風見鶏

1999.1.1〜199.12.15

 3セクの破綻処理方法(99・12・15)

 第3セクターの経営が行き詰まり、やむを得ず会社を整理しなければならなくなった場合、どのような破綻処理の方法があるだろうか▼自治大学讀谷山(よみやま)洋司教授は、「法的破産と任意整理がある。法的整理には、 @破産 A特別清算 B和議 C会社整理 D会社更生のの5つがあり、そのどれを選択するかは清算か、再建か、また債権者・株主・労働者などそれぞれの条件によって異なる」(『第3セクター明日への課題』ぎょうせい)と述べている▼全国に数多く存在する3セクは、規模や事業内容、設立の目的・経緯・経営陣や株主、債権者の内容がそれぞれに異なっている。破綻に至った場合の処理もケースバイケースとなるだろう。自治体の支出が伴う場合もあれば、そうでない場合もある▼讀谷山教授は「大事なことは会社の経営陣が責任をもって3セクの運営に当たることでああり、株主と経営陣の間で、十分協議しながらその都度責任の所在を明らかにしていくことである」と指摘している▼ところが実際には株主も経営陣ももたれあいという無責任な意識の下で、3セクが運営されているケースが多いという。それぞれが都合のいい解釈をしながら、事業が推進されていくことは最悪の事態を招くおそれがある▼そうした無責任な運営をしている三セクほど経営が悪化し、しかも破綻処理のコストが大きくなる。厚木テレコムがかかえているリスクはまさにこれである。
  
 自治会を下請から委託へ(99・12・1)

 自治会長の連絡調整を目的とした自治会連絡協議会の理事に市が報償金を支払っているのは違法だとして、このほど厚木市の土地家屋調査士が、住民監査請求を行った。市側は「長い歴史があり、すぐにやめるわけにはいかない」という▼愛知学泉大学の山崎丈夫助教授は「これまで市は自治会を行政の客体ととらえ、地域の共同処理の領域を行政施策を通じて縦割りで分割してきた。一方で住民はまちづくりについて、住民自治推進のための参加に関心を示さず、安易な行政依存体質を強めてきたのである。その結果、住民による地域の問題解決能力が著しく低下した」(『住民と自治』1999年2月号)と指摘している▼そこには市民参加という名のもとに市側にとって実に都合の良い自治会が存在してきた。市はその見返りとして、自治会長へ報償金を出したり研修旅行に招待してきたのである。自連協理事への報償金もこれと同様の支出である▼厚木市では自治会長個人への報償金は今年の4月から廃止され、自治会組織への「行政協力費」に変わった。支出先をこれまでの個人から組織に変えただけで、考え方はこれまでと全く同じである。報償金を廃止したにもかかわらず、どういう事情からか自連協理事への報償金が残ってしまったのである▼そろそろ「自治会を行政にとって都合のいいように使う」という発想はもうやめたらどうか。行政が施策の遂行や実施に当たって自治会を活用するのなら、それは「下請」ではなく、「委託事業」として自治会と契約し、きちんとした代金を支払うべきなのである。地域の公共施設の管理を自治会に任せるとか、福祉サービスを自治会に委託するとか、場合によっては自治会が積極的に委託を受けるケースも出てこよう▼自治会もつまらぬ下請的な仕事は拒否するという成長した自治会でなければなるまい。これからの自治会は、「行政サービスを市に代わってやるので、予算をよこせ」ぐらいの発想が必要なのである。

 今市市の住民投票条例(99・11・15)

