厚木の大名 <N018>

5代藩主大久保忠成       山田不二郎

岡田・三島神社社号扁額
 下野国烏山藩5代藩主大久保忠成(ただしげ)。忠成は明和3年(1766)宇都宮城主松平忠恕の3男に生れ、天明7年(1787)4代藩主忠喜の養子となる。文化2年(1805)病のため隠居した忠喜の家督を継いで5代藩主となる。文政10年(1827)に隠居、嘉永4年(1851)84歳で没した(『烏山町史』)。
 この忠成の執政期について『神奈川県史』は、「藩財政の相模依存度が高く、度々莫大な用金を賦課」(別編1人物)したとしている。
 一方、『下野国烏山藩相模国所領』に引用される「烏山城址由来」(烏山町教育委員会)には、「歴代の城主は、いずれも名君で、書をよくし、詩を詠み仁政をしき、一般領民から、したわれていた。なかでも五代忠成は文化人で、詩は安達文中に師事し、書をよくした」と書かれている。また、『烏山町史』は忠成について、「書を能くし、特に草書に巧みであった。当時、諸侯中の三筆に数えられ」、「物事に淡白な性格で、名利栄達の念薄く、文人墨客に交わり、文学・書画に親しみ、興いずれば自作の詩歌を染筆して、側近の家臣や領民に与えることを楽しんだという」と述べ、「勝忠成」と署名し、美陽または采霞と号したと詳しく述べている。
 文人・忠成の事跡は、所領のあった相模国にも残っている。半原(愛川町)の染谷家には「勝忠成」書の掛軸が所蔵されている(『下野国烏山藩相模国所領』)。市内岡田にも大久保氏の所領があった。旧村社三島神社本殿に掲げられている扁額は忠成の書で、「三島大明神」の社号を書している。
 もう一つ、遠山雲如が編んだ『湘雲一朶』(しょううんいちだ)第一集に「厚木駅六勝詩」と題した忠成作の漢詩が収録されている。作者名は「勝忠成」、「字君章号美陽、故野州烏山城主」と付記されている。この書の序文にある年記は、忠成没後2年の嘉永6年5月である。「故」と付しているのはそのためなのであろう。
 遠山雲如は江戸時代末期の漢詩人であり、厚木村に一時滞留した。この時、厚木村をはじめ周辺の村々から多くの人が彼の門に馳せ参じたという(『厚木の歴史探訪2 文学碑』)。「厚木六勝」は、厚木村の書家斎藤利鐘(りしょう)が撰した「雨降山晴雪・仮屋戸喚渡・相模川清流・菅廟祠驟雨・熊野森曉鴉・桐辺堤賞月」の6つの景勝である。利鐘は厚木を訪れた文人墨客にこの六勝を案内し、絵や詩歌などの揮毫を求めたという(『相模人国記』)。天保2年(1831)、厚木を訪れた渡辺崋山も、求めに応じて6枚の「厚木六勝図」を描き、利鐘に贈っている。
 さて、忠成の「厚木駅六勝詩」は、「仮屋戸喚渡」を詠んだ次の詩で始まる。
 「渡口 漲痕大ナリ 舟ヲ呼ンデ 晩風ニ立ツ師(注:こうし。船頭のこと) 何ゾ答ヘザル
 ヤ睡ハ熟ス 萩花ノ中」(『厚木市史』文化文芸)
 「仮屋戸喚渡」は相模川の渡船場の景である。「仮屋」は渡し賃を徴収した番人用の小屋、「喚渡」は舟を呼ぶさまであろう(『厚木と游相日記』)。以下、相模川、桐辺堤(ソニー厚木工場付近)、熊野森(旭町・熊野神社)、菅廟祠(厚木中学校付近にあった天神社)、雨降山(大山)の各景を詠んだ5詩が続いている。最後に、斎藤利猷に贈った詩が寄せられている。利猷(りゆう)は利鐘の長男で、藍江と号した書家である。利猷は忠成に自作の石印を贈り、忠成はこれを謝して、末尾の1詩を作ったのであった。
 大久保忠成が厚木に来訪したというような資料は知られていないが、この利猷との交流を考えると忠成もまた、崋山と同様に厚木の地を訪れて六勝の地を散策し、詩作を求められたのかもしれない。
       
(補記:本シリーズNo9では忠成の没年を「嘉永元年」としましたが、本稿の「嘉永4年」が正しく、訂正します)

「厚木の大名」websiteの記事・写真の無断転載を禁じます。
Copyright 2004 Shimin-kawaraban.All rights reserved.