青学移転         市民かわら版編集長 山本耀暉      

 平成11年(1999)10月のある日、驚くような情報が飛び込んできた。それは親しくしている知人からの電話だった。
 「青山学院が厚木から出ていくらしい。行き先は相模原だ」
 「そんなバカな」というのが私の第一印象だった。なぜなら、青山学院は昭和57年(1982)4月、研究学園都市「森の里」誘致施設の第1号として開校、以来、押しも押されもせぬ「教育文化都市あつぎ」のシンボルとなっていたからである。
 <青学が出ていくはずがない。そんなことになったら教育文化都市のイメージダウンは免れない。どうせガセ種(ねた)でもつかませられたのだろう>
 私はそう思ったが、普段のつきあいからして知人が嘘をつくはずもない。もしもこれが事実だったら大スクープだ。情報を知って取材を怠るのは、マスコミの底辺に身を置く者としては沽券にもかかわる。「せっかく教えてやったのに」と後で知人から何を言われるかもわからない。私はそう思うと、この情報の裏を取ることに決めた。
 翌日は日曜日だった。私は親しくしていた青山学院大学のO氏の自宅に電話をかけた。
 「実は妙な話を聞いたんだが……、詳しく話をきかせてもらえないだろうか」
 彼は大学では課長職にあって、理事会の動きについてもかなり精通していた。
 「山本さん、早いね」というのがO氏の第一声だった。
 私はこの一言で「これは間違いない」と即断した。すぐに会えないだろうかと申し入れると、「今日は休みなので構わない」という返事が返ってきた。私はO氏の家の近くのファミリーレストランで会うことにした。
 10月15日号の締切が迫っていたので、うまく話が聞ければ15日号に間に合う。知人の話では日刊紙はまだ気がついていないようだという。もし、日刊紙に情報が漏れれば、たちまちのうちに記事にされてしまうだろう。日刊紙の記者は年に350回ほど書くチャンスがある。月2回しか発行していない吹けば飛ぶようなミニコミ紙とはわけが違うのだ。実際、過去にもそういうことが何度かあった。
 私は約束の時間にO氏の家を訪問した。そして彼を車に乗せてファミレスに向かった。O氏とは時々飲み会でご一緒していたので、お互いに気心が知れていた。会うのは久しぶりだった。私は15日号の記事にするということはおくびにも出さず、O氏に次々と質問を浴びせ続けた。
 O氏によると、青山学院は相模原市の淵野辺駅近くに、新日本製鉄とカルピス食品が所有している139,000平方メートル(約42,000坪)の学校用地買収計画を進めており、厚木キャンパスの移転を含めた利用を検討している。10月6日に渋谷キャンパスで開かれた教授会の席上、買収計画が発表された。理事者側から厚木キャンパス移転の公式発表はないが、学内関係者の間では、移転は周知の事実であるという。
 私は14万平方メートルの面積は、厚木キャンパスの6学部を移転させるに十分な広さであること、土地の所有者である新日本製鉄が、遅くとも平成12年3月までの売却を急いでいるということ、政令指定都市の昇格を目指す相模原市も誘致に積極的であること、そして、移転の最大要因である厚木キャンパスの交通アクセスが悪く、開校以来、学生たちや教授陣に不評(開校時に厚木市が打ち出した本厚木駅から森の里をモノレールでアクセスする新交通システム構想が頓挫したため)であるという話などを総合的に判断して、もはや移転を疑う余地はなかった。
 特に通学の不便さは、キャンパスに通った学生OBの一番の思い出として残るほどで、都内の北区や板橋区から通学した場合、通学時間は片道3時間、特に小田急線の本厚木駅に着いてからのバスが、朝の交通渋滞に遭遇すると50分もかかるというひどいものであった。これに本厚木駅から厚木キャンパスまでの往復のバス料金620円が大きな負担となっていた。相模原に移転すると、横浜線の淵野辺駅から歩いて15分で済むという。
 O氏は、9月29日開かれた理事会で、この買収計画が議題に上ったが、出席理事のうち反対の意思を表明したのは1名だけという話まで教えてくれた。
 「学内では課長以上はこの話を知っている。でも、学生はまだ知らないはず」
 O氏はそう言うと、厚木キャンパス開校の総建設費は250億円だった。当初、手持ち資金と銀行からの借入金に依存したが、借入金の返済はすでに完了しており、新たな投資にも対応できる経営内容である。それに「青学では現在、綱島グランドの売却を進めている。厚木キャンパスがすぐに売れなくても借り入れに依存する必要はないと思う」と財政的な裏づけも説明してくれた。
 ここまで聞き出せば状況証拠は十分すぎるほど十分だ。私は記事にする決意を固めた。