 「人や地球にやさしい都市―オアシス都市構想」をまちづくりに掲げている栃木県今市市(いまいちし)の福田昭夫市長が、このほど常設の住民投票条例案を制定する方針を固め、12月議会へ提出する▼通常、住民投票条例は、住民の直接請求などにもとずき、個別事業ごとに制定されている。だが、同市の案は、投票そのものの手続きを自治体として定めるもので、投票のテーマにも限定がない。議会で可決されれば全国でも初めてのケースとなる▼福田市長は条例案の骨子を発表した際、「行政への住民参加の究極の形」とその意義を語っている。市長や議員を選ぶとき、市民は総合評価で選んでおり、個別政策で選んでいるわけではない。従って重大な事項については、一つひとつ市民が意思表示をするのが民主的であるというのである▼投票の対象は「今市市のまちづくりに重大な影響を与える問題」で、住民投票を請求できる者は、@有権者の50分の1以上の署名を集めた請求代表者、A定数の8分の1以上の議員、 B市長―の三者で、請求があった場合、議会は住民投票を行なうかどうかを決議する。投票結果について市長は、過半数の意思を尊重するという▼民主主義というのは、市民がいつでも自分の意思表示ができる制度が保障されていることである。「市民が主役の市政」を内実のあるものにしようとする福田市長に敬意を表したい。(この条例案は12月議会で否決された)

 行政指導(99・11・1)

 通産省は来年の通常国会に提出する「中小企業指導法」の名称を含め、「指導」という言葉の使用を全面的にやめるという。国や都道府県が中小企業を「指導」するという法的な位置づけを全面的に廃止し、庁内にある「指導部」や「指導課」といった名称も、2001年の省庁再編に合わせて変更するという▼地方の時代が叫ばれたころ、役人も政治家もこぞって「上位下達」から「下位上達」を大合唱した。あれから20数年。通産省はやっと「もう上位下達の時代ではなくなった。官が民を指導するという考えも、もう世の中に受け入れられない」と廃止の理由を決めたという▼「行政指導」という言葉は、官が賢くて利口だという意識を想定させる。そして民は信頼できない、放任しておくと何をするか分からないので、官が「許認可権」を持って、正しい道や方向性を規制・誘導するという意味の言葉になっている現れている▼しかし、今日では学識では民のレベルの方が圧倒的に高い。これまでモラルが高いといわれてきた官の信用もここ数年ガタ落ちである。通産省は技術革新が進み、経営が複雑化している今日、役人の頭ではとても民にはついていけないと正直な気持ちを吐露している▼この際「行政指導」という言葉をすべてのお役所から追放してはどうか。納税者から見れば「行政指導」ではなくて「行政支援」を期待しているのである。

 稚内発−学び座(99・10・15)

 校内暴力で荒れていた中学生たちが「踊り」を通じて立ち直っていった様子を描いた映画「稚内発―学び座」の上映会が、11月11日愛川町文化会館で開かれた▼映画のモデルは北海道の稚内市立南中学校。全国一荒れた中学校といわれた南中の生徒が、民謡歌手の伊藤多喜雄さんが歌うロック調の「ソーラン節」に、春日寿升さんが独自の振付をしたソーラン節を踊る。「踊りの型よりも、自分を表現することにこだわった。真剣勝負だった」と春日さん。やがて同中の踊りは全国大会で一位になった▼伊藤さんや春日さんのセンスは素晴らしい。「民謡は古くさい、地味だ、かっこ悪い」という若者が持つイメージを、ロックやファンク、リズム&ブルースを取り入れて現代風にアレンジ、見事に若者の心をとらえたのである▼「新しい、なんかいい、日本ぽくていいい、かっこいい」稚内南中では、この「よさいこいソーラン」を通して、学校全体がいきいきとし中学生が除々に心を開き始めた。そして生徒同士、生徒と先生、親と子が信頼を取り戻していった。しかも伝統文化に現代の若者感覚を取り入れることによって新しい文化の創造に成功したのである。この踊りは北海道の新しい民謡として若者たちの間に爆発的に広まった▼「子どもたちは愛情だけで育たない。夢がなければ」―学び座は「いま日本で一番大切な映画」といわれている。

 テレコムの政策責任(99・10・1)

