厚木の大名 <N029>

荻野山中藩相模国所領     伊従保美

荻野山中藩相模国所領絵図(中央が陣屋、飯田孝氏蔵)   荻野山中藩初代藩主大久保教寛は、元禄11年(1698)、兄忠増の小田原藩相続に際し相模国足柄上・下郡及び駿河国で新墾田六千石の所領を分与された。その中には足柄上郡篠窪・山田・柳村(以上大井町)・栃窪・菖蒲・八沢・柳川村(以上秦野市)・境別所・境・井ノ口・雑色村(以上中井町)などが含まれていた。これらの村々は宝永4年(1707)富士山噴火被害のための領知替えで翌年幕府領となったが、安永7年(1778)には山田村の一部のみ藩領に復した。
 これより以前、教寛は宝永3年(1706)駿河国に五千石を加増され大名になり、さらに享保3年(1718)相模国愛甲郡中荻野村・下荻野村・三田村・妻田村・及川村(以上厚木市)・半縄村(愛川町)、高座郡下溝村・磯部村・当麻村(以上相模原市)・座間宿村(座間市)、大住郡小稲葉村(伊勢原市)十一か村に五千石を加増され、所領合計一万六千石となった。当時は駿河国駿東郡松長村に陣屋を置いていたので松長藩と称し、本領は駿河国であり相模国は飛地といえる。相模国の所領構成は、愛甲郡・高座郡内では隣接あるいは近接しほぼまとまっていたが、大住郡小稲葉村は全く孤立していた。

 五代藩主大久保教翅は、天明4年(1748)駿河国松長から相模国内の所領愛甲郡中萩野村に陣屋を移す。陣屋がある中荻野と下荻野・三田・妻田村は大久保氏の一給支配であるが、この外の村は相給であり、大名でありながらその所領構成は旗本領と何ら変わらなかった。すでに近世中期であり、大名領国の固定化が進んでいたので、藩の中心である陣屋の周辺に領地が集中せず、所領の大部分はむしろ駿河・伊豆両国にあり、一円的な藩領を構成していなかった(『神奈川県史』)。
 前回述べたように大久保教平へ分知した後の本家分相模国所領は以下のとおりである。
 愛甲郡中萩野村
 高六四八石二斗四升七合
 同郡下荻野村
 高六一六石八斗一升七合
 同郡三田村
 高九七六石六斗五升八合
 同郡妻田村
 高八二二石四斗八升一合
 高座郡下溝村
 高二三八石八斗五升八合
 足柄上郡山田村
 高三八七石
 一斗二升一合五勺
 合高三八九〇石
 一斗八升二合五勺 
 これらの六か村は「相模六か村」といわれ、領主支配の一単位となっていた。
慶応4年閏4月、徳川亀之助家達の徳川家相続によって駿河国府中七十万石への移封が決まり、荻野山中藩の駿河国・伊豆国九八六〇石余が上知、その代知として、明治元年10月、相模国愛甲郡戸室・温水・愛名・上古沢・下古沢・林・関口・山際・猿ヶ島・上依知・及川・棚沢・下川入・妻田・愛甲・上船子・恩名村(以上厚木市)・八菅・八菅山新田・半縄・角田村(以上愛川町)が与えられる事となった。
 しかし引継ぎは順調にはいかず、12月には「民撫育之御仁政少茂無之」藩政を嫌い、「相州愛甲郡弐拾九ケ村」から荻野山中藩への引渡免除願が出されている。それに対し明治2年2月には相模六か村が荻野山中藩の善政を神奈川裁判所へ申し出て風聞を打ち消している。
 新しい村々が加わり山中役所は山中民政局と改称された。その後明治2年6月版籍奉還を経て藩主は藩知事となり、明治4年7月廃藩置県により荻野山中県が生まれた。しかし11月には足柄県へ統合され荻野山中県はわずか四か月で廃止される。 

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