 「断定的に書いて大丈夫だろうか」
 「90%間違いないと思うよ。理事者に確認するのも手だが、でも絶対に教えないだろうな」
 私もそう思ったので、理事者へ確認を取るのはやめた。でも、急いで厚木キャンパスの歴史と青学の概要を調べなくてはならない。写真も必要だ。
 その日の午後、私は厚木キャンパスに飛んだ。というのはちょうどその日は青学の学園祭で、一般の人も学内に自由に出入りできたからである。学園祭では、来校者に大学案内のパンフレットを用意していた。まさに「渡りに船」である。しかも厚木キャンパスの航空写真まで出ている。
 私はそれを一部もらうと、キャンパスを一巡りし、2〜3人の学生をつかまえて厚木キャンパス移転の話を聞いてみた。でも知っている学生は1人もいなかった。学生に知れると話は早い。あっという間に全学生に広まるだろう。これでこの話が課長レベルに止まっていることも証明された。
 私は帰宅すると、市民かわら版を閉じてあるファイル帳から、17年前の青山学院の記事を引っ張り出した。そこには、開校時の概要が書かれてあった。その記事とT氏から聞き出した取材メモ、大学案内を広げながら、その日のうちに一気呵成に記事をまとめ上げた。
 さすがに大見出しの付け方は何度も躊躇した。
 「青山学院、厚木から撤退!}
 「青山学院、厚木から撤退?」
 「!」と「?」の違いである。「!」は断定的だ。「?」は疑問符だから逃げ道がある。自分では「!」に間違いないと思うのだが、もし誤報だったら大変なことになる。もちろん、T氏の話が嘘だとは思っていない。
 私はさんざん悩んだ挙げ句「?!}の2つの記号をつけて、記事を送り込んだ。もちろん1面トップである。新聞が出るのは4日後だ。あとは日刊紙に情報が漏れないよう祈るだけである。私は毎朝、朝日・毎日・読売、そして神奈川新聞に目をやった。しかし、3日間とも青学に関する記事はどこにもなかった。
 これでスクープは間違いない。
 10月15日の朝、O氏から電話があった。学内で大騒ぎになっている。朝から日刊紙の電話が殺到しているので、厚木キャンパスとしては対応せずに問い合わせはすべて渋谷本部に回すようにしたという。本部に「市民かわら版」の記事を切り取ってFAXで送ると、それを読んだ本部から、「理事会決議のことや借入金を返済したことまで出ている。ローカル紙が何でそんなことまで知っているのか」と驚いていたそうだ。
 学内では早速、犯人捜しが始まった。O氏に一番疑いの目がかけられたのである。私はO氏の向う意気の強い性格を良く知っている。そんなことでひるむO氏ではない。真っ向から否定したので、とうとう犯人捜しはうやむやになってしまった。
 日刊紙からの問い合わせに、最初はのらりくらりとかわしていた渋谷本部でも、とうとうかわしきれずに、その日の午後、記者会見を開く羽目になってしまった。私のところにも渋谷本部の広報課から会見資料のFAXが入った。それは新日本製鉄との間において、同社相模原研究所跡地の購入交渉に入ったというもので、「立地条件や周辺環境などを総合的に判断した結果、学校用地として適当であると判断、相模原市のご理解とご協力を得た上で、今後同社との間で用地取得交渉に入ることを決定した。新キャンパスについては広く利便で快適なキャンパスを建設し、充実した教育環境の実現を目指して、今後その詳細を検討し進出計画を決定することといたしますが、厚木など現在あるキャンパスの移転も検討の対象にしております」という内容のものだった。
 この日は、厚木市の広報課にも記者クラブからの問い合わせが殺到した。市当局もこの情報をつかんでいなかったし、事前の相談もなかったので、やはり大騒ぎとなったのである。
 山口巌雄市長は全国市長会の会合に出席するため、出張していて留守だった。市幹部からの連絡に「約束が違うではないか」と声を荒げたという。教育文化都市のシンボルとして誘致した施設第一号である。厚木市は進出にともないまちの名前も「森の里青山」と名づけたぐらいだ。その施設が出ていくことなどありえないという思いこみである。
 青山学院移転の最大の要因は、交通アクセスが悪いということもさることながら、少子化により大学に入学する学生数の減少が加速の一途を辿っている中で、キャンパスが少しでも都会に近づくことが大学の生き残りをかけた戦略であったのである。
 翌日の日刊紙の地方版は、青学移転の記事が紙面を大きく飾った。地元紙の神奈川新聞は第一面トップ扱いである。
 私は「してやったり」と思った。記事を読んだ誰もが「ホントか」と言ってきたが、「私は嘘は書かない」というしかなかった。中には「こんなこと書いてもいいの」と言ってきた人もいて、これには恐れ入った。