 「厚木の21世紀を左右する核になる」「21世紀の厚木市の財政基盤を担うもの」厚木テレコムタウン計画を手がけた足立原前市長が、立ち上げ当時、筆者に語った言葉である▼東名厚木インターそばに「業務核都市」の形成と郵政省の「テレコムタウン構想」に基づく巨大なプロジェクトが用意された。そこには官民あげて高度情報都市づくりをめざすという期待感があった▼だが、コスト計算はバブル時のままだった。国策と時流に安易に乗ったため、厚木市の個性が消えてしまった。ローカルにしてグローバルという戦略もなかった。やがてバブルが崩壊した。テレコムビルのオープン時の入居率は五割にも満たなかった▼その後、市長が山口氏に変わった。山口市長は思いツケを背負わされて登場した。「青島さん(東京都知事)の心境ですよ」当選後、山口市長は筆者にこう語った。そして、「3セクの社長は市長がなるべきではない。天下りをやめ民間にお願いしたい」市長自ら社長に就くことはなかったが、天下りは依然として続いた▼山口市長は4年間、アクセルもブレーキも踏まなかった。青島さんのような決断はしなかったのである。そして今日のテレコムの経営危機がいっそう深刻になった。事業経営の慎重さに欠けた足立原前市長と事業存否の決断に欠けた山口市長。両者ともその政治責任は免れない。

 恰好より中身(99・7・1)

 厚木市議選が7月11日告示される。今回は今期限りで引退する現職長老が多く、議会の世代交代が進みそうだ▼当選回数の多い議員が引退するというのは、理事者とのもたれあいや政治感覚のマヒに陥りやすいという点から考えると、歓迎すべきことであろう。その分、新人の当選機会が増え、結果として議会の活性化を促すことにもつながる▼厚木市の選挙も時代の流れとともに大分変わってきた。最近は規制政党や地域代表型で出て来る人たちとは異なって、後援会組織をもたず、市民運動型や無党派型、あるいはパフォーマンス型ともいえる人たちが大勢出馬を予定している▼これらの候補は地域を歩いて後援会員を増やしたり、組織を固めるというよりは、駅頭や街頭に立って、政策を訴えたりビラを配布して、自分を売り込むというやり方だ。駅頭に立った事前運動を半年も前から続けている人もいる。こうしたやり方の背景にあるのは既成政党や地域代表に飽きてきた有権者を引きつけるには、人と同じことをやっていては駄目で、目立つことをやらなければ目的は達成できないという考えだ▼昨今はこうした選挙のやり方が、有権者の意識とマッチして、各地でかなりの当選者を出している。だが、有権者はよく人物や政策を見ないと、恰好やスタイルに騙されてしまう場合もある。形だけにこだわって極端に中身がうすっぺらな人も多いからだ。目立つことがイコール人物や政策評価につながるわけではない▼有権者は外見や形に惑わされず、冷静に中身を判断する必要があろう。

 借入金返済不能(99・6・15)

 厚木市などが出資している第3セクター「厚木テレコムパーク」の、6月分の借入金の返済について、融資先の日本開発銀行に返済の猶予を求めていることが、7日開かれた議会の一般質問で明らかになった▼同社はバブル崩壊の影響で、メイン建築物である「厚木アクストビル」へのテナントが集まらず、賃貸し料も当初の半額程度にダウン、累積赤字も増え、厳しい経営状況が続いている。借入金は開銀や都市銀行を含めると、約75億円にのぼる▼当初、3セクの事業展開を中軸とする厚木テレコムタウン計画には、3つの期待があった。第1はテレコムタウンを「業務核都市」として位置づけ、首都機能の1部を担う受皿をつくること。第2は地域情報化事業の推進によって、ニューメディアやマルチメディアが市民の新しいコミュニティ形成の手段となること。第3はこの地域開発を3セクで行なうことによって、日本でも先導的・国家的なプロジェクトを成功に導くことであった▼そしてこれは、企業の本社機能をどの程度誘致できるか、ニューメディアという新しい資源を、地域の中小企業や商店とどうアクセスさせるか、また、市民の情報化支援にどういう役割を果たせるかといった大きな課題も同時に抱えていた▼だが、この壮大な実験は当初の理念や目的から大きく外れ、3セク事態が貸しビル業と化してしまった。今後、目的に叶った事業展開を進めていくのはまず不可能だ。こうしている間にも、累積赤字だけが膨らんでいく。3セクは自助努力に見切りをつけ、1日も早く破綻処理に取り組むことが必要だ。

