厚木の大名 <N011>

烏山藩厚木役所跡      山田不二郎

烏山藩厚木役所跡:通路状の敷石遺構
 烏山藩の相模国所領支配の拠点となった厚木役所は、午頭天王社(現厚木神社)の北隣にあった。藩祖大久保常春が相模国に所領を加増された翌年の享保14年(1729)に設置されたと考えられている。
 所領の一つ高座郡田名村(相模原市)の享保十五年の年貢割付状に「永六貫六百八拾七文 陣屋入用」という付記がある。厚木役所は厚木陣屋とも呼ばれていた。
 天保〜安政年間に編まれた地誌『相中留恩記略』には厚木村の図があり、「厚木陣屋」が描かれている。門と塀に囲われた敷地の中に、複数の草葺屋根の建物や柵らしいものが見える。後年の明治維新後の資料ではあるが、地租改正後に作成された地図によると、敷地の規模は一反二畝十七歩(約1245平方メートル)であったと推定される。
 烏山藩厚木役所に関する資料はこれ以上ないが、『厚木郷土史』などからその後の顛末を見てみよう。
 慶応3年(1867)、町内に起こった大火で厚木役所は類焼。再建された建物は間もなく明治維新を迎え、新たに置かれた烏山県の出張役場となった。府県の統廃合により役場は廃止となり、建物は厚木小学校の前身、成思館に供された。

 その後、この地には愛甲郡役所や厚木町役場などが置かれ、市制施行後も市役所の庁舎が置かれてきた。市役所の建物がすべて現在地に移転した以降は、商店街の駐車場に使われていたが、昭和62年(1987)、周辺の民有地を含めた市街地再開発事業により十六階建ての高層建築が竣工した。
 昭和60年(1985)6月、この再開発事業に先立って、発掘調査が行われた。当時、江戸時代の遺跡の多くは文化財保護法に基づく「遺跡」として扱われていなかった。何とか事業者の理解を得られ、梅雨の時期ではあったが、厚木市文化財協会員を中心とした調査員が、三週間余りの調査に参加した。
 調査は、6mの間隔で平行に設定した幅2m×長さ30mの二本のトレンチ(試掘溝)を、重機で表面の砂利層を除去し、掘り下げた。一部では遺構を面的に調べるために拡張し、調査面積は約170平方メートルとなった。
 約1m下のところでは、慶応3年の火災後に建てられた建物(小学校や公共施設)に伴う基礎石と思われる、一間(6尺)間隔で規則的に並ぶ石列が検出された。
 そして、この下30センチ程の面では、建物の基礎と思われる玉石列、玉石の間に小石を敷き詰めた敷石遺構三か所、径40センチ程の埋設された木桶二つが検出された。また、この面は赤く焼けた土や多量の炭化物、陶磁器類を中心とした遺物を伴っていた。さらにこの面の下は、エゴミと呼ばれる粘土状の河川堆積物と石礫が混じった層であった。
 限定的ではあったが、資料の少ない烏山藩厚木役所について、この調査から次のようなことがわかった。
 下層の遺構面で確認された火災の痕跡は、慶応3年大火によるものと思われる。この上面で検出された建物跡との上下関係と、一緒に出土した陶磁器類の約八割が18世紀末から19世紀中頃、即ち、江戸時代後期から幕末期のものであることが根拠である。従って、この面で検出された基礎石は、『相中留恩記略』に描かれているような建物に伴うものと思われる。敷石の遺構は、敷地内の通路であろうか。埋設された木桶は便所と思われた。
 また、この下層には江戸期の遺構はなかったことから、この遺構面は同時に、享保期の厚木役所設置当時の面といえるのである。
 烏山藩厚木役所に関しては、これまでは断片的な記録や伝承に頼ってきたが、調査結果の分析を進めれば、さらに新たな事柄が判明してくるであろう。

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