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荻野山中藩陣屋建設 平本元一 |
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五大藩主大久保教翅により、駿河国松長陣屋(現沼津市)から相模国中荻野村字山中に居所が移され、荻野山中藩が創設されたのは、天明3年(1783)のことである。 荻野山中への陣屋の移設の理由は、明らかにされていない。しかしながら、『荻野山中藩』によれば、財政事情が逼迫していたため、参勤交代に係る経費の軽減を図るためではなかったかと述べている。また、大名の移動が非常に厳しい中で、陣屋の創設が可能であったのは、宗家が徳川家康依頼の譜代の家柄のためであったろうとしている。 さて、天明3年3月、大久保家の代官、三浦 彦七という人物が、中荻野村名主 柳田市兵衛へ書状を送り陣屋選定を依頼している。それによると、中荻野村、下荻野村、三田村の村々で陣屋となる場所を見立て、絵図面を作り四月中に持参するよう命じている。そして、選定の条件として@広さ三町歩、A便利が良い場所、B洪水、山崩れがない場所で飲み水が涸れない場所の三つを上げている。以上の条件に合う場所として、中荻野村、下荻野村入会の地である山中が決定され、8月には一筆ごとの書き上げと絵図面が差し出されたのである(『荻野山中藩』)。およそ五ヶ月の間に場所の選定、説明、補償という多くの作業を市兵衛を中心に村役人がやり遂げたのである。緊急を要していたことが伺える。 こうして買上げられた土地は、敷地一町四反五畝十五歩、道路六反一畝十二歩である。約二万平方メートルという広さである。絵図面をみると、北側の道路(甲州道とみられる)と南に東流する川(荻野川)に挟まれ、西と東に田畑が広がる地であり、中下畑が多く、民家もみられる。そして、先の書き上げによれば、移転を余儀なくされる家は、その引越し入(費)用の補償、土地の反別と地代をありのままに記したとしている。工事の進捗について、『荻野山中藩』では、陣屋の鬼門の方角に配された稲荷社が天明4年7月に勧請されているので、およそ一年で主要な部分が完成していたものであろうとしている。 さて、こうして完成した陣屋の全体像を知る資料に、写しではあるが、寛政3年(1791)の絵図面がある。中央に御殿を配し、役所、表門、裏門、長屋、物置、蒸籠小屋、矢場、馬場、物置、井戸、稲荷、清水などを設けている。また、敷地の周囲は一間〜三間幅の土手を巡らし、生垣も回しているようである。周囲は水田及び畑であるから、陣屋の遠景はかなりの威容を誇っていたのではないだろうか。松長陣屋は、東海道から「大久保長門守役場は入道」へ入ると、陣屋があり、役所、土蔵、住居、長屋、物置、稲荷社、不二庵、井戸、牢屋などが配され、竹垣で囲われ賑やかな場所だったといわれ(「松長陣屋の場所及び施設の検証」『沼津史談』54)、陣屋を構成する施設は山中陣屋もあまり違わないようである。 御殿は敷地の中央に位置している。部屋割りの図で見る限り、東に面する梁間五間半、桁行九間半の部分(表と裏に大戸が見られるので恐らく三間半の土間を有すると思われる)を主構造として、座敷部分の後ろに六部屋を張出して、さらに四部屋を縁側でつなぎ、離れのような造りとしている。北側の門から座敷中央の玄関(十畳)の部屋入口まで通路が延びており、表側に板敷きと見られる表現があるので公的な式台玄関であろう。 また、縁側部分には戸袋と見られる表記があるので、内縁の可能性がある。大名の住居と民家ではやや異質ではあるが、この時代の民家の縁側は外縁一般的である(『厚木の民家3』)。全体的に見ると、L字型の建物に離れの付いたコの字型の形をしたものである。役所は北側に配されているが、その詳細については全く不明である。現存するものは、稲荷社と清水(湧水)のみである。 |
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