厚木の大名 <N07>

間部詮房「厚木藩」      伊從保美

間部詮房木像(村上市・浄念寺)
 近世中期における短期の在藩事例として、間部詮房の「厚木藩」を紹介する。
 間部詮房は6代将軍家宣・7代家継の側用人になり、その寵を受けて立身出世し、最終的には上野国高崎藩(群馬県)五万石を領し、新井白石と共に「正徳の治」をなした。
 詮房は寛文6年(1666)甲府藩士西田清定の長男として誕生。貞享元年(1684)甲府藩主徳川綱豊の小性となり最初は切米百五十俵十人扶持、間部右京(のち宮内)と称した。その後、綱豊の寵愛を受け昇進、宝永元年(1704) 綱豊から改名した家宣が将軍綱吉の養嗣子となり江戸城西ノ丸入りするのに供奉し陪臣から幕臣となった。従五位下越前守に叙任、翌2年正月西ノ丸側衆に加えられ、千五百石加増され計三千石、采地が相模国愛甲郡・高座郡・鎌倉郡に定められた。
 この時、高座郡上大谷村(海老名市)や愛甲郡船子村(厚木市)がその領地となったようだが詳細は不明。宝永3年正月には若年寄格に累進、相模国鎌倉・大住・愛甲・高座郡に七千石加増、一万石の大名に取り立てられた。しかしその支配期間はごく短く、宝永4年12月相模国所領は伊豆国・播磨国へ国替えとなった。それより前、宝永4年7月和泉・摂津両国に一万石加増。宝永6年3月に一万石、同7年には二万石加増され五万石の高崎城主となった。宝永2年正月に三千石の知行地を得てから5年余の短期間で五万石の大名となり、老中格・城主までに昇進したことがわかる(『寛政重修諸家譜』)。
 大名に取り立てられた宝永3年2月の領知目録によると一万石の内訳は、鎌倉郡は城廻村・桂村・原宿村・大船村・上俣野村・植木村六か村高千五百九十四石余、大住郡は豊田本郷村・徳延村・松延村・田村・片岡村・北大縄村・下岡田村七か村高二千九百五十二石余、高座郡は円行村・用田村・寺尾村・上大谷村・鵠沼村五か村高千六百三十石余、そして愛甲郡が厚木村・下古沢村・愛名村・温水村・上船子村・下船子村・妻田村・上三田村・中三田村・下三田村十か村高四千二百八十六石七合となっている(竹内信夫「間部詮房の所領について」『地方史研究』254号)。
 大名に昇進した詮房は相模国支配の拠点として厚木村に「御居所」を構えていたと考えられている。越前国(福井県)鯖江藩士芥川氏の記録「文献 遺」によると、「最初、三千石ヨリ万石ニナラセ玉フ時ノ御居所ハ相州愛甲郡厚木ナリトイフ、余昔歳大山ニ参詣ノ日此所ニ止宿シテ其富庶民ヲ概見ス」とある(竹内氏前掲論文、鯖江は詮房没後養子詮言が移封させられた地)。
 厚木村の居所は家臣を派遣する館程度のものと考えられるが、詮房の所領構成は一円的に領知を形成することができず、各地に散在していたことが特徴でもあるので、江戸から至近で「富庶民」の地厚木をその支配上重視し拠点と定めたと考えられる。厚木村での詮房の石高は明確ではないが、幕領を経て烏山藩領となった石高を勘案すると千八百石を超えるものであろう。大名詮房の出発点はまさにここにあり、支配の詳細は不明だが、後年藩名は居城所在地名を冠したので「厚木藩」があったと考えてもよいのであろう。
 詮房は享保元年(1716)将軍家継が没して吉宗が将軍に就くと側用人を解職され失脚、翌2年領知も越後国村上(新潟県)に移され同5年7月不遇のうち村上で没した。詮房の公務日記『間部日記』は、表の日記には出ない将軍の行動や側用人としての詮房の職務や権限を知り得る好資料である。     

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