった。現在の給食はただ親を楽させるだけのものとなってしまっている▼第2は給食は戦後の食料難の時代に始まったもので、欠食児童や栄養状態を改善するのが本来の目的であった。だが、飽食の時代に入ってこの目的は完全に達成されてしまっている▼第3はセンター方式の給食は、メニューの統一と食材のまとめ買いなどで、学校の独自性が損なわれているからである。しかも食中毒が発生すると、被害が大規模になる▼第4に食文化の大切さや栄養の基礎を学ぶなら、学校給食よりも親のつくる弁当が恰好の教材になる。子どもたちは親の愛情がこもった弁当を食べることによって、親子の絆を認識し、食文化の大切さや意味を学ぶことができるのである。ここには家庭教育の原点がある▼第5は個性化教育の実践である。クラスに40人の個性があるのなら、弁当もまた40の種類が持ち込まれる。われわれは自分の家の晩ごはんのおかずと隣の家の晩ごはんのおかずが違うことを当たり前のこととして受け止めている。家族そろって外食すると食べる物が一人ひとり違うというのも何ら不思議なことではない▼弁当は人間一人ひとりの違い、自分と他人との違いや、個性、喜怒哀楽の違いを、人間の最も基本的な欲求である食べることを通して教えてくれるのである。

  都市ランキング (96・9・1)

 ダイヤモンド社が、全国689の都市の動きを伝える「96年版都市ランキング」を発表した。暮らしやすさ、豊かさ、成長度など30指標別にランキング付けを行なっている▼暮らしやすさの1位は千代田区、2位砂川市、3位富山県砺波市。豊かさでは1位が千代田区、2位中央区、3位静岡県湖西市。成長度では1位が千葉県印西市、2位兵庫県三田市、3位が千葉県八街市の順▼厚木市が50位以内に入るのは、1人当たりの飲食店販売額159,000円で26位、生産年齢人口伸び率18.8%の31位ぐらいだ。ちなみに人口の伸び率は6%で94位、1人当たりの預貯金額378万円で112位、製造品出荷額が367万円で163位▼県下で注目されるのは、豊かさで全国29位・1人当たり製造品出荷額10位の南足柄市、成長度28位・人口の伸び率63位・製造品出荷額の伸び率31位の海老名市、そして人口の伸び率が2ケタで全国26位の伊勢原市である▼かつて厚木市は全国でも有数の活力ある都市とランクづけされた。今、それが海老名市、伊勢原市、南足柄市に移行しつつある。厚木市は都市のインフラ、特に交通のインフラが整備されないままに成熟期に入った。しかも情報化、国際化といった変化の激しい波が同時に押し寄せてきている。舵取りが難しい。

  民尊官卑(96・9・15)

 日本には古くから「官尊民卑」という風潮がある。行政は信用できる。つぶれない、学識があるというのがその理由だ。しかも許認可権を持ち「行政指導」という言葉で民間を規制・誘導してきたのである▼『官僚王国解体論』を著した小泉元郵政相は、「日本の現状は主権在民ではなく、在官である。つまり官僚が圧倒的な権力を持っているのだ。したがって官尊民卑の風潮が非常に強い」と述べているが、全くその通りである▼しかし、そのお役所が崩壊寸前で、長い間国民を欺いてきたという事実が、大蔵省や厚生省の「驕り」によって白日のもとにさらされてしまった。この「官尊民卑」的な意識をつぶし、革命的リストラを断行しないと日本の未来はない。各省庁や特殊法人をどう解体し、整理するのか。そこには「民尊官卑」といった逆転の発想が必要だ▼小泉元郵政大臣も、日本の危機を救う手立てとして、国民の支持が何よりも必要だと述べている。元大臣は「総理大臣の選挙権、東京一極集中の既得権、官僚の既得権をぶち壊さないかぎり、われわれの後に続く世代は大きなツケを背負わされて21世紀を生きなければならなくなる…日本の現体制を一旦解体しなければならないのだ。それだけに国民の支持が何よりも求められている」と指摘している▼政治家のいうことがほとんど期待出来ない今日、行財政改革は民間だけで荒治療を行なうべき時期にきている。今日の土光敏夫が必要なのである。そうしないと、旧国鉄の27兆円の債務、国の240兆円の赤字国債のツケだけが国民に回されてしまうのだ▼消費税率のアップと介護保険の導入で新たな負担を国民に求め、一時凌ぎをするという官僚の思惑に、われわれ国民は納税者としての反乱を起こさねばなるまい。

  選挙の風(96・10・15)

 神奈川新聞が面白い記事を特集していた。過去20年間の国政選挙における県内に吹いた「風」の検証である▼76年12月の衆院選は、新自由クラブがブームを呼び、県内の全選挙区ですべてトップ当選を果たした。90年の衆院選では消費税問題で社会党が大勝、93年の衆院選では、日本新党ブームと、これに続く新生党、さきがけの3党が驚異的な得票率を記録した。その後、95年の参院選では新進党が躍進、県内でも第1党になった▼今回はどこの政党に「風」が吹くのであろうか。面白いのは、過去の衆院選の節目節目で躍進した政党が、現在、存在していないという事実である。新自クも社会党も、日本新党も、新生党もいつの間にか消えてしまった▼新党ブームの再現があるのか、それとも自民の回帰か、あるいは3極構造が定着していくのか極めて興味深い選挙になる▼ところで、各政党は政権獲得の際に連立のパートナーとしてどこと組むかということを明確にしてはいない。連立与党にしても過半数を取れなかった場合を想定すると、これは国民に対して極めて不誠実である▼例えば行革政権になるのなら、どことは組めるとか組めないとかを、各政党は明確にする必要があるだろう。有権者にとって、自分が投票する政党がどこの政党と組むかということは、投票行動の重大な要素になる。なぜなら、政権欲しさに政策が180度変わったり、無節操な政党では困るからである。