 厚木らしさ(99・6・1)

 厚木市の「厚木らしさの創造推進事業計画案」がまとまった。13地区の住民が知恵を絞って考えたもので、川とのふれあいなど自然環境や歴史文化的な資源を活用したものが多かった▼古今東西、山や川のある景観は、人々の暮らしに安心感を与えてきた。山と川のあるまち、いわゆる「背山臨水の地」は、人間がもっとも好む景観であるといわれてきた。つまり「前が海、後ろが山」というのは、日本人が住みたい理想の環境なのである▼ところで、東京農大農学部長の進士五十八教授は、「地方(じかた)文化は、その地方独自の自然との接し方、生産の仕方、いわゆる暮らし方の違いから生まれる」(『地方自治の論点101』時事通信社)と指摘している▼郷土色というものは、地形や地質、植生、産業などの個性が、幾重にも織り込まれ、時を重ねながら出来上がってきたものだろう。乱暴に自然を扱えば破壊的景観が露出し、金儲け主義の土地利用からは、安っぽい景観しか生まれない。戦後の厚木の歴史は多分にこうした傾向が強かった▼「厚木らしさ」の創造は、精神的財産である「ふるさと」を再構築しようという試みであろう。だが、ふるさと設計は決して表面だけのお化粧ではない。たとえば、「河川を多自然型に整備するという場合、単にせせらぎを作って、芝生や花木を植えるという表層仕上げだけでは不十分だ。水源から農地、市街地、河川、海まで連続する生態系の保全がワンセットされていなければならないのである(進士五十八教授『前掲出』)▼「厚木らしさ」は一朝一夕では出来上がらない。そこでの生業と人々の暮らしが、長い時間を積み重ねてはじめて、地域の歴史となり文化となるのである。

 審議会へは入りません(99・5・15)

 厚木市議会が各種審議会や協議会への議員の参画を取り止めるという。これは議員が審議会や協議会へ入ることによって、執行機関による議員への事前の根回しや取り込みが行なわれることに対する反省から出たものである▼昨年10月、全国市議会議長会の都市行政問題研究会が、「地方分権と市議会の活性化」に関する調査研究を行ない、「議員の審議会への参画は執行機関と議決機関は対等であるという民主的な地方政治の趣旨に反するので見直しをすべきだ」という報告書をまとめた。これを受けて全国の市議会で見直しが進んだ▼審議会と同様、議員の参画は辞退した方がいいと思われるものに監査委員がある。監査委員は自治法に基づいて設置されるもので、市長が任命して議会の同意を得ることが必要だ。仕事は市の財政の執行にとどまらず、行政全体について監査し、市長や行政委員会に報告するとともに、改善意見を述べることである▼ところが、この監査委員の活動が極めて低調なのが実状だ。それは官々接待を追求した市民オンブズマンが、公金の不明朗は使途ばかりでなく、監査委員の機能不全を指摘したことでも明らかになっている▼このため、この4月から都道府県と政令市、中核市の約80あまりの自治体に「外部監査制度」が義務づけられることになった。監査委員とは別に弁護士や公認会計士などを外部監査人として選出し、専門的な視点で独自の監査を行なうのである。最近では企業でさえ、監査を社長や常務会とは独立した機関として位置づけするところが出てきた▼市長が選出する監査委員はなぜ低調なのだろうか。それは選出の仕方に問題があるからで、市長が議会の同意を得て選任する監査委員は、官僚OBが大半を占めるし、議会選出の監査委員は議長経験者を当てるなど議会内の役職配分で決まるケースが多いからである。しかも議員から選ばれた監査委員を自分たちが同意するという誠に奇妙な選出の仕方にもなっている。これでは、中立性が保証された厳格な審査などとうてい期待できない▼審議機関、議決機関である議会は、もともと行政全体をチエックする監査機能を持っている。従って議会の機能から判断すると議会選出の監査委員はもともと不要である。議会は、これの見直しにも取り組んで欲しい。