 慌てた厚木市はすぐさま「青山学院大学厚木キャンパス対策連絡協議会」を発足、12月21日大学側に存続を要望したが、時すでに遅しで、青山学院は翌年の3月には新日鉄との間に売買契約を結んでしまった。買収価格は約160億円だったが、横浜市にある綱島グランドを約280億円で売却したため、O氏の言うとおり、厚木キャンパスがすぐに売れなくても、移転には支障がないのであった。
 それ以降、青学に関する情報を常にマークするようにしたが、今度は逆にこちらが警戒されてしまった。ところがこれが縁で、後日、予期せぬところから青学の跡地売却の話が舞い込んできた。これもスクープになった。
 平成14年(2002)の3月である。青学跡地を日産自動車が買収するという情報が入ってきたのである。それは意外なところからだった。ニュースソース氏は青学移転をスクープしたのだから、私がすでに知っていると思って口を滑らしたのであった。もちろん、その時点では私も知らなかった。
 「山口市長も知らないと思うよ」
 そのニュースソース氏はそういうと、契約日は3月14日であると教えてくれた。
 厚木市は3月議会の会期中であった。一般質問を傍聴していた私は、たまたま休憩でトイレに立った山口市長と出会ったので、「日産が青山学院の跡地を買収する。近いうちに市に連絡があるものと思う。市としては税収増につながるし、イメージも悪くない、良かったですね」とそっと耳打ちしてあげたが、山口市長からは何の返答も返ってこなかった。市長はまだご存知なかったようである。私は予定稿として山口市長のコメント入り原稿をまとめ、広報課を通して確認を依頼した。
 というのは、日産自動車と青山学院の売買契約が3月14日になっていたので、15日号の締切にはとうてい間に合わないため、ホームページに出すつもりでいたのである。それともう一つは厚木市に事前に情報が届いていたかどうかを探る意味もあった。市に情報がもたらされていなければ、市長がコメントを出すわけにはいかない。私は遅くとも11日までには青学売却の記事をホームページにアップするつもりでいた。仮に市長からコメントがもらえなくても、コメント抜きで報道するつもりでいたのである。
 案の定、市長サイドからは「コメントを出すなんてとんでもない」という連絡が広報課長と秘書課長から入った。ホームページに出すのも(会見があるまで)できれば待ってほしいという口振りだったが、大きなお世話である。市長の談話抜きならとっくに報道していたかもしれないのに、こちらは親切心で言っているだけの話である。
 私は3月11日のホームページに「青山学院大学厚木キャンパスを日産自動車が買収・研究施設として活用」とする記事を載せた。
 それを見た日刊紙の記者が電話でニュースソースの探りを入れてきた。「日産本社か、青学か」と聞くので、「残念ながらそのどちらでもない」と答えた。もちろん厚木市でもない。といって教えるわけにもいかず、仕方がないのでヒントを教えてあげた。でも、その記者はその組織のどのセクションに尋ねれば良いか解らなかったと思う。
 売買契約が結ばれた3月14日、厚木テレコムタウンの厚木アクストビルに、日産の関連会社が入居するという話も同時に発表された。これは売買契約の記事と一緒に日刊紙も報じたが、私のところには、第3セクターの厚木テレコムパークが、坪1万円を下回るけた外れの賃料で契約したという情報まで入ってきたのである。
 私はその賃料までホームページに入れ込んだが、議会の全員協議会で、与党保守系のある議員が「市民かわら版のホームページに、賃料のことまで出ているのは問題だ」というまったく見当外れな質問をしたと聞いて驚いた。
 記事に間違いがあるのならともかく、報道機関が書いた記事に何故そこまで出るのかといちゃもんをつけるというのは、それこそ問題ではないか。この議員は報道というものをまったく解っていないのだと思った。こちらは市当局がニュースソースではないし、市も議員から見当違いなことを聞かれても困るだろうが、担当部長は「市も知らないことを、市民かわら版がどうして知っているのか解らない」と答えるしかなかったという。
 そんなことで、「青学問題」は、結局、移転から跡地の売却まで市民かわら版が一貫して最初に書くことになってしまった。
 私は日刊紙と競争して記事を書いているわけではないが、月に2回しか原稿を書く機会がないという大幅なハンディを抱えるミニコミ紙でも、やりようによっては日刊紙を出し抜くスクープが取れるということを、身をもって体験した出来事であった。
(2007・8・9) 

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