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武鑑に見る烏山藩 伊従保美 |
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今回は烏山藩大久保氏について「武鑑」から見てみよう。 武鑑とは江戸時代に民間の書肆(しょし=本屋)が営利のために刊行した大名・幕府役人の名鑑である。江戸時代初期寛永頃の『大名御紋尽(ごもんづくし)』や『江戸鑑』を経由して貞享4年(1687)『本朝武鑑』で始めて武鑑の名前が冠された。 『正徳武鑑』に至り体裁が整い、明和元年(1764)の武鑑で形式が定まって、幕末に終刊する。 |
『正徳武鑑』からは、年号の改元ごとに表題を改め、項目の追加、内容の充実を売りにした。この『正徳武鑑』の売出しに成功した須原屋茂兵衛は元禄・宝永年間に相ついで出された武鑑の板株を集め「武鑑といえば須原屋」と称されるほどとなった。武鑑の典型とされた半紙半切の縦本四分冊のほか、諸大名を記載した『袖珍武鑑』(半紙三ツ切・横本・一冊)、幕府諸役人を記載対象とした『袖玉武鑑』(判型前同)、間に合い紙(まにあいがみ)両面摺・一折の『万代宝鑑』、平仮名書きの『懐宝略武鑑』なども刊行した。 それに対し、特に幕末は出雲寺和泉掾(いずもじいずみのじょう)も五冊本で対抗し、天保7年(1836)以降は毎年改訂を堅持した。武鑑の終刊は明治2年(1869)の出雲寺万次郎版『万世武鑑』であった。 四冊本の内容は、巻一は十万石以上の大名、巻二は一万石以上十万石未満の大名、巻三に幕府の役人付、巻四に西丸の役人付と諸家隠居方から成る。毎年毎月・御役替・屋敷替ごとの改訂増補を慣例とした。 記載内容は、大名の部では、名乗・本姓・本国・系図・石高・官位・席次・家督年月・内室・嫡子・参勤御暇・時献上・家紋(定紋・替紋)・道具印(槍・纒・御先挟箱・押駕看板・御出馬目印・御挑燈高張・箱挑燈など)・上中下屋敷・菩提寺・居城封地・道法・歴代城主・船印(西国大名)などであった。 しかし、情報源に不正確なところもありその内容は完璧なものとは言えないようだが、江戸屋敷在勤の武士は日常政務の折衝や交際の基礎資料とし、出入り商人は商取引上必要であったし、農村の村役人は訴願の相手を知るすべとした。国許への土産として買い求めた武士もあり、大名行列の見物客の便にもなった。 さて、文化8年(1811)刊の文化武鑑で烏山藩に関する記載を見よう。 「大久保権右衛門忠為二男藤原忠知」から始まる系図が上段から下段にかけてあり、その下の枠内に大久保佐渡守忠成(第五代藩主)の名と以下の記事がある。 定紋(表紋)は上り藤の丸に剣大文字、替紋九曜紋。江戸上屋敷は浅草寺町(大手より三十六丁)、下屋敷巣鴨、江戸城詰所は雁間、文化二年五月家督相続、官位は朝散大夫(従五位下)、内室養父忠喜(大久保忠喜)娘、献上箱肴、毎年八月に参府・二月御暇、道具印には槍二本(上金四分、二本ともくり色たたき、駕籠の先)のほか纒・法被が描かれている。嫡子は大久保近江守忠保、その内室は水野和泉守忠光娘。四季時々将軍へ献上した「時献上」は正月三日御盃台・五月小杉紙・十月牛蒡・半年代り在着御礼干鯛。菩提寺は青山教学院。さらに石高三万石・居城下野那須郡烏山(江戸より三十五里)とあり、烏山城の歴代城主名が成田左馬介から始まり、松下・堀・板倉・那須・永井・稲垣氏を経て大久保氏に至り「享保十(1725)大久保佐渡守常春以後領之」の記載がある。 また、下段に記された次の人名によって、烏山藩家臣名と役職を知ることができる。都筑勘左衛門・吉田久左衛門、年寄は平野瀬兵衛・平野勘助・大石安右衛門・米田将監、用人は大塚新右衛門・石井半平・平野甚太夫・一色金左衛門・中村清兵衛・菅谷半蔵、御城使中村清兵衛。 図版からわかるように家紋や槍などの道具印は図も丁寧に描かれ、色の説明書きも詳しい。幕末の改元新版では一万五千部、役替り改訂では年千部を売ったという。武鑑の需要は江戸時代、武家の閉鎖的社会からの情報の窓口として重要視されたためであろう。 |
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