  人生の受け皿(96・11・1)

 人生80年時代を迎えて、50年型人生のリフォームとイノベーションが求められている。労働時間の短縮と価値観の変化によって、人生の受皿の中心が、職場から家庭、地域生活に移ってきているのだ▼この日本人の時間的資源を、ゆとりや幸福の追求、蘇生感のある地域共同体づくり、さらには社会貢献や国際貢献に振り向け、これを支援するような政治と行政システムの構築が求められている▼重要なのは、ゆとりとか公正とか連帯という概念である。ゆとりの中核となる環境、福祉、教育、文化の実現には、社会全体の連帯が必要だし、連帯を強めるためには公正な社会を目ざすのが前提だ▼ここでは既存のイデオロギーやイズムは全く通用しない。いってみれば社会の構成員すべてが公共性を重視し、かつお互いの個性を尊重する社会の実現をめざすべきなのである▼ボランティア活動や市民運動などは、こうした社会を実現するための大きな担い手になるだろうし、ゆとり、公正、連帯にもとづく市民の地域活動が定着するならば、政治や行政に大きなインパクトを与えるばかりでなく、硬直化し官僚化した公的サービスを人間化することも可能である▼行政はもっとこうした分野に目を向けなければならない。行財政改革は社会システムの新しい構築と裏腹の関係にあるのだ。

  ボランティア切符(96・11・15)

 阪神大震災で民間のボランティアが大活躍した。本来なら公共的な官の仕事を民間人がやってくれたのである。これは民が官を補完した好例であるが、これからは民間が公共的な仕事をまかされるべき時代である▼これまでボランティアは市場経済や政治、行政システムではカバー出来ない問題解決に関する市民の自主的な支援活動と受けとめられてきた。しかも、高い精神性や無報酬、友愛などで動機づけられているのが特徴だ▼今日、ボランティアの領域は教育、福祉、環境、医療、リサイクル、施設、国際交流、行政ボラ、そして金銭や物資援助など驚くほど多岐におよんでいる。これらの活動は、行政サービスの分野をうまく補完しているといっても過言ではない▼ところが、近年ボランティアを実利的にとらえる考え方が出できた。それはボランティアを自立的活動としてとらえ、参加した人の投じた時間を貯蓄し、自分が必要になったときにその時間を引き出すという交換システムである。これを「ボランティア切符」として全国ネットワークに拡大しようという考えである。これは「さわやか文化財団」の堀田力氏の考えである▼その背景には、行政や政治、地域社会の対応を待っていたのでは、手遅れになる問題や、人生80年代を迎えて、地域社会に積極的にかかわろうという意欲の現れがある▼こうした活動が主力になると、単なる行政の補完的活動ではなく、まちづくりの中心的な担い手として、大きな注目を浴びてこよう。地方分権の時代にふさわしい、新しい社会システムの創造が必要だ。

  公務員と税金(96・12・1)

 公務員のモラルが問われている。食糧費や接待費、カラ出張による税金の誤魔化しなどの実態が浮き彫りにされ、官僚が激しくやり玉に挙げられているのである▼昔から公務員は親方日の丸的な発想と行動で、すべてが条例や規則、慣例主義。保身のみに生き、新しいことを考えず、やらず、責任をとらず、個性が乏しいと見られてきた▼民間では1時間でやる仕事を1日、1人で出来る仕事を3人でやると批判されるほとで、公務員の非能率性や非生産性は周知のごとくである▼これは競争原理が働かないということもさることながら、公務員は汗水垂らして金を稼ぐということを知らないからだ。なぜならお金はだまっていても入って来るからである。民間と違ってお金の苦労やお金の有難みなどはまったく分からない。だから税金を誤魔化して使ったり、無駄に使うのは平気なのである▼昔テレビのCFに「あなた作る人・私食べる人」というのがあったが、公務員はまさに、国民が稼いだお金をただ使うだけという種族である。こうした意識が、国や地方の台所をどれほど無駄にしてきたかは想像に難くない▼国が240兆円の赤字国債を抱え、来年度も21兆円の歳入不足が予想されるという事態は、民間でいえばとっくに企業倒産であろう。にもかかわらず公務員のコスト意識や行革に対する認識は驚くほど低いのである▼こういう非常事態を目の前にして、国民が反乱を起こし、税金の不払い運動を起こさないのは本当に不思議でならない。

  行政のアカウンタビリティー(96・12・15)

 国や地方の財政状況は、予算書や決算書を見れば大まかな点をつかむことが出来る。しかし、実際には地方交付税による税金の再配分など、国と地方で複雑な資金のやりとりがあるため、受益と負担の関係が見えにくい▼これは、税金に関する情報公開が遅れており、不十分であるからだ。税金に対する公開性や透明性を、専門用語で「アカウンタビリティ」と呼ぶ。税金の使途について「答える責任、申開きをする責任」という意味であるが、英国ではこれが社会にかなり浸透しているそうだ▼例えば「厚木市にはこれだけの予算項目があって、これだけの歳出が必要である。国からの交付税が少ないので、これだけ自前の税金が必要だ。従って市民1人当たりいくらになる」ということがパンフレットになって届けられるのである。▼日本もこのように税金の実態をきちんと説明する仕組みを作るべきではないだろうか。市の予算と税金の水準、行革の進捗度などを納税者がきちんと知ることが出来るようにするのである▼そうすれば税についての市民のチェック機能が働き、空出張や官官接待など不要なものはすぐに見破られてしまうし、歳出の増大は増税につながるから、為政者は無駄を省くような努力をせざるを得なくなるだろう。財政改革は本来はこうした情報公開から手をつけなければならない。

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