 子ども未来計画(99・5・1)

 日本経済新聞に「パソコンを操作しているだけで楽しい」という子どもたちが増えているという記事が出ていた。子どもたちは顔の見えない相手と何時間でもメールの交換をし、チャット(インターネット上でのおしゃべり)するのが得意である▼ところが、「インターネット中毒」という症状があって、これにかかった人は、相手の顔をまともに見て話が出来ないのだという。いくら話かけても反応がなく、顔を見えないようにして衝立を立てたりして顔を見えないようにして話すと、やっと自分のことを話し始めるのだそうだ▼「人と話をする時は相手の顔を見て話せ」とよくいわれたが、ことインターネット中毒者に関してはこの教えはまったく通じない▼インターネットは人と人との直接会話を減らし、間接会話を増やす道具である。テレビゲームを含めてこのコミュニケーションにのめりこむと、子どもたちの社会性が育たない。なぜなら人の顔を見て話が出来ない人間ばかりいる社会はやはりどこか異常であるからだ▼少子化対策は情報化の中での子育てである。従って情報化から顔を背けることは出来ないし、否定することも出来ない。子どもたちの自主性を生かし、豊かな心を持つ子どもたちをどう育てたら良いのかは、学校や家庭ばかりでなく、行政にとっても大きな課題である。石原知事のように戦前の修身教育の必要性を説くひともいるが、ことはそう簡単ではない。情報化社会の中で子どもたちがバーチャルに溺れないようにするためには、現実の体験をただひたすら積み重ねるしか方法がない▼今年から「あつぎ子ども未来計画」がスタートする。施策の中に子どもたちの現実体験をどう盛り込んでいくかが正否のカギとなろう。

 無党派層動かず(99・4・15)

 39.37%。4月11日行なわれた県議選厚木選挙区の投票率である。市政施行後の県議選の投票率を見ると、昭和62年までは50%から60%を越す高い投票率だが、平成3年以降は45%台に落ち込んでいる▼今回の投票率は昭和54年の38.15%に次ぐ低いものだった。この時は現職2、新人1の3名が立候補したが、いずれも保守系でほとんんど争点がなく、しかも新人が泡沫候補であったため極めて低調だった。今回は自民、民主、共産、ネットまで4つの政党が入り乱れた政党選挙である。にもかかわらず投票率が40%を越えなかった。これはどうしてなのだろうか▼投票に行った4割は、候補者を最初から決めていた人達である。その意味では、後援会など固定票を持つ現職は低い投票率に助けられたといってよい。では6割の人はなぜ投票に行かなかったのだろうか。この日は終日雨が降って足元が悪かったが、それだけのせいではない。県会は中2階で県会議員といっても身近に感じない。立候補者が全員政党に所属していて、脱政党や無党派層を引きつける魅力がほとんどなかったなどの理由があろう▼有権者は極めて気紛れである。選択肢があっても話題性に乏しいと投票に行かないし、その時の社会情勢や気分によっても投票行動が変わる。知名度やパフォーマンスだけがうける選挙でも困るが、この無関心で気紛れな有権者は、時々良識を発揮するから、政党や候補者はその都度右往左往させられてしまう▼これからの選挙は、この気紛れな有権者をどう引きつけるかであろう。パーフォーマンスも必要だが、日頃の日常活動もおろそかにはできない。選挙は魔物だから、これといった定石はない。後援会の加入のしおりに1枚1枚名前を記入してもらうという後援会型選挙も確実に曲がり角に来ている。投票率に歯止めをかける方法はないものだろうか。

