厚木の大名 <N037>

箱根戦争         平本元一

箱根戦争の錦絵 『神奈川県史』通史編4近代・現代(1)より転載

 慶応4年(一八六八)2月15日、有栖川熾仁親王を東征大総督とし、薩摩藩、長州藩を中心とする討幕軍(官軍)は、京都を進発した。3月5日、駿府城に入り、同月15日の江戸城総攻撃の号令を発したが、西郷隆盛、勝海舟との会見によりこの攻撃は中止され、翌4月21日、江戸城は開城された。
 官軍の進行により、各藩の動揺は大きく、幕府方に組するのか、尊王の意志を示すのか藩の存亡に係わる重大決定を決めかね、二転三転する状況であった。荻野山中藩の本藩である小田原藩も例外ではなかった。旧幕臣の中には、旧幕府の回復と官軍への徹底抗戦を呼びかけ遊撃隊などを組織する者もあった。
 閏4月12日、上総国(現千葉県)請西藩主林忠崇は、二百名ほどの隊を組織し館山から真鶴(現神奈川県)へ渡り、小田原藩家老へ抗戦の訴えをしたが、小田原藩は「暫く時機を見たほうがよい」というあいまいさであった。実は、この前九日には、大総督府から小田原藩宛に箱根方面などの賊徒打取りの命が下っていたのである。
 5月6日には、伊豆・相模鎮撫のため、因幡藩士中井範五郎、佐土原藩士三雲為一郎二人の軍監が任命され、府員として旧荻野山中藩士松下祐信・小野木守三がいた。19日、林忠崇の遊撃隊は箱根の関所を襲撃し、小田原藩兵と交戦するが、小田原藩は遊撃隊の加藤音弥(元小田原藩士)の「両三日之内徳川家之御軍勢多人数小田原表江押寄セ参候」の言により和睦するとともに、佐幕に転換し、中井範五郎、小野木守三等は殺害された。これに対し、小田原藩監察中垣斎宮の藩滅亡の諫言により、24日、藩主大久保忠礼は恭順の意を示し、城外に出た。このため、小田原藩兵は遊撃隊と湯本の山崎に戦い、遊撃隊は破れ、熱海から館山へ海路敗退した。こうして箱根戦争は終結した。
 旧幕府軍に協力し、軍監殺害という罪に問われた小田原藩は、官位領地を没収され、家老の江戸護送や藩士の斬首などが執行された。これに対し、荻野山中藩主大久保教義は小田原藩の存続の哀願書を提出し、9月27日には大総督府はこれを認め、小田原藩は七万五千石となり、教義の子岩丸(大久保忠良)に継がせることとなった。
 さて、箱根戦争に係わる本藩小田原藩の状況は以上のとおりであるが、支藩荻野山中藩はこの戦争にどのように係わり、どう対応したのであろうか。
 宗家小田原藩が旧幕軍に味方し、軍監殺害に当り、松下祐信は、小田原に追随しては、藩の滅亡に繋がるとの思いから、荻野の地に急行し、藩主教義、家老井戸平格に小田原の現況を報告し、藩とその家臣、多くの領民のため、大総督府への忠誠を説いている。
 「松下祐信自伝」は次のように述べており、藩士の必死の思いが伝わる。
 「小田原ノ現況ニ陳シ宜シク大義親ヲ滅スルノ決断ヲ以テ専心勤王ノ誠ヲ表セラルベシ、若シ或ハ宗支ノ縁故ニ由リ小田原藩ニ左祖セラルル時ハ共ニ賊名ニ蒙リ大久保氏ノ社稷ハ忽チ滅亡セン」。
 教義の即断はなかったが、深夜、許諾がなされた。祐信は、これを受けて、討賊軍の大磯の本営に赴き藩主の言を伝えた。こうして山中藩は勤王を明確にし、政府軍に協力することとなり、結果として、藩の存続が保たれたのである。また、荻野の藩内では旧幕軍の浪士を討伐することと村民の安全を図るため、巡邏隊を組織することとした。こうして荻野山中藩は、滅亡から免れ、前述のとおり、教義の子岩丸は宗家小田原藩を引き継ぐこととなったのである。
 箱根戦争で戦死した藩士小野木守三の供養碑が小田原市板橋の曹洞宗宗福院境内にあり、また中荻野知恩寺境内には大久保教義の額題、松石寺(上荻野)三十三世国穏道寧の書になる遺髻碑があったが、時の流れとともに破損し今はない。

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