厚木の大名 <N021>

廃藩置県・郷学校        平本元一

郷学校成思館の置かれた長福寺(『宝谷山長福寺史』より転載)   享保13年(1728)、烏山藩主大久保常春が相模国内に一万石を加増され、厚木村に陣屋を構えてから明治維新に至るまで、大久保氏は百四十年間にわたり藩政を行った。では、明治維新後、烏山藩と厚木陣屋はどのような歴史をたどったのであろうか。
 慶応4年(1868)9月8日、年号は明治と改められ、この年、新政府は旧幕府の政治体制を一掃するため、江戸時代以来の藩、旗本に対し新政府への版籍奉還を命じた。

 これに伴って、厚木市内の旗本領は翌年に新政府に奉還された。また、明治4年(1871)には、藩を廃止し、県を置くこととした廃藩置県が行われ、国の新しい行政体制が整えられることとなり、旧藩領はそのままの名称を用いて県となった。したがって、烏山藩領は烏山県という行政単位となり、同じ厚木市内の荻野山中藩は山中県となったわけである。
 また、旧旗本領は江川太郎左衛門が支配する韮山県となった。しかし、この年のうちにはさらに小さな県は統一され、相模川より西は足柄県となり小田原に県庁が置かれ、東側は神奈川府の管轄となり神奈川県となった。明治9年(1876)には、足柄県は神奈川県に併合され、ほぼ現在の神奈川県が誕生することとなったのである。
 時を同じくして、寺子屋制度を中心とする江戸時代の教育を改めるため、新政府は明治5年8月学制を制定し、学区制定、就学奨励に努めた。厚木市域においては、既にこうした動きに先立ち、前年には郷学校として、厚木村の成思館、小野村の博文社、山際村の淳風館、妻田村の静学館の四校が設立されたという(『厚木市史近世資料編(3)文化文芸』)。
 成思館は明治4年に長福寺(寿町)に開設され、後の厚木小学校の前身となった。同書は次のように述べている。「愛甲郡厚木町長福寺に開設。溝呂木環ら厚木町有志が旧烏山藩主へ出願し、明治4年10月設立。監事一人・事務掛三人・教師一人・助教四人・仕丁一人。生徒男一二〇人・女八〇人。教師森井恕三郎、助教兼習字斎藤七三郎、助教田中信次。明治5年2月旧藩出張役場へ移転。明治六年公立小学成思館となる」。 
 教師恕三郎は仙台の人で、成思館に招かれ単身厚木へ赴任し溝呂木家に居を寄せることとなり、成思館の学則を定めるなど活躍したが、明治7年38歳の若さで他界する(『相模人国記』)。
 彼が何故厚木に赴いたかは知る由もないが、『相模人国記』の著者飯田孝氏は「戊辰戦争の敗北と仙台藩の消滅が厚木来訪を決意させ、見知らぬ厚木へ新天地を求めていたのかもしれない」と述べている。多くの人々の数奇な運命が明治維新という時代の大きな渦の中で波間に漂う枯葉のように翻弄された時代であった。また、斎藤七三郎は後の厚木町長となり、田中信次は三河国額田県(愛知県)士族である(『相模人国記』)。
 明治5年には、烏山県出張役場(旧烏山藩厚木陣屋)が廃止されたことにより、成思館をここへ移し、旧建物をそのまま使用することとなった。明治6年5月には、初めて公立小学校に改められ、「第一学区第二十九中学区第一番成思館」と称することになった。
 その後、この建物は、明治13年(1880)・30年(1897)の二度にわたる火災により類焼し、明治35年(1902)、天王町の西の字八反田一六二八番地に移転し「厚木町立尋常高等小学校」と改称された。この地は現在、厚木市総合福祉センターが所在する。そして、昭和16年には「厚木町立厚木國民学校」、昭和22年には「厚木町立厚木小学校」、昭和30年の厚木市誕生とともに「厚木市立厚木小学校」と変遷し、昭和45年寿町の現在地に移転したのである。進取の気風に富んだ厚木の教育は、その精神を今も引き継ぎ色を失わないでいる。          

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