 県議選(99・4・1)

 統一地方選挙の県議選が明日告示される。長期化する不況で景気がいつになったら回復するのか、先行き不透明の中での統一地方選挙だ。会社が倒産したり、リストラに遇ったりして、選挙どころではないという有権者もいる▼厚木市選挙区に立候補する小沢、堀江、又木、寺地、釘丸の5人は、ローカルパーティを含めていずれも政党公認だ。政策や理念を掲げて、昭和50年以来、ひさびさの政党型選挙で烈しくぶつかり合う。各候補者はどんな政策を掲げて選挙にのぞむのだろうか▼「今こそ信頼と実績の政治」(小沢)「責任ある改革と実行」(堀江)「わたし発・市民の政治」(又木)「厚木新時代―古い政治を市民の力で変えよう」(寺地)「ゼネコン型選挙を減らし不況から暮らしを守る身近な県政の実現」(釘丸)―これは各候補者のスローガンだ。候補者を良く知っている者はナルホドと思うものもあるし、選挙目当てのお題目としか映らないものもある▼今回は経済不況、雇用や老後の不安、政治や官僚不信をなくし、どうやって市民を主体とした地方分権の政治をつくっていくのかが問われる選挙だろう。統一地方選挙を国の政治を変えるための第一歩にしなければなるまい。その意味では有権者の1票は極めて大事な1票だ▼今回は投票率が低ければ固定した票や組織票を持つ候補者が有利、高ければその逆で一波乱も二波乱もあると予想される。昨年の参院選挙で、政治を変えるということが面白いほど実感できる時代になった。各候補者が掲げる政策をじっくり検討して投票に行こう。政治を変えるのはやはり有権者である。

 飛耳長目(99・3・15)

 飛耳長目―遠くのことを見聞することのできる目と耳。広く情報を得ることができて多くのことをよく知っていることをいう▼山口市長は3月議会の施政方針演説で、この「飛耳長目」という格言を使った。21世紀は、新たな時代感覚が要求される。現在はもとより将来にわたってどういうニーズがあるのかをつかむ必要があるという意味で、この格言を用いたのである▼山口市長のまちづくりのスタンスは「市民が主役」である。厚木ハートプランの策定についても、市民の計画立案検討組織を発足させ、策定段階から市民の声を計画に反映させた。そして将来都市像を「私もつくる心輝く躍動のまちあつぎ」と定めたのである▼だが、「市民が主役」は行政が市民に「丸投げ」したことを、「丸返し」で受け取ることではない。市民が主役は、それを受け取る側の職員の資質も同時に問われなければならないことを意味している。市民が望むのはパブリックサーバントとして「飛耳長目」の感覚を身につけた職員であろう▼「市民が主役」は確かに耳ざわりの良い言葉ではある。だが、この言葉を乱発したり軽々に扱っては、市民参加の手法に重みがなくなる。これは形式だけでものごとが運ばれることへの危惧感である。山口市長の言う「飛耳長目」や「応機決策」の感覚を、職員がどれだけ身につけているかであろう。

 公共施設の民間委託(99・3・1)

