厚木の大名 <N015>

田名村門訴一件         山田不二郎

烏山藩制札場址の碑(相模原市田名)
烏山藩の所領の一つ高座郡田名村(現相模原市田名)、村域のほぼ中央部に堀ノ内集落がある。堀ノ内は相模川の支流八瀬川の源流部で大杉の池という湧水地がある。この西側近くに「烏山藩制札場址」の石碑が建っている。烏山藩が村々に発した命令や知らせは、ここに掲示され告知されていた。堀ノ内には、明治以降も村役場(現在は市の出張所)や学校などが置かれ、田名の中心の地であった。
 さて、烏山藩の領域支配は苛政といわれている。天保2年(1831)、厚木に旅した渡辺崋山が領民のあからさまな藩政批判の言を「游相日記」に記していることは、よく知られている。

 田名村が年貢以外に烏山藩に調達した御用金のうち、明治6年(1873)時点の未返済額が元利合わせて2,600両余(『相模原市史』5)もあったことは、それを示す例であろう。ところで、田名の農民が烏山藩に対して直接に窮状を訴えようとした事件が2件ある。
 一件は田名村新宿の医師渡辺玄泰の事件である。農民の窮状を憂えた玄泰は弘化4年(1847)、門訴を企て江戸に出たが、同志の密告で捕えられ投獄された。2年後には放免されることになったが、出獄の前日に獄死したという。もう一件は、田名の農民が名主八郎右衛門を先頭に江戸の烏山藩用人宅へ門訴したという事件である。吟味の結果、農民は許されたが、この用人は責任をとって切腹したという(『相模原市史』2)。渡辺崋山もこの事件を「棚(田名)村の門訴」として先の日記に聞き書きしており、切腹した用人を「谷土地兵衛」と記している。
 田名には2つの事件についての資料がなく、以上の記述も主に伝承によるが、田名村門訴事件は烏山町に残る藩士平野瀬兵衛家の「家譜」と家老若林昌恭の「勤仕中留書」(『下野国烏山藩相模国所領』)から経過の一端が明らかになる。
 文政7年(1824)12月22日、江戸からの飛脚が野州烏山に着いた。「十二月十七日相模田名村百姓ども」の門訴を報じるもので、家老若林は「容易ならざる儀」として江戸出府を命じられた。年明けの1月14日、大目付平野平助が相州出役に出立する。一旦戻った平野は同月24日に再び相州出役を命じられた。1か月後の2月23日、相州から帰任した平野は「相州田名村一条落着」を報告している。平野は田名村で「村方相い糺し、名主ども退役」とさせて村内の混乱を収拾したのであった。
 平野の出張中の1月28日、藩は責任者と見られる家老児玉郡次兵衛と谷登次兵衛を処分した。谷登次兵衛は崋山が「谷土地兵衛」と記した人物であろう。児玉は「御しかり」を受け、退隠を願い出て蟄居した。一方の谷は、役職を取り上げられ、隠居を命じられた。その後、谷に関して「不正の筋」が聞かれるようになり、3月12日、谷は自殺を遂げている。
 3月3日、御前に召された平野は、相州での「用向骨折」に対して「満足」の言葉を賜り、7石3人扶持を加増されたのであった。
 ところが、これで決着したかに見えたこの事件は、その後も「同村望地組・堀之内組の者ども追々出訴いたし彼是申立て」る始末になった。退役させた名主らを間もなく復役させたことに、村内一部に異論があったらしい。申立ては取下げられたが、名主の処分を江戸に伺うことなく行ったという理由で、6月1日、平野自身が謹慎を命じられた。
 結局のところ、田名村門訴事件の真相はわからないが、用人谷登次兵衛に係る何らかの不正が原因のようである。また、混乱が蒸し返したことは、平野の収拾策が村の総意を集めたものではなかったためらしい。いずれにしても、領主等への直接上訴(直訴)が厳禁されていた時代に、このような強硬手段に及ばざるを得なかった背景には、よほどの事情があったのであろう。    

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