 厚木市は4月1日から公民館や図書館、総合福祉センター、東町スポーツセンターなどの公共施設を年中無休にして開館する事業をスタートさせる。費用は年間9400万円ぐらいかかるというが、この運営管理を自治会に任せてみてはどうだろうか▼これまで休館日だった月曜や日曜、祝日の運営管理を地域の自治会に委託するのである。市の直接管理より低コストで済むし、職員を増員する必要もない。自治会には委託料が入るほか、施設の管理責任が強まり、住民の自治意識も向上する▼市は各地区の自治会連絡協議会と委託契約を結び、加盟自治会が輪番制で仕事に当たる。もちろん別な管理組織を作っても良いし、運用は自治会の自由裁量に任せるのである。委託料を報酬として住民に支払えば、新たな雇用の確保にもつながるだろうし、NPOとしての役割を果たすことも可能である。これが軌道に乗ると、次は年間の委託契約を結び、公共施設の職員を除々に住民組織に切り替えていくのである▼このやり方だと、行政改革と住民自治が同時進行する。これからの行政は安易に、都合よく自治会を利用することではなく、自治会でなければ出来ないことを委託し、自治会はそれを活動の場として資金の確保も同時に行なうという方法を考えるべきであろう▼本紙の市長選の公開質問状の中で、行政サービスの民間委託するとしたなら」の問いに、山口市長は「公共施設の管理」と答えていた。地方分権は国の財源と権限を地方に移譲するとだけではない、市町村もまた財源と権限を住民に移譲すべきなのである▼自治会は広報紙の配布などこれまで行政の下請的仕事を請け負って行政協力金をもらっていた。これからは、こうした仕事を安易に受けるより、住民自治本来の機能を高める受皿としての仕事を積極的に受けるよう行政に働きかけるべきなのである。

 鉛筆と消しゴムで書く(99・2・15)

 コスモス文学賞に入選した岩下直子さん(厚木市下川入)は、家事が終わった夜に机に向かって黙々と原稿を書き続ける。昔ながらの鉛筆と消しゴムを使った作業だ▼書き始めると、何かに取り憑かれたように手がひとりでに動いていくそうだ。だが、一時間もすると机が消しゴムの屑でいっぱいになる。筆者もワープロが出てくる以前は鉛筆と消しゴムで原稿を書く毎日だった。指のタコと消しゴムの屑にはいつも閉口したが、ワープロがこの悩みを一挙に解決してくれた。だから、岩下さんが鉛筆と消しゴムを使って、1千枚以上の長編を書き上げると聞いてまったく驚いてしまった▼神奈川新聞に「一隅から」という随筆を連載している作家の中野孝次さんは、昔から万年筆党である。世間がどう変わろうと万年筆以外では原稿を書かないのだそうだ。それにワープロ原稿だと書きての癖や筆跡が残らないし、サインだけ自著では味気ないという▼芥川賞を受賞した学生作家・平野啓一郎さんの小説『日蝕』の中に「盥嗽」(かんそう)という言葉がふんだんに出てくる。手や顔を洗い口をすすぐことの意だが、現代ではこういう言葉はほとんど使わなくなった。ジャーナリストの筑紫哲也さんは、「戦後の当用漢字は不必要な漢字を削ぎ落として、やさしい漢字の文章を奨励してきた。つまり、旧字が詰まった難しい文章を敬遠してきたのである」(「多事争論」)と指摘している▼日本の小説はもともと言葉を駆使する芸術である。ワープロでは「盥嗽」などという字はとても拾えない。鉛筆と消しゴムの出番はまだまだある。

 公開質問状(99・2・1)

 厚木市長選立候補予定者に提出した公開質問状の回答を見ると、各自はそれぞれに異なった考え方を示していて面白い▼厚木市の最大の行政課題は、山口氏が「交通対策」、滝沢氏が「行財政改革」で、共に時代や現実に則した答えが返ってきた。これだけは実現したいという施策では、山口氏が「ハートプランの推進」、滝沢氏が「全小中学校の耐震補強工事」である▼業務核都市に関する質問では、山口氏が「民間活力を生かした整備」挙げ、行政主導は避けたい考えを示した。滝沢氏は「市民にとってメリットが少ない」として「膨大な財政支出を環境破壊をともなう計画は返上する」と述べている▼累積赤字が問題となっているテレコムの経営については、滝沢氏が「出資金を放棄して撤退」という回答を寄せたが、山口氏は「株主で方向を決め、経営方針を確立すべき」として、行政の過度の介入を避ける考えを示した▼職員に欠けているものでは、山口氏が「経営感覚」、滝沢氏は望むものとして「やる気を起こさせる体制」を挙げた。市民オンブズマンについては、滝沢氏が「積極的に導入」と答えたが、山口氏は「市民が主役の行政を推進しており、わたしの提案などで住民ニーズの把握につとめている」と、導入には否定的だ▼住民投票については、滝沢氏は賛成、山口氏は反対。19の質問のうち、NPOへの対応と、行政サービスの民間委託については、2人とも回答が同じだった。投票の参考になれば幸いである。

 相模川アクアタウン構想(99・1・15)

 このほど神奈川再生研究会(北村修一会長)がまとめた「湘南湘北アクアタウン構想」は、21世紀の神奈川の湘南・県央地域像を「水辺」をまちづくりの基盤とした環境共生都市の形成に求めている▼古代より日本人の生活・民俗を形作ってきたのは「川の手」である。川は日本人の心のふるさととして生活の場に根づき、さまざまな文化を生み出す源であった。だが、その川が日本の近代化の中で姿を変えた。排水による水質汚濁、砂利採取、上流にはダムがつくられ、水路も埋められた。そして鉄道や道路が発達して橋が架かり、舟運は過去のものとなってしまった▼この川は山と同様、自然の境界となり「川向こうは別世界」などと呼ばれ、文化の遅れた地域の代名詞にも利用された。行政もこの川の遮断性を巧みに利用して県境や市境として国土を治めたのである▼ところで、「背山臨水の地」というのが、日本人の住みたい理想の環境だという。湘南・県央も前が相模湾の海、後ろが丹沢や大山という条件を満たした理想的な地域である▼「湘南」という地名は、温暖な気候と海・山の美しい自然に恵まれた相模国南部が、中国湖南省の洞庭湖に注ぐ風光明媚な「湘江」南岸に似ていることから、昔の文人たちが「相南」を「湘南」と言い換えたのが始まりだ(三橋貴義著『湘南の逆襲』かなしん出版)▼神奈川再生研究会が提唱するこの湘南ブランドの広域化と相模川を軸とする水辺や川の手文化の創造には大きな夢がある。「母なる川・相模川」は、昔も今もこの地域の生命線である。

 広域行政(99・1・1)

 厚木市と愛川町、清川村で防災協力やごみ処理、住民票の相互交付を行なうという「広域行政」が進んでいる。これまで多くの自治体ではあらゆる施設やサービスを、自前でやろうととしてきた。しかし、多様な住民サービスや高度なサービスは、技術的にも財政的には難しい時代になっている。こうした問題を解決し、より高次のサービスを提供していくためには、道路や通信網を軸に都市連合を組み、共同で文化施設や病院、情報通信サービスを提供していくべきであろう▼長野県伊那谷地域では、伊那市の中央病院が癌、駒ヶ根市の伊南総合病院が脳外科、飯田市の市民病院が心臓病の分野で専門医と高度な医療施設を持ち、中央自動車道を使って互いに機能の分担を図っている(『地方自治の論点101』時事通信社)▼福岡大学工学部の吉田信夫教授は「いまどき、それぞれの市町村が補助金を目当てに、何が何でもすべての施設をスーパーマーットのようにワンセットで抱え込む時代ではない。市町村が話し合い、専用の施設を連合して創り上げる時代である」と述べている▼A市は図書館、B市は野球場、C市はマルチメディアサービスといったようにやると、一つひとつの機能により多くの投資が可能になり、高次のサービスを提供していくことが可能だ▼都市連合や広域行政のあり方は、都市間格差の是正や共通課題だけの対応ではない。身近なサービスは各自治体が地域の特性に合わせてキメ細かなサービスを展開していくべきだが、より高次のサービスは都市連合で組み、専門化することによって合作で提供していくことであろう▼「21世紀の都市づくりのコンセプトは、地域の市町村が合従を組んで、よりパワーアップ、よりグレードアップしたサービスの提供をいかに進めるかにかかっている。そうしなければ都市と都市、地域と地域が競い合う時代には生き残れない」(福岡大学工学部教授・吉田信夫)。

.